戦争をどう考えるか

 ここでひとつ確認しておきたいことがある。

 戦争をどのように語るか(語りうるか)ということは、戦争というものの基本規定にかかっている。いわゆる定義というものだが、困ったことに戦争はうまく定義できない。多くの論者はその断りから「戦争論」を始めているが、近代で初めて戦争を本格的に論じたクラウゼヴィッツ(1780-1831)は、「戦争とは別の手段をもってする政治の延長である」とした。しかし、そこでは「政治」が定義されていないし、戦争はその定義なしの政治の延長としか言われていないことになる。それでも「戦争論」が始められたのは、「戦争」そのものが定義できなくとも、その語で人びとはすでに何ごとかを漠然と(あるいは名状しがたいリアルとして)理解し、その理解に基づいて立論のなかで何が語られているのかをそのコンテクストを通してそれなりに了解するからである。

 よく似たことは他でもある。現代生理学の父と言われたクロード・ベルナール(1813-1878)は、「よき生理学者は、諸器官とその機能の研究に集中すればよいのであって、「生命」などというもの――それは言葉だけだ――に拘泥する必要はない」と言っていたが、たしかに、客観的合理的(科学的)認識は明確な対象以外を相手にできない。クロード・ベルナールの場合には、生命とは「患者が生きているかどうか」によって示される経験的事実であって、その原因と見なされる人間の生理機構しか科学技術の対象にならないということで、とりあえず「生命」は棚上げしておくことを主張したのだが、戦争を論じる場合はそうはいかなかった。

 クラウゼヴィッツが「政治の延長」というときの「政治」とは、「ポリスの運営」に関わる事柄であり(それがポリティクスという語の自明の内容だった)、その当時の常識からすれば、主権国家体制のもとでの「国事」のことである。それも国家間秩序(国際秩序)においては二重である。つまり国内統治と対外関係。だからこの場合「政治」とは「外交」のことになる。もちろん、国内でも権力分立がおこればそれは「内戦(civil war)」で、「戦争論」の範疇に入ることだろう。

 ただ、そのように「政治」の中身がつかめても、「その延長」とはどういうことなのか?「別の形をもってする」とはどういうことなのか? クラウゼヴィッツはじつのところ、戦争は政治と同じ途上にあるがそれとはやり方が違う、と言っている。しかしその積極規定はしていないのである。「力の発動」とは言うが、それは政治の「主体」たる国家の立場での言い方である。ところがクラウゼヴィッツは、その「主体」の立場が解消される事態を「戦争」の本質と考えている。

 このことについては後に立ちもどるが、「戦争」はなぜ積極規定ができないのか?それは「戦争」と呼ばれるものが、それを既定し統御しようとするあらゆる可能性を溢れ出て超えてしまうものだからだ。つまり暴力であり破壊であり、あらゆる秩序を無の坩堝に投げ込む。だから、その認識は「人間的」事象という範疇の限界に向き合うことになる。

 先ほど、「非常時」と言った。つまり人間のまとまり(集団)は共存することで一定程度安定した(いくらかの軋轢や争いがあるとしても)状態が保たれ、それぞれが「平常」の(持続のなかで)暮らしを営んでいる。しかし、その状態が破れ、暴力が方向づけられて解除され、他集団の殺人と破壊が奨励される、そうした特殊状態、カール・シュミットの用語を借りるなら「例外状態」が戦争である。だからそこでは破壊や殺戮に至るまでの憎悪や攻撃性が「徳」(vertusとは力のこと)となり、人間を超えた「鬼神」のような勇敢さとして称えられる。つまり戦争とは、人間がふつうの人間であることが「平常」だとするなら、その人間が集団ごと非人間化してしまう(せざるをえない)「非常時」なのだ。その本質は社会が合理化され組織化され、集団が国家・国民の形をとるようになっても変わらない。

クラウゼヴィッツの「絶対戦争」

 このことを、クラウゼヴィッツは人類学的視点とは別のかたちで意識していた。彼はその戦争の極限を「戦争固有の論理」ないしは「傾向」として留保していた。それは「敵の破壊」という攻撃的な暴力性であり、国家間対立の場合は相対する敵対関係のなかで相互の暴力のせり上げを生み、妥協を排するそのせり上げの激化が(敵より優る破壊力をもつ、発揮する)が、いつしか「政治目的」という戦争の制約を吹き飛ばして露出してしまう。それをクラウゼヴィッツは「純粋戦争」とか「絶対戦争」(自己主張しかない盲目状態)と呼んだのである。

 ただし、彼は、それはあくまで理念的なものであって、「現実の戦争」(実際に起こる戦争)は「政治目的」の下に従属するものだ(べきだ)と考えていた。戦争という強制手段の発動は、一定の政治目的実現のための手段なのだから、戦争それ自体が目的となってしまったら、それは翻って政治(外交)の自滅だということになる。

 少し先走ることになるが、このクラウゼヴィッツの考えは「世界戦争」によって吹き飛ばされる。つまり威力顕示の相互せり上げが軍事力拡張競争として天井知らずになり、敵の国家崩壊や「殲滅」によってしか戦争は終わらない、そんな総動員・総力戦の「世界戦争」が実際に起こってしまったからだ。そしてこの戦争は、戦場でないところに「人間の荒野」を作り出す「最終兵器」の登場によってしか終わらず、それ以後は、「絶対戦争」を体現する核兵器だけが、非宗教的な「神」のように天空に君臨し(最初の核実験は「トリニティー」つまり「三位一体」実験と呼ばれた)、その後の戦争を凍結「抑止」する「冷戦」状態に入ってしまったからである。

 政治の手段であるかぎり「現実的・合理的」であるはずだった戦争が自己目的化してしまい、それ自体が世界統治の破壊的力となった、それがクラウゼヴィッツ的にみた「世界戦争」の意味だといっていい。クウラゼヴィッツの戦争論はもう古いとか、現代の戦争はそれでは語れないと言われるが、そんなことはなく、まさに二十世紀の戦争の本質を射抜く理論的射程をもっていた。それは彼が戦争の「語りえぬ」部分を「絶対戦争」として、つまり「不可能な戦争」として理論化しえていたからである。けれども他の多くの戦争論は、その見えない部分を見ないまま、手段としての戦争を技術的に、あるいは政治の一画としてイデオロギー的に論じる傾きがあった。

 戦争について考えるには、いまでもクラウゼヴィッツは出発点である。そこに「世界戦争」後の人類学的視点を重ねることで、戦争はある基軸をもちながら論じることができるようになる。

ヘーゲル的「世界の全体化」

 もうひとつ指摘しておきたいのは、クラウゼヴィッツの同時代の哲学者ヘーゲルの論理の西洋世界(文明)にとっての決定的な意味である。ヘーゲルは「ポレモス」(ギリシア語の「戦い」であり、ヘラクレイトスの立てた世界の原理)を歴史展開の動因とし、歴史とは人間精神による「自然(他者)」の征服と同化のプロセスであって、それを現実的に担ったのが「労働」であり、「労働」による「生産」が「人間の本質」を作り出したのだとした。そして「労働」はたんなる隷従ではなく、現実との関係を真に作り出すものとして、人間的自由の営みの実質なのだと述べたが、それは哲学的認識というより以上に、一九世紀初頭の「西洋世界の確立」を、それ自体の「自覚」として論理化したものだった(このようなヘーゲルの歴史存在観なしにマルクス=エンゲルスの「階級史観」も生まれなかった)。

 ヘーゲルが自分の哲学(『精神現象学』の「絶対知」の哲学)を「(西洋)精神の自己実現」と言ったのは比喩でも何でもない。「西洋」なるものを言説化すればこうなるという「絶対解」であり、デカルト以来始まった近代西洋の「自分探し」(自己とは何か?)は、ついに満足のゆく答えをもつようになった、つまりゆるぎない「自己同一性(アイデンティティ)」を確立した、という意義をもつものなのだ。

 だから、翻って言うなら、西洋以外の他の地域(違った風習・文化的伝統をもつ)の人びとにとって、ヘーゲルの哲学は「西洋」とは何かを自己呈示しているという意義をもっている。そしてその運動は、その余の(非西洋の)他者を同化・統合して「全体(全世界)」として成就することになる(アジアの私たちも、西洋的世界像のなかでアジアの住人として自己を認知することになる)。

 この歴史観の利点は、それが主客の対立を統合して進展するという弁証法的性格をもっているところにある。どこともわからない無規定な一点から発したもの(主体)が対立関係の統合の積み重ねによって、ついに全体として世界(認識)を形成するという一貫性をもっている。そこで全体とは世界全体だから、この運動を導いた無規定な主体は、「西洋」という自己を実現して、みずからを拡張し、世界そのものとなったということになる。

 これは「近代」の生成と世界の近代化とを同時に語り出す論理となり、西洋が「普遍(世界)」として自らを実現するという「世界化」の運動をも表現していることになる。言いかえると、これが西洋の(同時に世界の)由来と現状とを規定して西洋=世界の「アイデンティティ」を形成しているわけである。それが歴史を通じて自己を実現した「現実的合理性」であり「絶対的真理」だということをヘーゲルは打ち出した。

 このような徹底して自己生成・表出・自己完結的な言説(論述と区別されない言語)を打ち立てたのはヘーゲルが初めてである。だからヘーゲルはそれを、主体でありかつ実体でもある他の何ものにも依拠しない「絶対知」だと言いえた(フォイエルバッハはこれをかなり的確に神学(theology)を書き換えた人間学(anthropology)だと述べたが、マルクスはそれを頭の中の観念論であって、転倒して唯物論化する、つまり「人間的現実」である経済過程の論理に置き換えねばならないとした。彼は言説そのものの実効性――真の認識として通用する作用――を顧慮しておらず、だから後に論理は世界を映すという「模写論」や、「理論に従って実践する」などという分裂行動を人びとに強いることになる)。ヘーゲルの哲学が示したのは「知(知ること)」そのものの規範性、言いかえれば「現実形成力」なのである(こう認識されたことがまさに現実であり、現実とはこの認識の外にはない、という論理)。

 それはさておき、一九世紀以降、西洋によって征服・同化・統合される非西洋世界は、そのような「西洋」に出会っていた。そして西洋によって「否定・支配」されるか、あるいは自ら進んで西洋に同化することで、全体領域のうちにみずからの場を持とうとするか。その後者が近代日本の場合だったと言えばわかりやすいだろう。

 日本の場合、西洋同化を進め(「文明開化」、地理文化的には「脱亜入欧」)、近代国家に身丈を合わせた国家整備を行い、西洋と同じ土俵で世界秩序形成のプレーヤーたらんとした。科学的知の場合、それが原理的に技術的であるから、その技術性に適応しさえすれば、ただちに西洋世界のプレーヤーたりうる。しかし、非技術的領域では(言いかえれば制度的領域では)その同化は容易ではなく、西洋に倣ったつもりが地金が出て、その果てに「近代日本」は決定的に挫折することになる。それが世界戦争での破綻、国家崩壊として露呈したのである。