――先生はニワトリについての本も書かれていますが(『ニワトリ 愛を独り占めにした鳥』光文社新書)、ニワトリが世界中の至る所で飼われてきたというのにも興味をそそられました。

 いまではアグリビジネスだとか言って、アメリカで作られた品種のニワトリと卵が世界を席巻しつつありますが、元をただせば誰にでも飼える、手軽な食料だったはずです。たとえばウシを飼おうと思ったら、農業制度のようなものが、国や共同体レベルである程度整備されてないと飼えません。現場の負担が大きいので、個人や家の単位ではなかなかうまくいかない。その点ニワトリはいい加減な飼い方でも育つし、移動させるのも容易です。それに、ブタのように病気をうつすこともほぼないので、教義上も嫌われることがほとんどなかったんだと思います。

――だから世界中で飼われていたんですね。

 よほど寒いところは別ですけど。

――ニワトリの原種の「セキショクヤケイ」という鳥はふつうに飛べるそうですが、それを家畜化するにあたって飛べなくしたということですか。

 穏やかな性格にしていくのはずっとやってきたと思います。オオカミをイヌにするのと同じですね。実は、セキショクヤケイ(赤色野鶏)はかなり暴れる、扱いにくい鳥なんです。なので穏やかにしていったことは間違いないんですけど、飛べなくなったのは結果論で。簡単な話です。体を大きくしたんですよ。食べる家禽としては大きくないと魅力がないので。それで重くなった。セキショクヤケイはおとなのオスで800gくらいなんですけど、われわれが食べているニワトリは同じオスで3.5kgくらいになります。4倍以上の体重にしたので、飛び上がれなくなっちゃった。

 現代の工場みたいな飼い方じゃなく、農家の軒先で飼っているニワトリは木の枝まで羽ばたいてとまっていたという話がよくあります。いまでも東南アジアで飼われているニワトリには、2mくらいの高さまで飛び上がれるのがふつうにいます。飛翔能力を失ったわけではなく、ただ重くされちゃったんです。

――そういうことでしたか。すごく基本的な話なんですが、性格を穏やかにしたり、身体を大きくしたりというのは、具体的にどうやっていくんですか。

 そういう個体を掛け合わせるんです。おとなしいもの同士、身体の大きいもの同士を。

――なるほど、個体ごとに見ていくんですね。おとなしい両親からは、おとなしい子が生まれると。

 家畜は容易に扱えないとしょうがないので、おとなしくしていくのが基本なんですけど、闘犬用のピットブルなんかは例外ですね。これは檻に入れておかないと危ないくらいの品種で、攻撃的なイヌを掛け合わせてつくっています。スペインの闘牛には、普通の雄牛を闘わせる以外に、闘牛のためだけに育種された品種が存在します。日本の闘牛は和牛を闘わせるだけですが、スペインや南フランスではそのために気性の激しい品種をつくります。

 闘牛の世界はいま動物愛護と言われて、かなり肩身が狭くなっていますが、あれは日本の相撲みたいなものなので、なくせと言われても簡単になくせるものでもないと思いますね。

――闘牛のウシも人間が交配を管理しているんですね。

 あとは軍鶏(シャモ)もそうですよ。シャモは食べちゃいますけど、元はといえば闘鶏のためにつくられてきた品種です。

――身体を大きくしていくのは、同じだけの飼料を与えて、大きくなった個体を掛け合わせていく、ということですか。

 そのとおりです。「同じだけの飼料を与えて」というほど組織立って行われるようになったのはごく最近だと思いますが、昔でもきっと、身体の大きい親からは身体の大きい子がとれると考えたでしょう。食べるための家畜には、絶対的に、身体を大きくしようという動機が働きます。日本では家畜の身体があまり大きくなっていないのは、食べなかったからでしょう。大陸からウシやウマがやって来たけれども、畜力や、侍の足にしかならなかった。それだと、積極的に大きくしようと思わなかったみたいですね。

 そこにあるでかい剥製は「日本輓系種(ばんけいしゅ)」というウマですけど、元になったのはヨーロッパの品種です。ウマを大きくした歴史はそんなに古くなくて、十字軍でだいぶ大きくなったらしいんですけど、要は軍用の輸送装置なんですね。馬車でもって軍事物資を運ぶわけです。ナポレオンが鋳鉄(ちゅうてつ)の重過ぎる大砲を作ったところ人間では引っ張れなくて、ウマが来るまで戦争が始められなかった、ということがあったそうです。日本では明治以降、陸軍を西洋式にするのに伴って洋種をばんばん入れた結果、いまでは日本古来のウマの実像がよくわからなくなってしまいました。

――日本でウシを食べなかったのは、やはり仏教の影響ですか。

 そう言われていますね。どこまで守ったのかはわからないですけども、少なくとも食べ物ではなかったでしょう。日本列島は大陸的な占領行政や統治が及ばなかったので、割と自分たちだけで物事を決めてますよね。徳川幕府は世界的にも稀な、非常に安定した長期政権だったので、ウシを食った者は磔(はりつけ)だって言ったら、誰も食べないですよ。その代わり、光源氏も牛車に乗っていたように、畜力としては長く付き合ってきました。

――話がニワトリに戻っちゃいますけど、現代では卵を産めなくなった卵用鶏を、食用にするのではなく廃棄しているというのはショックでした。

 食べるとすればひき肉にするんですけども、多くは廃棄です。食用にするには流通やら何やらでコストがかかるんですよ。別にマルクス主義を標榜するわけではありませんが、資本主義って、子どもの頃に親から「人にとって、食べ物は命からの恵みだよ、食べ物は粗末にしてはいけないよ」って教わったことに反することを平気でやりますよね。私たちがふつうに、道徳的に、これはよくないんじゃないのと思うことを資本主義は是とするでしょう。

――いやもう、本当にそうですよね……。

 ニワトリはいま日本国内だけで肉用に年間に7億羽殺しています。ものすごい数ですよね。家畜は私たちと同じあったかい血が流れている生きものなので、たくさんの命を奪うことで、食料需給が成り立ち、畜産物貿易ができ、自分たちの胃袋が満たされるのだという感謝の気持ちを忘れないようにしたいですね。ましてや、ニワトリでは廃棄物としての処分が大量に起きているので、現代畜産業は襟を正すことが必要だと感じます。そう思うのがごくふつうの感覚だと思います。

――命が自然の循環から切り離され、人間の都合によってゴミにされるというのは、どうにも納得しがたいものがあります。

 ただ、それを逆に振りすぎると、今度は石器人に戻ろうと言い出す人が出てくるんですよね。現に西欧中心に、肉食とともに技術文明のすべてを否定する人がいますが、個人の思想や生き方としてはもちろん自由ですけども、それを標準として社会に押し付けるのはよくないと思います。両極端は、どちらもすごく変に見えますね。

(取材日:2021年1月4日)