――くり返しになっちゃいますけど、物自体の世界には私たちの知覚はぜったいに届かない。一方で人間は言葉を使って私たちだけの世界、言葉の世界を作っている。ただ、その言葉の世界も、物自体の世界があるからこそ生まれたと考えていいんでしょうか。

 そうでしょうね。物自体の世界から刺激を受けたからこそできた。言語は一つのフィルターだと思うんですけど、そういうフィルターを作ってしまうのも、向こうからある種の刺激が来たからだと思います。

――そのフィルターがない状態というのはありえますか。

 非常に特殊な状況のときに、もしかしたらあるかもしれない。物自体と完全に一体化しちゃうみたいな。ただ、それをわれわれが記憶してるかどうか、あるいは表現できるかどうかは別問題でしょう。ドストエフスキーが『白痴』なんかで、てんかんの発作が来たときに世界と一体化したみたいなことを書いてますけど、そういうのがもしかしたらフィルターのはずれた状態。ただそれは本当に特殊な、非常に危険な状態だと思いますね。

 ある意味で言語というのは、そういう状態にならないような抑止力として、知覚能力にリミットをかけていると言えるのかもしれません。LSDなんかやると世界が全然違って見えるって言いますけど、それももしかすると言語というリミッターがはずれて、物自体と一体化している経験のひとつかもしれない。

――そういえば、恐山の院代をされている南直哉さんが本の中で、坐禅を組んでいると身体感覚が変化してきて、床が痛いとか襖(ふすま)が痒いみたいな感覚になると書かれていた記憶があります。

 世界と一体化するわけですね。

――「自意識が溶解する」みたいな表現をされていました。

 それは面白いですね。

――自分って、ふつうはすごく確固としたものだと思ってますけど、もしかしたら割とカンタンに崩れるのかもしれないって思うんです。自我とか私とかっていうのも、結局は言葉によってつくられてる。

 そうでしょうね。恐らくそうだと思いますね。

――それがなくなっちゃうと全然違う感覚になりそうですよね。

 そうですね。私とか自我、自分、自己っていう言葉なかったら境界がなくなりますもんね。本当に徹底してそれを排除すれば。そして、机とか本とかいう言葉もなくなってくると、もう本当に世界がドロッと融合するかもしれない。

――突き詰めると不思議というか、ちょっと気持ち悪くなっちゃいますけど。

 ある意味危険な状態かもしれませんね。一歩向こうに行っちゃうと戻れなくなるかもしれない。

本当の世界

――小林秀雄のところで詩のお話が少し出ましたけど。詩は普通の言葉では表現できない世界、「本当の世界」を表現できると。

 そうですね。

――それはでも「本当の世界」というよりは別の世界、別の見え方と言った方がいい気もするのですが。

 どう言ったらいいんですかね。言葉そのものが一つの世界をつくっている、現実の世界から独立して、自律的に世界を形成してるわけです。そしてそこでは、現実の世界で経験するリアリティーや感動を、言葉だけで創り出すことができる。だから現実の世界のリアリズムではなく、言葉そのものが持つリアリズムなんですね。

――詩の中の世界、詩という世界をつくるということですか。

 そう、詩という世界です。これはもう現実の世界とはぜんぜん関係なく、言葉同士の関係によって現実の世界を超えるほどの、ある種の感情を喚起する世界。ふつうは関係しないような言葉同士がミックスされることで、まったく新しいリアリティーが生まれる。たとえばロートレアモンの、解剖台の上でこうもり傘とミシンが一緒になったような変な世界が出てくる。そういうのはいくらでもあるわけです。

 もともと言葉は現実を映している、現実があって言葉はそれに従属するものだと思われてきたけど、実はそうじゃなくって、現実の世界の方に言葉が反映される。それくらい、言葉そのものの世界は豊穣で、深いんだということが言えると思います。

――言葉によって逆に現実の方が規定される。

 そういう言い方もできますね。だから明らかに、現実よりも言葉の方がレベルが上っていうのも変ですけど。先ほどの赤ん坊の話でも出てきましたが、言葉がないとわれわれはなかなか現実を認識することができないわけですから。

 われわれには既存の、手垢のついた言葉があるから、共通の知覚の場を開くことができる。これはペンで、これはコップだよねと。それだけだと言葉は現実に従属するものなんだけど、この言葉が本来の自律した力を発揮し始めると、現実の世界よりも言葉の世界のほうが自由で、逆に現実を違ったふうに見せる可能性を持っている。そういう二重性がありますね、言葉には。

――その一つが詩であると。

 だと思います。

――現実以上のリアリティーっていいですね。私自身はそういう感覚を体験したことがありませんが、そういうものを想像するのはわくわくします。

 たとえば夢の中ってすごくわけ分かんないことが起きてるのにリアリティーがあるじゃないですか。

――ありますよね。

 そういうのを言葉は作ることができる、という感じだと思います。たとえば、つげ義春のマンガってものすごくリアリティーがあるんですよ、全然意味分からないのに。窓から夜が入って来たとかいって夜が入ってくるんですけど、いや本当にそうだよなあって思っちゃうっていう。そういうのを言葉だけでも作ることができるんだと思います。

――そのとき、その言葉の奥には何か普遍的な世界、それこそ物自体の世界かもしれないですけど、そういう世界が実在すると思われますか。それとも、手垢のついた言葉がつくる世界、小林秀雄の童話の世界、詩という世界がそれぞれ個々にあるだけで、普遍的な世界なんてものはない?

 あるとは思うんですけど、それはわれわれが想定しているようなただ一つのものじゃなく、想像を絶する、よく分かんないものだと思うんですよね。次元が違うというか、いくつかの次元が入り組んだ非常に複雑な何か。だからこそわれわれはいろんなアプローチをしないとそれに接近できない。

 この世界、現実の世界だって自然は美しいし、地球にはいろんな国があっていろんなことをやってますけど、それだけだと絶対まずいと思うんです。私なんか生まれて60年弱、あと20年ぐらいで亡くなるわけですけど、どう考えたって、何だよ、みたいに思いませんか。なんかもっと向こうの世界、もっとわけの分かんないものがある気がしますけどね。何なんだろう。小さい頃から本当に不思議で。

――その感覚は今も

 変わらない。ずっと続いていますね。

(取材日:2017年8月29日)