前回は、釈尊が肩から炎、足もとからジェット水流を放って空に浮かぶ話でした。ジェット水流は用いないにしても、釈尊が神通力で空を飛んだとする記述はかなり見られますが、今回は釈尊が墜ちたとする経典をとりあげます。しかも、よりによって地獄落ちしたという話です。

 お釈迦様は地獄の人々を救うはずじゃないのか、と思う人も多いでしょう。実際、芥川龍之介の童話「蜘蛛の糸」では、お釈迦様が極楽の蓮池のふちを歩いておられた時、下をのぞくと地獄であって、昔、無慈悲な悪漢でありながら蜘蛛を踏み潰そうとしてやめたことがあるカンダタという男が見えたため、蜘蛛の糸を垂らして救おうとした、という話になっています。

 しかし、仏教を多少知っている人なら、この設定はおかしいと思うはずです。そもそも、極楽は地獄の上にあるのではなく、我々の住む世界の西方のはるか彼方(かなた)にあるとされていますし、極楽にいるのは阿弥陀如来であって、お釈迦様ではありません。

 しかも、この話はもともとは、アメリカに渡って活躍したドイツ人、ポール・ケーラス(Paul Carus,1852–1919)が1894年に書いた英文の仏教説話、The Spider-web なのです。と聞けば、そのドイツ人が仏教を誤解して間違ったことを書いていた、ということになりそうですが、実は、誤った記述をしたのは、この話を鈴木貞太郎(大拙)の翻訳で読んで不適切な翻案をしてしまった芥川の方でした。

 というのは、その原作を書いたケーラスは、ヨーロッパで最新の仏教学を学んでおり、The Spider-web はそうした知識に基づいて、伝統的なインドの仏教説話の形式にならって書かれていたからです。この点については、仏教学の長尾佳代子さんがすぐれた研究を発表しています。

芥川の誤謬

 「蜘蛛の糸」がケーラスの小品の翻案であることは、国文学研究の世界では既に知られていました。しかし、国文学者たちは、当時のヨーロッパの仏教学がいかに先進的で精密だったかを理解していなかったため、仏教理解が不十分なドイツ人が欧米人向けに書いた話を、博学であって仏教にも通じていた芥川が、日本の子供向けにわかりやすい形に書き換えたのだと考えたのです。

 しかし、実際にはそうではありませんでした。インドの伝統的な仏教では、釈尊は正しい教えをすべての人に惜しまずに示す導き手とされており、人々が苦しみから脱することができるかどうかは、その教えを信じて修行するかどうかにかかっています。

 修行しない人、それも地獄にいて心を改めていない人を、「蜘蛛の糸」のように、釈尊が神通力で救って清らかな仏国土に迎えいれることなどあり得ません。前世の業によって地獄に落ちたら、その業が消えるまで地獄ですごさねばならず、その途中で光明にたとえられる仏の教えに接することができ、教えに従いたいと思ったなら、長い時間の後で他の世界に生まれ、そこで修行に努めることができるのです。

 すべての人を極楽浄土に迎え入れるという阿弥陀如来の信仰にしても、救済の対象は、阿弥陀仏の名を唱えた人に限られます。阿弥陀(アミターバ)とは、無限の光明という素晴らしい意味であるため、その仏の名を唱えることは、仏を礼賛するのと同じことになるのです。つまり、仏教的な善行をおこなったことになるのであって、ここでも良い因が良い結果をもたらすという因果応報の論理が貫かれています。何もしない人を阿弥陀仏が気まぐれで救うわけではありません。

地獄に落ちた釈尊

 ただ、そうした仏教の基本図式を理解していなかったのは、釈尊と阿弥陀如来を取り違えた芥川だけではありません。中国でも、釈尊に関するとんでもない主張がなされました。その一例は、六世紀前半頃までに中国で成立した『最妙勝定経(さいみょうしょうじょうきょう』です。

 この経典によれば、過去世に「多聞」自慢であった釈尊は、もろもろの法は存在すると見るのが正しいのか、すべての法は存在しないと見るのが正しいのか、文殊菩薩と議論し、文殊は有と言い、釈尊は無だと言い張って論争したところ、死んだ後、二人とも地獄に落ちたとしています。

 釈尊は地獄で熱した鉄の玉を飲まされる苦しみを無限の長さにわたって受けた後、地獄から出て、迦葉仏に出会ったところ、「一切諸法は、皆な固定した性質を持っていない。有と言うのも無と言うのも適切ではなく、すべては空寂なのだ」と教えられます。そこで、釈尊は林の中に入って坐禅に努めると、七日を経て禅定中で一切の法はもともと空寂であることを悟り、修禅こそが最もすぐれた行だと気づいた、としています。

 いや、凄いですね。釈尊その人ではなく、その過去世の身とはいえ、また、正しい教えを聞いて修行に努めるようになったという話ではあるにせよ、仏の代表である釈尊と智恵で知られる文殊菩薩があれこれ議論した報いで、地獄に落ちたというのです。

 インドでは、釈尊の前身である菩薩に関する過去世の説話、ジャータカが数多く作られました。ただ、前世にウサギであった時、飢饉の年に仙人に食べ物を提供しようして焚き火に我が身を投じたとか、鹿の王であった時、仲間を救うために犠牲になったといった善行の話ばかりです。けしからぬ言動をして地獄に落ちたなどいう話はありません。

 これは、この『最妙勝定経』が作られた当時の中国仏教が、いかに細かな議論ばかりにふけっていたかを示しています。修行の根本である坐禅に努めず、煩瑣(はんさ)な論争に明け暮れる学僧たちがいかに多かったか、ということですね。こうした風潮に反発した人が、禅定こそが最上であるとして、この『最妙勝定経』を作り出したのです。

経典の「効果」

 では、この経典を読んだ中国の仏教徒たちは、どう思ったのか。前世の話とはいえ、釈尊が地獄に落ちたとするなどひどすぎる、これは偽経だと言って怒ったでしょうか。状況は反対でした。

 後に天台宗を開く智顗(ちぎ)(538-598)の師となった南岳慧思(えし)(515-577)は、20歳の時、この『最妙勝定経』を読み、地獄の恐怖に震えたと伝えられています。つまり、仏教の学問に励んでいた慧思は、この経典に接し、自分はこのままだと地獄落ちだと考え、以後、修禅に励むようになったのです。

 慧思はその著作である『諸法無諍三昧(むじょうざんまい)法門』でも、この経典が、どれほど多聞であっても、またどれほど読経に励み、造寺造仏や布施や持戒などの功徳を積んでも、一日一夜の修禅に遠く及ばないと述べている箇所を引用しています。天台大師も、「妙勝定経に云う」として、昔、釈尊と文殊が有無について議論して地獄に落ちたという箇所を引いています。

 『最妙勝定経』はチベット語に訳され、チベットでも読まれました。これは、初めてこの経をとりあげた経典目録である隋の『法経録』(593年)が、「文義複雑にして、真偽、いまだ分かたず」と述べ、真偽未決の扱いにした結果、修禅者たちが尊重して広まったためです。

 しかし、唐代の『開元録』(730年)が偽経と判定したため、次第に読まれなくなり、やがて姿を消しました。再び注目されたのは、1900年に敦煌の石窟の中から10世紀以前の膨大な写本が発見され、失われた多数の禅文献が含まれていることが知られてからです。

 しかも、この『最妙勝定経』は、諸国の探検隊が多くの敦煌写本を自国に持ち帰ったうち、日本の大谷探検隊が入手した写本のうちに含まれていました。これらの写本は、現在では旅順博物館に収蔵されていますが、そのうちの『最妙勝定経』に着目して調査した禅研究者は、智顗の開いた天台宗の学僧である大正大学の関口真大博士でした。これなら、偽経と判定されても、南岳慧思も天台智顗も許してくれるのではないでしょうか。