想像の共同体

――ベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」という考えには結構な衝撃を受けました。自分が日本人であるとか、アメリカ人、中国人、フランス人であるといった国民認識は、日本なら日本という国民共同体に属しているという想像に過ぎない。疑う余地もないほど自明だと思っていたものが、実は実体のない想像力の産物だったのかと。そしてその想像力を賦活しているのがマスメディアであるというのも目から鱗でした。

 見たことも会ったこともない人同士が同じメディアから情報を摂取することで、一つの共同体(国民国家)に属する同胞だと想像できるようになる。それがアンダーソンの議論の面白いところであると同時に、メディアというものの役割を考える上でも非常に重要なポイントだと思います。

 というのも、メディアについて考える際には、それが伝える内容とメディアそのものとを分けて見ていく必要があるからです。メディアが発信する内容は、とりわけそれがジャーナリズムだと、国家から睨まれ、取り締まりの対象になることもある。逆にメディアの方から自発的に国家に協力することも多いのですが。ただ、そうしたこととは別に、メディアというものが世の中に現れたということ自体が社会全体に大きな影響を与えたという面がある。アンダーソンの議論は基本的にそっちの話ですね。

――不特定多数の人が同じものを見るようになったという点では、15世紀に起きたグーテンベルクによる活版印刷の実用化がマスメディア的なもののはじまりだと考えられますか?

 そう考えていいと思います。印刷技術自体はグーテンベルクの発明以前からアジアではすでに用いられていましたが、世界史的な意義を考えると、やはり彼の影響は大きかったと言えるでしょう。これもアンダーソンが言っていることですが、印刷技術が出てくる前は当然、文書はすべて人の手で写していました。するとどうしても、その時代や地域に特有の言葉遣いなどに影響されてテクストが不安定になり、後世の人が読んだときに意味を正確に理解することが困難になる。しかし、印刷技術によってまったく同じ文書が大量に刷れるようになると、そうしたテクスト毎の差異が解消され、何世紀も前のテクストでも比較的、容易に読めるようになった。結果、昔と今を連続したものとして捉えられるようになったというのです。

――同時代を生きる「見知らぬ人」だけでなく、既に鬼籍に入った人も「想像の共同体」の同胞として考えられるわけですね。国民国家が生まれる以前のヨーロッパではキリスト教が支配的な力を持っていて、グーテンベルクが最初に印刷した書物も聖書だったという話を聞いたことありますが、その頃はやはり教会が布教や権力の行使に活版印刷を利用していたということでしょうか。 

 キリスト教というのはそうですけど、最初に活版印刷を活用したのはカトリック教会ではなく、むしろその支配に抵抗したプロテスタントの方ですね。教会の強大な権力に抵抗するには、多くの人びとの心に訴え、味方になってもらう必要があるので、自分たちの主張を記した文書を大量に作れる活版印刷はまさにうってつけだったわけです。このように、メディアを使って人びとを扇動する手法は後に「プロパガンダ」と呼ばれるようになりますが、興味深いのは、この言葉は元々、プロテスタントに対抗してカトリックの教えを広めるための組織の名前だったということです。

――そうだったんですか!

 なので、「プロパガンダ」は、カトリック地域では肯定的な響きをもつ言葉だったんです。これに対して、プロテスタント地域では、間違った教えを広める連中ということで、逆にものすごくネガティブな言葉でした。といっても、プロパガンダは長い間、それほど頻繁に使われる言葉ではありませんでした。しかし20世紀に入って戦争が国同士の総力戦になり、どれだけ多くの国民を動員できるかが勝敗を分けるようになると、世界中で広く使われるようになったわけです。 

――プロパガンダの一般的な定義は、マスメディアによる政治的な宣伝といった感じですか。

 そうですね。基本的には政治宣伝と訳しますけど、簡単に言うと、メディアを使って、自分がターゲットしている相手を思い通りに動かそうとすることです。ただそれも、必ずしも相手の理性や感情に訴えて説得的に動かすわけではなく、特に最近では説得するということが重視されない例も見られます。 

――と言いますと?

 これは権威主義国家でよく使われる手法なんですけど、ウソか本当か分らない情報を、ソーシャルメディアなどを使ってとにかく大量に流すんですね。すると人びとはどの情報を信じればよいかわからず、変化よりも現状維持を選ぶようになると。つまり、権力者が自分たちの体制を維持しようと思ったら、まじめに説得するより、訳のわからない情報を流して思考停止にさせた方が、人びとを楽にコントロールできるというわけです。

プロパガンダ「神話」ができるまで

――プロパガンダというと、個人的には真っ先にナチスが思い浮かびます。ラジオを使ったものや、リーフェンシュタールの記録映画『意志の勝利』等が有名ですが、ナチスが戦間期のドイツで覇権を握ったのはこれらが功を奏した結果だと考えられますか。

 ナチスのプロバガンダの効果をどう見るかというのはすごく難しくて、というのも、彼らがラジオ放送をするようになったのは政権を取った後なんですよ。NHKの『映像の世紀』なんかを見ると、ヒトラーの演説を聞いて民衆が熱狂していますけど、あれもやっぱり政権を握った後の映像です。なので、ナチスが民衆の支持を獲得していく過程にプロパガンダがどこまで寄与したかというのは、はっきりとはわからない。

 その一方で、「プロパガンダが優れていたのでナチスは政権を取れた」ということになった方が都合のいい人たちがいて、それは他ならぬナチスの支持者たち、つまりは当時のドイツ国民です。これはメディア史を研究されている佐藤卓己先生が言っていることですけど、自分たちは積極的にナチスを支持したのではなく、狡猾なプロパガンダに騙されたんだと言っておけば、彼らは加害者ではなく被害者になれる。つまり、プロパガンダの効果を過大に見積もることで、ある種の責任回避ができるんです。

 これは当時のドイツ国民に限った話ではなく、メディアにどれだけの影響力があるのかということ自体が、実は非常に政治的な側面を持っていて、それを語る人の都合によって大きくなったり小さくなったりするわけです。

――「メディアに乗せられた」ということで責任回避ができるわけですね。逆に「メディアの影響力は小さい」とした方が都合がいいのはどんな場合ですか。

 たとえばテレビ局です。テレビ番組というのは犯罪を誘発する等の理由で規制の対象になりがちなので、メディアの影響力は大したことがないと思われていた方が、自分たちの好きなものを放送することができる。マスコミュニケーションの学説史には、1940年代から60年代のアメリカで支持された「限定効果理論」という学説があります。文字通りメディアの効果は限定的であるという議論ですけど、こういう研究をするとテレビ局から研究予算が降りてきたわけです。

 ただ、そのテレビ局も、広告スポンサーを獲得するという面ではメディアの効果が小さいとなるのは都合が悪い。なので、メディアの効果をめぐる議論は本当にレトリカルというか、同じ人でも時と場合によって主張が変わってくるところがあるんです。 

――当のメディア自身が、自分たちの影響力を小さく見せたがることがあるというのは面白いですね。

 プロパガンダに話を戻すと、第一次大戦でドイツはイギリスやフランスを中心とする連合国に敗れたわけですが、第二次大戦ほど壊滅的にやられたわけではありません。戦争をしている最中にドイツ革命が起きたので、停戦せざるを得なかったんです。そのときドイツ軍を率いていたルーデンドルフは、自分たちは戦場で負けたわけではない、革命によって背後から刺されたのだと言いました――とはいえ、ドイツが押されていたこと自体は間違いなく、ルーデンドルフ自身が皇帝に休戦を進言しています――。じゃあなんで革命が起きたのかというと、それはイギリスのプロパガンダが強力で、ドイツ国民はまんまとそれに騙されたのだと。これも一種の責任回避ですね。

 この話を聞いて喜んだのは、イギリスのプロパガンダの担当者たちです。ルーデンドルフの言うことが本当なら、すごい功績ですからね。自分たちのおかげで戦争に勝てたんだと。するとそこに、ある種の共犯関係が生まれる。 

――ウィンウィンになるわけですね。

 こうした経緯もあり、第一次大戦後の1920年代には、プロパガンダが戦争の勝敗を決めるという「神話」がまことしやかに語られました。1939年に第二次大戦がはじまるわけですが、イギリスにはこの「成功体験」があるので、今度も勝てると高をくくっていた。最初に経済封鎖をし、ドイツ国民が干上がったところにプロパガンダを流せば、内部から崩壊するだろうと。ところがいつまでたっても崩壊しないどころか、逆に自分たちがヨーロッパ大陸から追い出されてしまい、イギリスは戦略の変更を余儀なくされたわけです。 

――ナチス相手には通用しなかったと。 

 第一次大戦でうまくやられたという記憶があるので、今度はドイツも警戒してかかるわけですよ。それ以降、プロパガンダを仕掛ける際には、どうやってターゲットの猜疑心をかいくぐるかが重要なポイントになっていきました。