「私たち生きもの」の一つであるヒトが、現在の私たち、つまり文化・文明をもつ人間という存在でもあるというこの重なりが生まれたのが、7万年ほど前に起きた「認知革命」です。これ以降は人間独自の歴史の時代に入るのであり、その変化の中で最も注目すべきものである言葉がどのように生まれたかを見てきました。言葉の誕生についての決定的な証拠を探すのは難しいので、さまざまな考え方が出てきます。その中で私は、家族や仲間たちとの人間関係を築き、日常の情報伝達をスムーズに行う必要の中で生まれた歌を起源とするという説に共感すると述べました。

 赤ちゃんが周囲の人との関わりの中でだんだん人間らしくなっていく様子や、むずかる赤ちゃんに悩まされながら子守歌を歌っているお母さんの姿は、私の体験と重なって情景がまざまざと浮かんできます。ここからは、単なる情報伝達を越えた心の交流を感じとれます。これこそ言葉が存在する意味ではないでしょうか。言葉の誕生というと、自分とは異なる古代人をイメージしながら考えてしまいますが、ホモ・サピエンスとしてはほとんど変わっていないのですから、私にとっての言葉の意味を思いながら考えることが大事です。

噂話の効力

 ところで、人間が直接関わり合える仲間の数を150人としたR・ダンバーが、仲間づくりにとっての言葉の重要性を指摘しています。彼は、人間が最も関心を持つ情報は人間仲間についてのものであるはずだと考えます。誰々さんがどこどこでこんなことをしていたよという、いわゆる「噂話」です。確かに最近のSNSでのチャットやTwitterの様子を見ると、噂話好きは人間の本性にみえますね。

 私はメールのやり取り以外何もやっていませんので具体的なことは知らないのですが、報道されるTwitterなどの様子から、古代の人も噂話が大好きだったのではないかという説には真実味があります。ダンバーは、人間は社会的動物なのだから仲間内の信頼関係が大事であり、そのためには、周囲にいる人たちがどのような人で、何を考え、お互いどんな関係にあるかという情報をもつことが重要だというのです。

 毎日一緒に生活している家族ならお互いのことが分かるけれど(実は分かってないことも少なくないと思いますけれど)、時に狩猟を共にする仲間となると分かりにくくなります。そこで、噂話をし合っていつもは会っていない人のことも分かるようにしておけば、仲間意識を保てるというのです。しばらく前までは井戸端会議と言いましたが、今ならチャットですね。言葉をもち噂話ができるようになったことが、大勢の仲間をもつという人間特有の能力につながるというのですから、ダンバー先生のおかげで噂話も出世したものです。

 直接関わりをもつ人数であるダンバー数は150人ですが、お友達のお友達のそのまたお友達……というように六段階になると、誰もが世界中の人とつながっているという研究があります。ディズニーの言うように「It’s a small world」なのです。

 噂話は大きな広がりを作るものであり、しかも時に尾ひれがついて広がっていきますので、言葉の恐さも知っておかなければなりません。とくにTwitterなどでの広がりは、速さも範囲もこれまでよりはるかに大きいので、問題はより深刻と言えましょう。

言語の誕生と手話

 ところで近年言語としての重要性が指摘され始めているものに手話があります。最近は、記者会見や講演会でも手話通訳がつきますので、どなたもご存知でしょう。ただ、20年ほど前に手話について調べ、その後ろう教育に携わってきた友人から、「日本手話」と「日本語対応手話」とがあると教えられ、これはあまり知られていないのではないかと思うのです。講習会で教えられているのはほとんどが後者であり、手話単語を日本語の語順通りに並べるものです。日本語を母国語としている私たちにはわかりやすいのですが、本来の手話はそれとは異なると分かりましたので、言語とは何かを考える流れの中で考えるのは「日本手話」です。

 「日本手話」は自然言語であり、日本語とは無関係にろうあ者のコミュニケーション手段として自然発生したものです。このような手話は世界各地にありますが、自然言語ですから、音声を用いる言語と同じように、世界中どこでも通じる共通言語は存在しません。アメリカ手話、フランス手話と、それぞれ特徴をもつ手話になります。日本手話に方言があると教えられ、言葉はまさに暮らしの中で生まれるものだと実感しました。

 手話を通して言語の誕生を知ることのできる例としてよく知られているのが、ニカラグアの手話です。1977年、ニカラグアに初めてろうあ学校ができて30人ほどの子どもが入学しました。それまでニカラグアに手話はなかったのですが、ここに集まってきた子どもたちの間で手話が生まれ、その後入学して来る子どもたちに受け継がれていきました。この学校は順調に継続、入学者も1983年には400人にまでになりました。その間に学校内だけでなく社会にも広まり、ニカラグア手話として体系化し用いられています。音声でのコミュニケーションが困難な仲間がお互いの意志を通じ合わせようと模索することで言語が生まれること、それが徐々に進化して体系化していくことを示すこの例は、人間にとっての言葉の生まれ方やそれのもつ意味を教えてくれます。

 話が少しずれますが、「日本手話」の存在を教えてくれた友人によると、日本の教育界では、これが本来の自然言語であるという評価がきちんとなされておらず、教育に積極的に取り入れられていないのだそうです。自然言語の重要性を理解してろう者の教育を考えて欲しいと願った彼は、日本手話を用いる学校をつくりました。

 手話が言語であることを明確に示すのは、これが左脳で処理され、左脳に損傷が起きると失語症が発生するという事実です。ジェスチャーの場合、右手を使う時は左脳、左手を使う時は右脳がはたらくことがわかっていますので、手話は単なる手の動きではなく言語なのだということが、ここからも分かります。因みに、チンパンジーはジェスチャーによるコミュニケーションはしますが手話にはならず、ここに人間の独自性が見えてきます。

脳科学から見た言語

 「私たち生きもの」というところから始まって、言葉についてあれこれ考えてきました。人間の言葉は、他の生きものとつながりをもちながら、やはり独特のものですから、私たちの脳の発達と関わりがあるに違いありません。20万年ほど前にアフリカで誕生した私たちの直接の祖先であるホモ・サピエンスの脳は、現代人と同じでしたから、脳の構造としては言葉を話す能力が備わっていたと考えてよいでしょう。前回紹介したFOX2という遺伝子で二つのアミノ酸が変化する変異も、この時すでに起きていたことが分かっています。

 そこで、人間の言語を脳のはたらきと関連づけてその独自性を認識していくことが重要になります。「私たち生きもの」という視点から、仲間と共に生きていくために不可欠なコミュニケーションとしての言葉の意味を忘れることなく、しかし、現代文明のありようを考えるという本書の立場からは、人間独自の言語、つまり思考の手段としての言語について考えないわけにはいきません。

 言語の脳科学研究は現在進行中であり、さまざまな考え方や成果が出ておりすべて決まりという状況ではありません。その中で、酒井邦嘉東大教授の「言語とは、心の一部として人間に備わった生得的な能力であり、文法規則に従って言語要素(音声・手話・文字など)を並べることで意味を表現し、伝達できるシステムである」という定義のもとに進められている研究に関心があります。人間の脳─心─言葉の関係を解く科学こそ人間独自の言葉を知るために不可欠です。

 非常に難しいテーマですが、このような考え方を始めて明確に主張したのは言語学者ノーム・チョムスキーでしょう。この考え方を出したのは1950年代ですから、脳科学研究はもちろん、生命科学研究すら曙時代でした。そのような頃に、言語の学習によって身につける各言語のもつ「個別文法」の前にすべての言語に共通な「生成文法」があり、これは人間に生まれつき備わっているものとしたのです。確かにどこで生まれた子どもも言葉を話します。そこで、この誰もが持つ統語能力を「普遍文法」と呼ぶというチョムスキーの考え方は、脳科学研究による解決を求めるものです。

 酒井邦嘉教授は、左脳に存在し、言語に関わることが明らかにされてきたブローカ野、ウェルニッケ野、角回・縁上回の他に新しい領域を見出されました。ブローカ野はそこに損傷が起きると発話の障害が起こり、ウェルニッケ野の損傷では話し言葉の理解や発話時の言葉の選択に障害が起きます。角回・縁上回は両者を結びつける役割をしていると考えられます。酒井教授は、既知のこれらの領域の他に、まさに文法に関わる領域があることを示されたのです。

 細かいことに触れる余裕はありませんが、チョムスキーの提唱した言語生得説は、今後更に裏付けられていくように思います。更に興味深いのは、音楽を聴いたときにもこの領域が特徴的に働くということです。音楽と言葉のつながりが脳研究からも明らかにされていくだろうという全く新しい世界が見えてきたのですから凄いことです。

 このように、言語を脳科学の問題として理解するという態度と、個体間のコミュニケーションのために発達したものとして理解するという立場とは、決して対立するものではないでしょう。一人一人の頭の中で思考の方法として生まれる言語は、他の人々とのコミュニケーションの手段として重要であり、その側面から検討する必要のある性質をもっていることはすでに見てきた通りです。学問をする人は、一つの説を主張すると他を否定しなければその存在意義がないかのように考えがちですが、自然を対象にする時は、こちらの考えもあちらの考えもありとなるのではないでしょうか。生命誌としては、言葉が個体と社会の双方から解かれ、自然科学と社会科学の成果が結びついていくのが楽しみです。

 ダーウィンの進化論を否定する説がよく出されますが、どれもダーウィンの考え方があったうえで、それもありですねという説になっているという例に出会ってきましたので、言語についてもそのように思いました。

 今回は芸術にも触れてこの項を終わろうと思っていたのですが、言葉の話で紙幅が尽きました。次回になります。