文化・文明をもつ私たち人間はヒトという生きものであり、「私たち生きもの」という感覚を持ち続け、それを基に社会を組み立ててこそ、一人一人が本当に生きていると実感できる状況をつくれるのではないか。そう考えています。

 そこで、他の生きものとつながりながらなお、ヒトという生きものが獲得した独自の能力を見出し、それを生かして生きてきた過程を追ってきました。人間らしさにとって共食が思っていた以上に大きな意味をもつことなどが分かりましたが、やはり最も重要なのは言葉です。

 そして、恐らくそれと連動しているであろうこととして最後に考えたいのが芸術です。さまざまな地域で発見された洞窟画は以前から話題になっていますし、かなり古い時代から芸術活動と思われるものが行われていたことは知られています。とはいえ、改めて人間独自の活動としての芸術について考えようとすると、そもそも芸術って何だろうというところから問わなければなりません。

 そこでいつものように愛用の新解さん(新明解国語辞典)を引きました。「一定の素材・様式を使って、社会の現実、理想とその矛盾や、人生の哀歓などを美術表現にまで高めて描き出す人間の活動とその作品。文学・絵画・彫刻・音楽・演劇など」とあります。因みに広辞苑では「一定の材料・技術・様式を駆使して美術価値を創造・表現しようとする人間の活動及びその所産」です。

 言葉についてはすでに見てきましたし、音楽がもつ基本的な意味も考えましたので、ここでは主として絵画・彫刻などの造形芸術をイメージしながら考えていきます。芸術は、美的価値の創造・表現であり、その背景には社会や人生における矛盾・哀感などがあるとされています。役に立つとか立たないとかということは抜きにして、何かを表現したいという気持ちの現れなのです。

 でもそれが、人間が人間であることとどう関わるのか。これまでと同じように、生きものの世界ではどうなっているだろうというところから見ていきましょう。 

生きものの世界の「芸術」

 すぐに気づくことは、生きものたちが作る自然に私たち人間が美しいと思うものがたくさんあるということです。バラもタンポポもスミレも美しい花を咲かせます。多種多様な昆虫にはみごとな色彩と模様をもつ仲間がたくさんおり、時に歩く宝石と呼ばれるものもいます。葉っぱ一枚とっても、その形や色彩に美しさを感じますし、とくに季節と共に緑の色合いが変化していく様子など、人の力では表現しきれないと思う美しさがあります。私の家からは丹沢の向こうに富士山が見えるのですが、毎日見ても倦きません。とくに夕日が落ちた後のシルエットはありきたりな言い方ですが絵のようです。

 ところが現代社会は、このような自然の美しさの中での暮らしを避け、都市化を求めてきました。自然に近い存在であり続けながらそのうえで新しい技術を活用する生活だってできたはずですが、それを求めず、自然離れをして機械の中で暮らす今のような方向へと動いてきたのはなぜなのでしょう。この連載のテーマはここにありますので、これから先、この問題を考え続けることになります。

 ところで、生きものを含む自然に美しさを感じとる能力は、他の生きものたちにもあるのでしょうか。それともこれは人間特有の能力なのでしょうか。調べた限りではこの問いへの答えは見つかりませんでしたが、私は人間特有のものではなかろうかという気がしています。どうお考えでしょう。

 他の生きものたちについて、たとえばニューギニアで生態学の研究をしていたJ・ダイヤモンドによる、美しい小屋を作るアズマヤドリの紹介があります。直径が2.4mもあるその小屋は、石などが除かれてきれいにされた床の上に花や葉や果物、更にはチョウの翅(はね)などが色毎に分けて並べられています。このように飾りたてた小屋はオスがメスを呼び込むためにつくるものであり、種によって青を好むもの、赤や緑を好むものとさまざまあるとのことです。すばらしい飾りをつくれるオスほど優れているということなのでしょう。ただ、アズマヤドリがこれを美しいと思っているかどうかは分かりませんし、この小屋には子孫を残すためという生きものとしての目的がありますから、芸術の始まりをここに見るのは無理があるとダイヤモンドは言います。賛成です。

 動物園には絵を描く動物たちがいますが、これはどうでしょう。ロシア侵攻を受けたウクライナ支援のために、千葉県にある「市原ぞうの国」がゆめ花という名のアジアゾウの描いた絵を販売するという話が報じられていました。鼻を使ってキャンバスにきれいな色の絵を描いていく姿は可愛いものです。タイでは絵を描くように訓練されたゾウたちが何頭も育てられており、絵の市場もあるとのことです。ゾウの場合、絵を描く複雑な過程を記憶しているということらしく、その能力の高さには驚きますが、自然界には絵を描くゾウはいません。人間が素材を用意して初めて行われることであり、ゾウの世界にも芸術があるとは言えないでしょう。

 チンパンジー、ゴリラ、オランウータンなどの類人猿やサルも、飼育下では絵を描きます。夢中で何枚も描き続け、筆をとりあげられると怒るチンパンジーもいるとのことですから、絵描きになる素質があるチンパンジーがいるのかもしれません。しかし、チンパンジーも自然界で絵を描くことはありません。忙しくて描く暇はないのかもしれないとは、野生のチンパンジーを観察している研究者の感想です。それはともかく、類人猿の世界にも芸術があるとは言えないようです。このような例からも、芸術はヒトという生きもの独自の世界と考えてよさそうです。

芸術は「私たち」のいる空間の把握

 ここで改めて人間にとっての芸術とは何だろうと考えている時に、これぞという言葉に出会いました。言葉について考えたところでお名前をあげた脳科学者酒井邦嘉さんとの対談で、日本画家の千住博さんがこうおっしゃっています。

芸術とは何かと言うと、「私たち」のいるこの空間を把握したい、という行為なのです。「芸術に個性は必要ない」と私は言い続けています。必要なのは、個性ではなくて、世界認識のための「切り口の独創性」なのです。常に芸術は「私は」ではなく「私たちは」という発想です。「私たちは」どのような世界に生きているか、という「世界表現」が芸術です。多くの方が間違えていますが、「自己表現」ではないのです。(『科学と芸術 自然と人間の調和』(日本科学協会:編 中央公論新社)

 まさに知りたいことでした。ここでの「私たち」はもちろん、人間である私たちです。芸術は人間だからこそのものであり、そこで重要なのが「私たち」であるという明快な答えを得ることができました。

 人間には、私たちのいるこの空間を把握したいという願望があり、明確な把握のために必要なのは「切り口の独創性」であるという考え方は、この連載のテーマそのものです。芸術の側から考えていくと、「私たち」は当然人間に限られますが、生命誌は「私たち生きもの」という感覚をもつことを求めています。この感覚を芸術に生かしていけば、一つのオリジナリティある切り口になるはずです。この対談では、お相手の酒井さんが「科学も全く同じです。個性を磨いて研究するのではなく、重要な発見は切り口の新しさにあります。(中略)単著の論文では著者を指してwe(私たち)を使う習慣があります」と答えています。確かにそうです。この習慣は大事なことを示しているのかもしれないと気づきました。

 芸術は人間らしさを特徴づけるものであり、そこで「私たち人間」という意識をもつことによって本当に人間らしく生きられるという大事なことがわかりました。ここでレオナルド・ダ・ヴィンチの顔が浮かび、ピカソの『ゲルニカ』が見えてきて、私たちの生き方を考える上での芸術の重要性を改めて感じた次第です。この連載では、世界を捉える独自の切り口として、「私たち生きもの」という意識をもつことを提唱しており、ここでもそれを思い出していただきたいのです。それが生命誌の立場であり、今考えたいことですから。

 芸術の始まり

 そこで、ダ・ヴィンチやピカソを心の中にしっかりとしまいながら、まずは芸術の始まりに目を向けます。7万年ほど前、認知革命が起きた時に、私たちサピエンスの祖先の他にもネアンデルタール人やデニソワ人が存在していましたが、ここでは原則としてホモ・サピエンスについて考えていきます。芸術が私たちの世界認識を示すものであるなら、古代の人々が周囲の自然をどのように見ていたかということが重要であり、恐らくそこにはアニミズムがあっただろうと多くの研究者が指摘しています。

 日本人の場合、少なからぬ人が今も山や森との間に通じ合うものを感じていると思います。宮沢賢治の童話『なめとこ山の熊』を御存知ですか。東北の山に暮らす熊撃ち名人の小十郎は、熊の毛皮や肝を町で売って生計を立てています。ある時熊が、銃を構えている小十郎に「おまへは何が欲しくておれを殺すんだ」と問い、「もう二年ばかり待ってくれ。二年目にはおまへの家の前でちゃんと死んでゐてやる」と言います。もちろん熊はその約束を守ります。全体を語る余裕はありませんが、ここにはヒトとクマが対等に語り合っています。対称なのです。小十郎と熊の心の動きには惹かれるものがあり、現代社会での人間と自然を対立させて考える社会に慣れている人に是非読んでいただきたいと思います。アニミズムは、今後続けて考えていく必要のあるテーマとして残し、話を元に戻します。

 認知革命が起きたとされる7万年ほど前は、私たちの直接の祖先であるホモ・サピエンスの他にネアンデルタール人なども生存しており、近年、ホモ・サピエンスとネアンデルタール人との交雑があったことが分かってきていますので、両者が同じような場で暮らしていたと考えられます。ネアンデルタール人に関しては恐らく言語をもたなかっただろうと考えられ、また明確な芸術活動を示す遺跡も発見されずにきました。

 実は近年、スペインのラパシエガ洞窟の壁画が65000年前のものであり、ネアンデルタール人が描いたとする説が出ています。ホモ・サピエンスがヨーロッパで暮らし始めたのは45000年ほど前からとされますので、それ以前に壁画が描かれたとすればネアンデルタール人としか考えられません。40万年もの長い間ヨーロッパに暮らしていたネアンデルタール人が65000年前頃になって初めて壁画を描くようになったとすると、そこで彼らにも認知革命と呼ぶような変化が起きたのでしょうか。専門家の間でも議論されているテーマですので、ネアンデルタール人とはどのような人だったのだろうという大きな問いの中で、これから解かれていくことを期待します。私たちの祖先との間の交雑の実態も含めて今後の課題です。

 サピエンスについてはヨーロッパに暮らしていたクロマニヨン人が描いたとされるフランスのショーヴェ洞窟やスペインのアルタミラ洞窟の壁画がそれぞれ36000年前、35000年前とされ、このような活動はヨーロッパで始まったとされてきました。ところが21世紀になって南アフリカにあるブロンボス洞窟で73000年ほど前のものとされる、格子模様の刻まれた顔料の塊が見つかりました。その後すぐに貝殻でできたビーズ、顔料の詰まった貝殻なども出てきました。格子状の模様はシンボルとしての意味がありますので、ここで視覚的なシンボルを持つようになっていたことは確かです。

ショーヴェ洞窟の壁画

 従って、認知革命はヨーロッパで起きたのではなく、アフリカでそのような能力を獲得したヒトが、アフリカを出て世界各地に広がったと考えられるようになりました。それを示す一例として、インドネシアのリアン・ティンブセン洞窟には39900年前頃のものとされる手形の並ぶみごとな壁画があります。ここから、シンボルとして模様や手形を残すことから始まり、その後、動物などの姿を描く時代が来たという流れがみえてきます。

 チンパンジーに絵を描かせてみると、点や線を描くだけでものの形を表すことはないという結果が出ています。模様を描いたり手形を押すことと、眼で見たものの形を描くこととの間には大きな隔たりがあるようです。前述のショーヴェ洞窟、アルタミラ洞窟や19000年ほど前のフランスのラスコーの洞窟などで発見される多くの絵はウマ、バイソン、クマ、フクロウなどの動物であり、しかもそれが生き生きと描かれているのに驚きます。手形や記号のような図形にももちろん描く意味はあったわけですが、35000年ほど前のヨーロッパで芸術にとって重要な一歩を踏み出す動きがあったということでしょうか。

 木炭で描かれているもの、オーカーなどの顔料で塗られたものがあり、茶、黒、赤、黄などの色彩もみごとです。ここに名前をあげた洞窟は有名ですが、これ以外にも多くの洞窟壁画が知られており、認知革命以後の人間生活の動きを知る大きな手がかりです。これらの活動がどのような形でどのような時に行われ、どのような意味を持っていたのか。

 狩猟の成功や動物の繁殖を願う呪術の意味があるのではないかという考え方がよく示されます。洞窟の仲は音響効果もよく、音楽も行われたと考えられており、宗教的な意味を与える説も出ています。とにかく、洞窟内の活動が仲間たちの結束を高める役割をしていたことは確かなようです。単なる暇つぶしという説もあり、まだまだこれからの研究が必要ですが、芸術の始まりと受け止められる行為がこれだけ古くから存在したことは確かであり、私たち人間は本来自身の中にある思いの表現を求めているのでしょう。

 ここまで数回、生きものの中での人間の特徴を見てきました。次からは、これを踏まえた私たちの生き方、社会のありようを考えていきます。難しい課題ですが、今必要なことだと思いますので。