いま大学院の演習で読んでいるのは、ウィトゲンシュタインの『哲学探究』(Philosophische Untersuchungen)、ホワイトヘッドの『過程と実在』(Process and Reality)、西田幾多郎の「場所」、そしてレヴィナスの『全体性と無限』(totalité et infini)という三冊と一論文です。ウィトゲンシュタインの『哲学探究』は、大学院で読むのは、二回目ですので、一度は、読了した(十五年くらいかけて?)ということになります。『過程と実在』は、読み始めて、もう二十年近くになるのではないでしょうか。とにかく地道に読んでいるというわけです。参加している大学院生の専門は、いろいろですが、いまは、なぜかレヴィナスの専門家が三人と一番多くなっています。不思議ですね、私はレヴィナスの専門ではないのに。

 毎回うんざりしながらしつこく読んでいきます。本当に骨が折れます。翌週の演習に読む哲学者の本は、演習の日まで毎日同じ箇所を何度も読みます(いわゆる予習というやつですね)。すると、かならず毎日(!)何かしら発見があります。こっちの頭が悪いのか、それが古典というものなのか、いままでも嫌になるくらい読んでいるのに、そのつど新たな発見があるなんて!どういうことでしょうか。謎です。

 この四人の哲学者の本を読んだことのある方は、おわかりだと思いますが、どの哲学者も、一筋縄ではいかない一癖も二癖もある困った人たちです。だから、とことんつきあって、それぞれの哲学者の懐深く入り込まないと、何も教えてくれません。まるで、本当に親しくならないと、腹を割って話をしてくれない人嫌いの人たちのようです。だから、哲学書を読むというのは、情報や知識だけを手に入れるような読書とは対極にある読解作業だと言えるでしょう。 

「意識」だけが存在している

 さて、そのなかでも飛び切り癖のある西田について、前回に続いてお話をしましょう。西田は、なぜ意識を重視するのか、という問題でした。存在や存在者(物理的世界や物体や、それがある場所)の話をしているはずなのに、「意識」が突然でてくるのは、なぜか、というわけです。このことについて、考えてみたいと前回予告しました。

 このことについては、最初の著作『善の研究』に、その答があると思います。なぜなら、西田にとって「実在」というのは、われわれの意識の現れだと、この本で言っているからです。つまり、真に存在しているのは、意識だけだというのです。つぎのように言います。

 少しの仮定も置かない直接の知識に基づいて見れば、実在とはただ我々の意識現象すなわち直接経験の事実あるのみである。この外(ほか)に実在というのは思惟の要求よりいでたる仮定にすぎない。(『善の研究』講談社学術文庫、140頁)

 「実在」は、「意識現象」なのです。そして、この「意識現象」というのは、「直接経験の事実」なのだから、物体と対立するような精神の現象ではありません。つまり、われわれが通常「意識」と呼んでいるものとは、似て非なるものなのです。西田の言う「意識」は、「精神」的な現象ではなく、<ここ>に成立している直接の経験(いわゆる「純粋経験」)なのです。だから、物体とか精神といった言い方では表現できないものなのです。

 この西田の説明を素直に受けとれば、西田の言う「意識」というのは、われわれ個々人がもっている「意識」とは、ずいぶん違うものだということになるでしょう。いわば<ここ=出発点>とでも言いたくなるようなものなのです。われわれが、どうしてもそこから出発しなければならない<実在>、つまりは<ここ>なのです。だから、西田は、つぎのようにも言います。

意識現象といえば、物体と分かれて精神のみ存するということに考えられるかも知れない。余の真意では真実在とは意識現象とも物体現象とも名づけられないものである。(中略)直接の実在は受動的のものでない、独立自全の活動である。有即活動とでもいった方がよい。(144頁)

 西田にとって、「有」(存在)は、活動なのであり、眼前で展開している<ここ>の経験なのです。そして<それ>を、西田は「意識」と呼んでいるわけですから、何度も言いますが、われわれが通常「意識」と呼ぶものとは、かなり違うものなのです。そうなると、つぎのような「序」にでてくる有名な言葉も、なるほどと思ってしまいます。

個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである。(16)

 これは、そもそも「個人」や「個人の意識」は、最初からあるものではないという宣言です。われわれの始原にあるのは、「経験」であり、「実在」そのものである。そしてそれは、「意識」なのだ。ということになります。ようするに、眼前で活動している存在そのものが「意識」なのです。

 個人と経験が対立していて、経験の方が先行しているというわけですから、個人の意識よりも、誰のものとは言えない「意識一般」(あるいは、「純粋経験」が生じている場)が先行しているのは、当然だということになります。西田によれば、この出発点から離れて、いろいろなことを頭で考えることによって、さまざまな概念や観念、学問や知識ができあがってくるというのです。自他の区別も、後ででてくる考えだということになります。 

「意識」=「相対無の場所」?

 こう考えると、「意識」は、『善の研究』のときから、ある意味で、われわれが活動する最初の「場」(<いま・ここ>)として、西田により想定されていたことになるでしょう。そうなると、この「意識」は、「相対無の場所」に直結していることになるのではないでしょうか。

 たしかに『善の研究』から「場所」に至る道筋には、「自覚」や「反省」といった概念による「悪戦苦闘」もありました。でも、「相対無の場所」という概念が指しているのが「意識」だとすれば、それは最初から、<ここ>にあったということになります。そして、その<ここ>は、一人一人の閉鎖された(独我論的な)領域ではなく、誰もが参加している「場所」(実在)だということになるでしょう。西田の言いたいことを、私なりにまとめれば、こうなります。

 でも、そうは言っても、<私>というワンルームマンションに一生いつづける閉所恐怖感が、この<私>(たまたま「中村昇」という枠組の背後にあるもの)には、すごくありますので、この西田の、言ってみれば、開かれた「意識」や「相対無の場所」に全面的に賛成できるというわけではないのですが…。これは、あくまでも個人の感想ですので、無視してください。

 そして、この「相対無の場所」の背後にもう一つのとんでもない「場所」が控えています。「場所」のラスボスです。そう、ご存知「絶対無の場所」です。ただ、その話をする前に、「相対無の場所」の「相対無」について、ちゃんと説明していなかった気がしますので、その説明をしたいと思います。

 「相対無」とは何か

 「相対無」というのは、存在の世界に対して「無」として、その存在全体を包んでいるという意味です。つまり、「意識」が、背景の場所(空っぽ=無)として控えているから、存在の世界が、その場所で進行している。「意識」という「無」が場所として全体を包んでいるから、存在の世界が存在できている。そういう意味で、「存在」と「無」が相対(あいたい)している、ということになります。だから「相対無」なのです。

 さきほど話した『善の研究』の「意識」と関係づければ、こういうことになるでしょう。「意識」は<いま・ここ>でおこっている「純粋経験」である。<いま・ここ>は「意識=経験」というあり方をしている。これが、われわれの「実在」だ。しかし、その構造をよく見てみると、「意識」(枠組という意味での「意識」)が「無」というあり方で、世界全体を覆っている。だからこそ、世界の進行、つまりは「純粋経験」の生成消滅が展開されていく。「意識」という「場所」で世界は展開されていて、その「場所」は「無」なのだから、「場所」(相対無)はそのまま「世界」(存在)なのだけれども、その関係を言葉にすれば、「世界が場所(無である意識)においてある」という言い方ができるだろう。という感じでしょうか。

 ここから、「絶対無の場所」へとさらに深く超越するためには、いろいろと説明しなければならないので、今回は、ここでちょっと横道にそれて(と言っても、少し関連があるような気がするからなのですが)、レヴィナスの話をしてみたいと思います。今回のイントロともつながりますし、伏線回収っぽくていいのではないかと思います。ようするに、「相対」と「絶対」との関係(あるいは無関係)について、レヴィナスを経由して西田にたどり着きたいというわけです。 

「私」と「他者」

 さて、『全体性と無限』のなかの「私」(Moi)と「他者」(Autre)との関係について、お話しようと思います。レヴィナス哲学は、「他者」という絶対的な彼方を中心に構築されているのですが、でも、『全体性と無限』においては、「私」というのも、とても大切な基盤として論じられます。「私」という堅固な出発点がなければ、なにも始まらないかのような叙述が見られます。その点に着目して、レヴィナスの「私」と西田の「相対無の場所」を、無理矢理(?)結びつけてみましょう。(かなり強引な解釈ですので、レヴィナス関係者は目をつぶっていてください。)

 「他者」と「私」との関係について、レヴィナスは、つぎのように言います。

絶対的に「他なるもの」、それは「他者」である。「他者」は私と同じようには数えられない。そこで、私が≪きみ≫あるいは≪私たち≫と語る共同体は、≪私≫の複数形ではない。私ときみとは、共通するひとつの概念を意味する個体ではない。(Totalité et infini、Le Livre de Poche,2019,p.28、拙訳、以下TIと略記。『全体性と無限』熊野純彦訳、岩波文庫、52頁、も参考にした。)

レヴィナスの「他者」は、「私」とは、絶対的に隔絶したところに「ある」。決して「他者」と自分を同じものと考え、「私たち」などと語ることはできない。そのような手の届かないとりつく島のないものが「絶対的他者」なのです。だから、「他者」と「自分」とを同じ地平に並べて考えるなどというのは、とんでもない。だから、レヴィナスは、つぎのようにも言います。

私が、たまたま形成され、存在の論理的規定である「同」と「他」が、さらに、一つの思考に映されることが可能になるというわけではない。(p.29、訳53‐54頁)

 ここで言っているのは、「私」と「他者」との関係は、「私」(「同」)が偶然形成されて、そのことによって、その対立物である「他」が、「私⇔他」という二項対立的な論理的規定になり、その結果、その対立をわれわれが思考できるようになるなどという関係ではない、ということです。そうではなく、「私」や、その「私」という場所でなされる「思考」こそが、この世界の始源であり、その堅固な場所がなければ、<他者>も登場することはないというのです。つまり、私という中心(出発点)がなければ、他者(他人)は存在しないというわけです。レヴィナスはつぎのように断言します。

存在のうちで他性が生まれるためには、≪思考≫が必要であり、一つの≪私≫が必要なのだ。(中略)≪思考≫と≪内部性≫は存在の裂け目そのものであり、超越の(反映ではなく)生成に他ならない。(中略)他性は私を起点としてのみ可能なのである。(Tip.29,訳54頁)

 どうでしょうか。「私」のいる場所に、「他者」は、決して入ってくることはない。「私」のいる場所を覆っている「論理的規定」(二項対立的な構造)によっては、「他者」を表現することはできない。われわれの世界は、論理によって支配され、二項対立的なものによって、すべて説明される。レヴィナスによれば、そこに「他者」は、登場しないというのです。

 ところが、その「他者」(そして、そのあり方である「他性」)が生成するのは、そのような「私」、あるいは、私の「思考」、つまり「私」という「内部性」からである。しかも、それらが「裂け目」となって、「超越」(「他者」への方向)が生れてくるというのです。とても面白い考えだと思います。相対的な場所の中心(「私」「思考」)こそが、絶対的なもの(「他者」)への超越が生成する場所(「裂け目」)だというのですから。

 唐突ですが、「表」と「裏」という概念について考えてみたいと思います。「表」と「裏」というのは、不思議な関係です。絶対に同じ地平で並びたつことはありませんが、決してわかれることのない二つの地平です。「表裏一体」なのですから、表がなければ裏がなく、裏がなければ表もない。絶対的に隔絶していながら、一体だというあり方です。この「表裏」というあり方が、ここでレヴィナスのいう「私」と「他者」の二つの地平についても言えるのではないでしょうか。

 そして、これは、西田の「絶対無の場所」のあり方とも、とても似ているのではないかと思います。それに、さきほどの「裂け目」もまた、西田の「絶対無」への反転と大変よく似た状況だと思います。これが、これまでレヴィナスを説明してきた理由です。

 やっと西田に戻りましたが、とても長くなりましたので、「絶対無」の話は、次回で。