第三回目の記事で寺の「酒屋」について触れましたので、今回は「湯屋」にしましょう。むろん、共同浴場は仏教が起源だという話です。なんでもかんでも仏教由来にするなと怒られそうですが、事実なのですから仕方ありません。

 仏教が生まれたインドは暑い国ですので、日常の習慣としても、また宗教儀礼の一つとしても沐浴が盛んにおこなわれていました。川や池などで沐浴するのが普通ですが、大きな寺院には浴場が作られるのが通例でした。以前、スリランカで見た山の中腹に残る寺院跡では、湧き水を段差をつけたプールのような浴場に流れこませており、そこで僧侶たちが体を洗ったのです。

 湧き水を浴場に引き込む水道管のような部分は、布で漉すことができるようになっていました。それによって、僧侶が知らずに水中の虫などを踏んで殺生をしないよう配慮されていたのです。僧侶が体を洗った水は、ふもとの田畑に流れていくようになっていました。農民たちは、その水で作物を育て、収穫物の一部を寺に寄進するという仕組みになっていたのですね。

 神々や猛獣がいるとして恐れられ、近づけずにいた山も、それらを恐れない僧侶が進出して寺ができると、このようにその少し下までを田畑にすることができるようになるのです。心の安らぎを説く仏教は、実はどこの国でも土地開発の牽引役となっていました。

『温室経』

 沐浴は水を用いるのが普通ですが、王子であった釈尊を含め、インドでは身分が高い人については「香湯」、つまり、香料を入れた暖かいお湯で洗うという描写が良く見られます。その後で、召使いがきわめて柔らかい布で体を拭き、様々な塗香や香油を貴人の肌に塗り込むのです。

 寺院でも、お湯で体を洗う施設が設けられました。ただ、漢訳の仏教経典を検索すると、「浴場」という言葉は見当たらず、代わりに数多くヒットするのが「浴室」という言葉です。これは浴槽につかるのではなく、湧かしたお湯を洗面器のような入れ物に入れ、それで体を洗う施設だったようです。面白いことに、その「浴室」という語としばしば一緒に出てくるのが「温室」や「温堂」という語であって、こちらは実は蒸し風呂、つまりサウナを指します。

 温室は非常に歓迎されており、その功徳を説いたお経までありました。パルチア出身で148年に後漢の都である洛陽にやってきた安世高は、多くの経典を訳しており、その中に含まれているのが1300字ほどの短い経典、『温室洗浴衆僧経』です。『温室経』と略称されるこの経典の内容は、以下の通りです。

 仏がマガダ国におられた際、多くの人を治療し、尊崇されていた名医の耆域(ぎいき)が仏のもとにやってきて、仏や僧侶たちや菩薩たちに温室に入って洗っていただきたい、また多くの人々に入浴してもらって汚れを洗い落とし、諸々の病患にあわないようにしたいと申し出た。すると、仏は賞賛し、七つの物を用いた「澡浴(そうよく)の法」をおこなえば、七病を除去して七福をもたらすと述べ、僧侶たちを入浴させる功徳を強調し、この教えを「温室洗浴衆僧経」と名付け、清浄な福を求めるものはこれを実践すべきだと説かれた。

 七つの物とは、燃やす火、清らかな水、澡豆(そうず、豆を煎ってつくった泡立つ石鹸粉)、蘇膏(そこう、肌用クリーム)、淳灰(樹木の灰汁=シャンプー)、楊枝(木の枝の先をつぶして作った歯ブラシ)、内衣(浴衣)であって、それぞれの効能が説かれています。

 この『温室経』については、タクラマカン砂漠の南端に位置するニヤの仏教遺跡で、右から左に横書きで書いていくカローシュティー文字で書かれたガンダーラ語のテキストの破片が発見されています。この破片には蒸気浴を意味するサンスクリット語の「ジェンターカ・スナートラ」に相当するガンダーラ語が書かれていたため、『温室経』だと判明したのです。

 『温室経』は、中国では隋の三大法師の一人とされる浄影寺(じょうようじ)の慧遠(えおん)が『温室経義記』、隋から初唐にかけて活躍した慧浄(えじょう)が『温室経疏』を著わしていることが示すように、きわめて重視されていました。このお経は温室の費用を引き受け、僧たちに洗浴してもらって功徳を得ようとした在家信者たちにも注目されており、庶民向けのくだけた講義の台本が敦煌写本中に残されているほどです。

 その結果、初唐期に仏教と道教が対立して激しく争った際、仏教に対抗しようとした道教側は、この経の内容を道教風に書き換えて偽経の『太上霊宝洗浴身心経』を作成するに至りました。その作者は、仏教僧としばしば対論してやりこめられた道士の李栄だと言われています。

重要視された温室

 『温室経』が唐でこれほど重視されていた以上、日本でも読まれて影響を及ぼしたのは当然でしょう。正倉院に蔵されている奈良時代の写経記録には、この経典を書写したという記述がいくつも残されています。

 また、奈良時代に作成された元興寺の財産目録である『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』では、末尾に「食封(じきふ)、一千七百戸。七ヶ国に在り」とあるように、膨大な資産が与えられており、そこから得られる作物や労働力をあてる対象として、「温室分田、安居分、三論衆、摂論衆、成実衆、一切経分、灯分……」などがあげられています。

 つまり、温室の経費にあてられる田が先頭に掲げられているのです。夏の三ヶ月の間、寺にこもって修行する安居(あんご)の経費や、空を強調する『中論』『百論』『十二門論』の三論を研究する学団、唯識を説く『摂大乗論(しょうだいじょうろん)』を研究する学団、法の分類を論じる『成実論(じょうじつろん)』を研究する学団、一年中、朝から晩まで交代で一切経を読誦する僧たちの経費、灯火の費用などより先に、額の多少は分からないものの、サウナ経費があげられているのです。当時の僧侶たちにとって、温室がいかに楽しみで重要視されていたかが分かりますね。

 サウナばかりではなく、大きな浴槽に湯を沸かし、何人もが一緒に入るタイプの浴場も次第に整備されていきました。その建物が湯屋です。ただ、湯屋という言い方は日本でしか用いられていないようです。

垢すりの功徳

 これまでは僧侶の入浴の話でしたが、温室にせよ湯屋にせよ、設備が整うと、寺の側が日時を定めて信者たちに無料で入浴する機会を与えるようになりました。これを施浴・施行湯・施行風呂・功徳湯などと呼びます。この湯屋を建て、入浴する者たちを区別せず、自ら背中を流して奉仕したという伝説で有名なのが、光明皇后です。

 ある女院の供をして南都の諸寺をめぐった興福寺の実叡が建久2年(1191年)に書き上げた『建久御巡礼記』では、東大寺・法華寺などを建立して功徳はこれで十分と考えていた光明皇后は、まだ不足しているので施浴するよう説く天からの声に従い、湯屋を建てたとしています。湯を沸かさせ、「最初に湯浴みに来た者の垢を自ら洗い落とそう」と光明皇后が誓ったところ、重い皮膚病の乞食が這ってやって来たため、皇后がためらっていると、洗わないと誓願が汚れると指摘され、意を決して洗ってやったところ、その乞食は実は阿閦仏(あしゅくぶつ)であって空に浮かんで消えていった、と記されています。

 垢すりという点から見て、この伝承は、光明皇后が建立した法華寺で浴堂と呼ばれていた温室の由来話が展開したもののようです。この話は非常に好まれており、登場する仏や人物や筋立てが様々に変化して展開していきますが、これは平安時代から鎌倉時代にかけて、施浴がいかに盛んであったかを示すものです。

 その一例として有名な京都の東寺では、平安初期の創設当初から昭和30年代まで、大湯屋で施浴がおこなわれていた由。毎月六回の決まった日と、三月三日(上巳)、五月五日(端午)などの節句の際におこなわれたほか、仏事にあたって故人の追善のために遺族が経費を負担して施浴をおこなう場合もあったそうです。

 そうなれば、入浴を希望する者が増えるのは当然でしょう。社会事業の一種として寺が大々的におこなうようになると、経費を入浴者にも負担してもらうため、寺への寄進という形で入浴料をとるところも出てきます。民間でその作業を引き受ける場合が増え、さらに大都市で商売として始める者が増えていった結果、近世になって銭湯が生まれたのです。