仏教は何を説いてきたか前編】

石井 公成
interview #013
紀元前5世紀ごろのインドで生まれ、中国、朝鮮半島を経由して日本へと伝えられた仏教。その教えには無常」や縁起」といった普遍的な面がある一方、時代や地域によって変化してきた部分も少なくないそうです。仏教は一体どのようにして生まれ、どんな変遷を遂げてきたのでしょうか。アジア諸国の仏教と文化を研究する、駒澤大学仏教学部の石井公成教授にお聞きしました。
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  1. 仏教の誕生
  2. 部派仏教と大乗仏教
  3. 心の解釈
  4. 空とは何か

仏教の誕生

――まずは当時のインドの宗教事情といいますか、仏教がどういう状況の中で生まれてきたのか、といったあたりから教えていただけますか。

 インドにはもともと土着のいろいろな民族がいたわけですが、そこにアーリア民族と呼ばれる人びとがカスピ海の方からやって来るんですね。この人たちはヴェーダ』を聖典とする宗教、いわゆるバラモン教を信仰していました。バラモン教ではバラモンと呼ばれる司祭者が呪文を唱えたり神にささげものをしたりする儀礼によって、死後の生天その他の願いがすべて保障されるんです。ところが、世の中が少しずつ豊かになり商品経済が盛んになると、そんな儀礼が本当に効くのかという疑問をもつ人が現れてくる。

 ちょうどその頃に、生きとし生けるものはすべて無限に生まれ変わるという輪廻の思想が発達してきます。日本人はその恐ろしさがあまり分かっていないから、商店街でサンサーラ編注:輪廻という意味のサンスクリット語)」という名前の美容室を見かけたりしますけど。たまたま今回は大金持ちの美男子として生まれたとしても、来世はゴキブリかもしれない。これが永遠に繰り返されるわけですよ。

――それは恐ろしいというか、考えるだけでもうんざりしますね。

 すると、来世で幸せになるというより、輪廻そのものから抜け出したい。それが果たしてバラモンの儀礼によってできるのか、と疑う人たちが出てきた。それが自由思想家、シュラマナと呼ばれる修行者なんですけど、インドの場合、地方の発音では言葉の最後の母音が落ちるんです。そうするとシュラマンとなり、これが中国で沙門しゃもん)と音訳されました。沙門は出家した修行者・思想家のことであって、この人たちがいろいろな説を唱え出した。すべては運命である、すべては物質だけである、すべては偶然である、すべては神が定めた、いや、これこれだと決めることはできない、などと。そうした中で、因果原因と結果)というものがあるんだ、と言ったのが仏教。つまり仏教というのは、ヴェーダの権威に逆らって出てきた新興宗教」の一つだったわけです。

――具体的にはどんな点が違っていたんですか。

 バラモン教ではバラモン司祭者階級)、クシャトリア王族階級)、バイシャ庶民階級)、そして下層な仕事をするスードラという階層が定められていて、どの階層に属するかは生まれによって決まるのですが、仏教はこれを認めません。人は生まれによってバラモンになるのではない。何をするかによって尊い人になり、また穢れた人になる。もう徹底的に行い主義で、血筋は関係ないわけです。

――当時のインド社会では革新的な教えだったんですね。

 言い換えると、ヴェーダ』を信仰する主流派とは常に緊張関係にあった。仏教は温和なので暴力的な反対運動はやらないけれど、実はインド社会のあり方を根本から否定したわけですよ。インドの神々も拝みません。そのせいで、仏教は周りには広まったけど、肝心のインドでは滅びてしまった。

――なるほど。

 大学の講義で、インドの人口10億のうち、仏教を信じている人はどれくらいいると思うって聞くと、学生たちは5億とか、6億とか言うんですね。でも、イスラム教が入ってきたことで、インドの仏教は一回滅びちゃったんです。現在では仏教信者もある程度いますが、これはインド憲法の草案を作成した最下層出身の政治家、アンベードカルがカースト制否定を呼びかけ、20世紀半ばに50万人ほどの人たちとともに仏教に集団改宗したのがきっかけです。

 しかも、信者が急激に増えて何百万、何千万と言われるほどになったのは、アンベードカルが亡くなってからインドに渡った日本の僧侶たちの活躍によるものであって、近年のことなんです。ただ、イスラムが侵入してきても、ヴェーダ』は生き残った。バラモン教がインドの土着信仰と結びついて庶民化されたのがヒンドゥー教ですが、これは現在までずっと生き残っているわけです。

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いしい こうせい 石井 公成
駒澤大学名誉教授

駒澤大学名誉教授。華厳宗・地論宗・禅宗・聖徳太子などを柱として、インド・中国・韓国・日本・ベトナムにおける仏教教理について研究するほか、アジア諸国の古典文学と仏教の関係、近代アジア諸国における仏教とナショナリズムの関係、音楽・芸能・酒・冗談(言葉遊び)と仏教の関係、N-gramに基づくNGSMシステムを用いたコンピュータ処理による用語・語法分析その他について研究している。