――ご著書『私家版・ユダヤ文化論』(文藝春秋)によると、ユダヤ人とは何かというのを一義的に定義するのは非常に難しいとのことですが、ユダヤ人のアイデンティティというか、「ユダヤ人らしさ」みたいなものはユダヤ教からきていると考えていいのでしょうか。

 だと思います。一神教はユダヤ教から始まるので、ユダヤ教が「最も純粋な一神教」だと言ってよいと思います。キリスト教とイスラムはユダヤ教から派生しているわけですけれども、どちらもユダヤ教に比べると、その歴史的経験を踏まえて、ずっと「ユーザー・フレンドリー」になっています。神と人間の間にイエスやムハンマドといった媒介者がいて、わかりにくい話を分かりやすくしてくれる。一方、ユダヤ教における「主」は人間の理解も共感も絶した超越者です。そのようなものと対峙するというきわめてストレスフルな状況に自らを置くわけです。預言者はあくまで断片的な叡智の言葉を伝えるだけで、主が何を考えているのかを体系的に教えてくれるわけではありません。

 それに、ユダヤ教は教義の統一というものを行いません。キリスト教における「公会議」に相当するものがありませんし、教皇のようなものもいない。ですから、当然「異端」というものが存在しない。

――常に自分で考えて行動しないといけないわけですね。

 ですから、それだけユダヤ教は解釈上の逸脱に対しては寛容なのではないかと思います。ユダヤ教の側から見たら、おそらくキリスト教もユダヤ教内部の一つの潮流として理解されるのではないかと思います。イエス本人もおそらく自分のことをかなり特異な教説を語っているけれどもユダヤ教徒だと思っていたはずです。説教を行っていた相手はすべてユダヤ教徒ですし、場所もシナゴーグでしたから。イスラムもユダヤ教の経典である旧約聖書はそのまま受け入れていますし、アブラハムもイエスもみな預言者という形で体系的に統合されています。

――ユダヤ教のラビというのが、キリスト教でいうと神父にあたるんですか。

 だいぶ趣きが違います。カトリックの神父やプロテスタントの牧師にはそれぞれ定められた資格がありますけれど、ラビには別に公的な資格があるわけではないからです。ラビっていうのは先生という意味の「ラブ」に「私の」という所有代名詞がついた形なので、「わが師」という意味なんです。新約聖書でイエスに向かって弟子たちが「先生」と呼びかけますけれど、あれは「ラビ」と呼んでいるわけです。この人が私のメンターである、私の導師であると思ったら、「ラビ」と呼ぶ。もちろん、今でも伝統的な律法学者を養成する学校というのはありますけど、特に資格試験があって、それに通らないとラビになれないっていうものではありません。ユダヤ教では成人男子が10人集まったら、別に聖職者がいなくても、それで宗教的な集まりは成立します。

――指導者と一般の信徒を分ける基準がキリスト教ほど明確ではないってことですね。

 どうしてもキリスト教が一神教のモデルになっているので、キリスト教の枠組みをユダヤ教に当てはめてしまいますけれど、ラビと信徒の関係は、神父・牧師と教会員の関係とはかなり違うと思います。「先生」なんですから、あの人は篤信で、人格者で、信仰について聞けばいろいろと教えてくれるという声望が立てば、その人を中心に宗教的共同体が成立する。そういうことだと思います。ユダヤ人の場合は紀元前から長く離散状態を生きたわけですから、宗教的な儀礼の成立にあれこれと煩瑣な条件をつけるわけにはゆかなかったのでしょう。生きてゆく上でほんとうに必要な制度は「誰でもできる」ように制度設計しておかないと生き延びることができませんから。