後飯塚さんは、前々回の書簡を次の文で始めました。

まだ 生きている としたら 余命を 生きている のか それとも 奇跡的な 夢の延長を 鏡の向こうで 生きている のか 誰かのような 顔をした 死人の 輪郭を 指で なぞろうとして 昼間の光では 視えない 陽炎が 浮き上がる 仄暗い 闇が 混ざっている

 そして前回の書簡で、上記の文を投稿した2カ月前に、実は死を覚悟する事態に見舞われていたことが報告されました。それを読むと病状は落ち着いたようで、さらに「脳梗塞のあとに生まれた、もうひとりの“私”という存在」と書かれています。死と再生を経た後飯塚僚が生み出す新たな詩が待たれます。

 さて、渦中に執筆された、本人は「誤魔化した」とも述べる前々回の書簡に「ふつうのひとは存在しない」の言葉が見えます。私は、後飯塚さんの状況を知っていただけに、厳しい中で重要な指摘をしてもらったと感じました。「ふつうのひとは存在しない」とは、「この文の中にはいないよ」という注釈か、それとも「そもそもどこにもいないよ」という教示か、いずれにしても「キミの言う“ふつう”とは何だ?」と問いかけられているのではないか……。私の書簡1回目で、詩を分からない自分を「ふつうの人」とよびました。大多数の人が詩(特に現代詩)とは距離がある(その距離は私がもつコンプレックスなどさまざまな質がある)だろうと推測してそう書きましたが、後飯塚さんの言葉に接して、タイトルにまで安直に使った「ふつう」について、今回ちゃんと考えたいと思います。

 中村さんの定義によると、詩とは、「自己指示の塊」である言語の、その原理に最も忠実な言語芸術です。言語は現実の事物・事象(心象を含め)を指示しているわけではなく、独自のシステムを形成している。現実という混沌を生きやすくしてくれる“嘘”が言語。私も頭では言語が「自己指示の塊」であることを理解しているつもりなのに、その本質に従う詩をなぜ分からないのか? 以前の原稿では「私の場合、指示対象を頭の中にイメージできないと、言葉の着地点を見失ってしまう」と書きました。このことを2回に分けて掘り下げます。

 その導きに、「竹田現象学」として著名な竹田青嗣先生の『言語的思考へ……脱構築と現象学』(径書房)、および「新しい実在論」で注目されるマルクス・ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』(講談社選書メチエ)を参照します。

「現実言語」と「一般言語表象」

 まずは『言語的思考へ……脱構築と現象学』から。竹田氏は、「あとがき」で、この本の執筆意図として以下の2つをあげています。

 まずひとつは、近代哲学以来の認識問題の議論は、現代哲学(ポストモダン思想および分析哲学……引用者補足)では「言語論」の領域に移されているが、これを現象学的方法によって完全に解明すること。つまり、さまざまなアポリアによって議論の迷宮のようになった、現代における「言語の謎」を解くことである。 ~(中略)~ もうひとつは、現象学的思考の範例を置くことで、原理の提示とその展開によって「普遍洞察性」をめがける哲学的思考のエッセンスを提示することである。(p.332)

 後者については私には論じる資格も能力もありませんが、前者の「言語の謎」の考察からは多くを学びました。ただし、竹田氏は「言語の謎」を克服するべきものとして語っていますが、私は「謎」だからこそ可能性が秘められていると肯定的に捉えつつ(この点は竹田氏が批判するデリダに共感)、立脚点は竹田氏と同じところに置くという鵺的な考えをもっています。

 竹田氏によると「言語の謎」は、元来、「抽象概念を論理的に使用」(p.71)する「哲学の思考につきまとう」(p.74)ものだそうです。例えば、パルメニデスの有名なパラドックス「すべてのクレタ島人は嘘つきである、と一人のクレタ島人が言った」や、クリプキのパラドックス「68+57=5という答えが間違っているとは言えない」など。これらを「言語の謎」の例としてあげ、ポストモダン思想など現代哲学における懐疑論は、この「言語の謎」を利用し強調するかたちで形而上学批判を行うとします。それは批判のための批判となり不毛であり、さらには否定神学的な性格から別種の形而上学を立ち上げてしまうと竹田氏は指摘します。

 竹田氏は、現象学によって「哲学の思考を人間生活の実質的問題に置き戻す」(p.109)ことをめざします。われわれ人間にとって「どのような条件において共通了解ということが『正当化』されるかについての基礎づけ」(p.63)を行うことが現象学の使命とし、そのための言語論、意味論を志向します。この観点から「陳述の本質的動機は、事態の認識や関係了解を他者と共有すること ~(中略)~ むしろそれは、了解の共有を通して他者との『関係』を作り出すことにある」(p.235)。つまり、発語者と受語者がコミュニケーションを行うための道具的存在が言語であると定義し、これを「現実言語」とよびます。(※1) 一方、「現実言語」から言葉だけを抽出すると、意味の多数性や決定不能性が露わになり「言語の謎」が発生する。これを「一般言語表象」とよび、以下のような例を示します。

 たとえば「空は青い」という言表があるとする。認識論的な問題としては、この言表の「意味」は一般に自明なものとされ、なんら問題はないように見える。しかし、「意味」の伝達=了解の問題としては、すぐにアポリアが生じる。つまり、この「空は青い」という言葉は、それ自体としては単なる事実の叙述なのか、感動を表現するものなのか、今日は晴れでよかったと言っているのか、また空の色は「青」であって他の色ではないことを指示しているのか、“決定不可能”である。(p.113)

 実際のコミュニケーションでは、このような“決定不可能”はほとんどの場合生じません。受語者は、「この人は何を伝えたいのか」と発語者の「意」(意図や思い)を推しはかるのが通常だからです。そのために言表の前後や陳述の状況といったコンテクストを参照し、「こういうことを言いたいのか」と言葉の意味を(誤解の可能性を含めて)確信しようとします。こうした「現実言語」から発語主体の「意」を抜き取ると“決定不可能”性が露出し、言語は現代哲学が扱う「一般言語表象」となり、「おのおのの語の『語義』の多数性が等価な解釈可能性として解放される」(p.189)。言語は謎として見えてくると言うのです。

 「現実言語」は話し言葉に限りません。書き言葉でも、受語者は発語者の存在を仮想し、コンテクストを手がかりに文の意味を探ります。文学作品においても、発語者(作者)の「意」が直接的には表されていない虚構の物語であることで多様な解釈ができるにしても、受語者(読者)は「その『物語』がはらむなんらかの“人間観”や“世界の意味”」(p.170)を受け取る、そう竹田氏は語ります。すると「一般言語表象」は、分析哲学が扱う命題、教科書の例文、辞書の単語といった意図的に切り取られた言葉に限られます。いや、それらにしても哲学者が考案し、教科書執筆者が採用し、辞書編纂者が解説しているという発語主体・コンテクストを背景とした「現実言語」です。クリプキのパラドックスも、言語規則が決定不可能なことを証明するための事例にクリプキが考案したものとして「現実言語」と見ることができます。(※2)

「一般言語表象」としての詩

 もう何が言いたいかお分かりと思います。ただひとつ(原理としての)詩だけがコミュニケーションのくびきを免れ、「現実言語」から離脱できる「一般言語表象」なのでしょう。もちろんこれは「一般言語表象」の特性からの私の当て推量で、竹田氏が語っていることではありません。

 中村さんが第2回の書簡で、「自己指示の塊」としての言語と、その「極北の芸術」である詩の言葉を説明する際に引用したモーリス・ブランショ『文学空間』の記述から一部を孫引きします。

この言葉においては、この世は退き去り、目的は、その働きを止めている。

詩の言葉においては、何者も語らず、語っているものは、何者でもないのだ、ただ言葉だけが、自らを語っているように思われるのだ。

 言葉が現実世界を指し示す機能を失い、日常のコミュニケーション目的を果たさなくなる。作者は消え、残された言葉が自ら自己において自己自身を開示する。ブランショの言明は「一般言語表象」について述べているかのようです。そして前述のように、「一般言語表象」では「おのおのの語の『語義』の多数性が等価な解釈可能性として解放される」。この見解は、詩の読解においてはどのように作用するのでしょうか。詩を分からない私が、その分からなさを起点に考えてみます。

 「空は青い」で竹田氏があげた例は、その文を発語者がどういうつもりで述べたのか、受語者がどう受け取ったのかといった語用論的な解釈の多数性ですが、意味の多数性はそもそも単語に現れます。「空(そら)」で言えば、まずは一般的・平均的な「頭上のはるか高くに広がる空間」という辞書的な語義があり、その空間が「昼は明るく、夜は暗く、昼には太陽が、夜には月と星があり、どこかに雲がかかることがほとんどで、ときには雨や雪が降ってくる。雨のときは雷が鳴り、雨のあとには虹がかかることもある」といった最大公約数的な経験から抽出された知識の束があります。(認知言語学では「フレーム」といいます。) そして、語をさまざまな場面、文脈で使用してきた経験から、その“痕跡”(※3)が言語に(実際は言語を使用する人の記憶に)蓄積されて潜在しています。これを認知言語学では「百科事典的意味観」とよび、私は糸井重里氏にならって「コトバの素」とよぶことはこれまでも書いてきました。以下、私の記憶に沈潜する「空」のコトバの素を発掘してみます。(実は、私がキャッチコピーを書くときは、このような発掘を行ったうえで言葉づくりに取り組みます。才能のあるコピーライターならこうした面倒な方法をとらなくても、直感的に連想が働くのでしょうが……。)

「空」のコトバの素(私の場合)

●「空」の性質……屋外にある、頭の上にある、果てしない、空っぽ、四方がある、四季がある、変わりやすい、繰り返す、包み込む、被さる、超越する、影響を及ぼし人の行動を左右する、感情がある(泣く、怒る、憂う、笑う)、ライフサイクルがある(生まれる、老いる、起きる、眠る)、昔も今も変わらない、世界をつないでいる、死者の魂を受け入れる、神がいる、天上のメッセージを伝える……《とめどなく類概念の外延拡張(内包としては収縮)が可能》

●「空」の種類……晴天の空、曇り空、雨天の空、雨上がりの空、朝焼けの空、真昼の空、夕焼けの空、夜空、春の空、梅雨空、夏の空、秋の空、冬の空、都会の空、田舎の空、北の空、南の空、西の空、東の空、東京の空、出雲の空、今日の空、昨日の空、旅の空……《とめどなく種概念の外延限定(内包としては膨張)が可能》

●「空」の部分……虚空、雲(入道雲、ちぎれ雲、ひこうき雲……)、太陽、月、星(シリウス、ポラリス、木星、火星……)、星座(オリオン座、ふたご座……)、光(色光、薄明、散光……)……《とめどなく細分化が可能》

●「空」の隣接……雨(夕立、時雨、五月雨……)、雪(粉雪、淡雪、春の雪……)、霙、雷、虹、霞、風の音、鳥、飛行機(およびその音)、ヘリコプター(およびその音)、煙、シャボン玉、凧、鯉のぼり、帽子、山、木、木の葉、窓、屋根、ビルディング、煙突、鉄塔、電信柱、電線、稜線、地平線、水平線、島、岬、灯台、舟、雲海、空襲(および空襲警報)、スモッグ、オゾン、成層圏、天使、神、天国……《とめどなく連想が可能》

●「空」の転相……水たまり・池・湖に映る空、天候、季候、境遇、領空、異国、故郷、遠い町、遠い日、海水浴の空、遠足の空、夏休みの空、テスト明けの空……《とめどなく展開が可能》

●「空」の隠喩(空が媒体)……心、眼、表情、人生、上方、自由、希望、未来、無限、永遠、昇天、死、空疎、虚偽、虚妄、妄想、放心、そらで読むの空、そら恐ろしいの空

●「空」の隠喩(空が趣意)……心、皿、鏡、顔、夢

●「空」の範列……海、大地、天、天蓋、天空、空中、大気、蒼穹、宇宙

 これらのコトバの素の一部が「空」という言葉を使うつど顕在化し、「空」の意味はさまざまに振動します。「空は青い」なら昼間の空を指しているでしょうし、「空が明るい」といえば夜空のことで、月が明るく照っているか、街の灯が雲に映っている情景を思い浮かべます。目立ちませんが、ここには提喩<類→種>のレトリックが働いています。こうした振動を佐藤信夫は「意味の弾性」や「自己比喩」とよびました。言葉は、ごくごく当たり前に組み合わされても微妙に振動しているので、もともとの意味など存在しないと言っていいでしょう。

 広告コピーでは、この「意味の弾性」を利用します。例えば、全日空の「いい空は青い」。前出の「空は青い」の頭に「いい」が付いただけ(※4)とはいえ、めずらしい言い回しなので読み手は興味を引かれ、解読の意欲がわきます。「空は青い」だと語用論的な解釈の多様性にとどまりますが、さらに「いい」が付いて「いい空」になると、「青い」ので「昼の空」であることに加えて、「空」の意味が大きく振動します。「いい空」とは「晴天の空」なのか「夏休みの空」なのか「雨上がりの水たまりに映る空」なのか。それぞれの想像にまかされ、受語者の「空」のコトバの素が一部解放されるわけです。広告コピーはこうした軽い謎かけを行いますが、しかしコンテクストの限定があるので、その謎はすぐに解けます。「いい空は青い」の場合も、全日空の広告なので、全日空の飛行機で飛ぶ空にイメージは収束します。(広告のビジュアルは青空に浮かぶひこうき雲です。)

 ところが詩は、簡単には謎が解けません。「意味の弾性」も、言葉の連結が尋常なら“弾性”ですみますが、詩のように極端に突飛な結合だと“断裂”し、文の意味が取れなくなります。そこで読み手(あくまで私の場合)は全面的に“語義を解放”し、どのコトバの素が当てはまるのかを探り、何が書かれているのかをつかもうとします。そのとき、この詩人は「何を言いたいのか」「何を指しているのか」といった想定ができれば手がかりになるでしょう。しかし詩の場合、「現実言語」では可能なこうした意味の支点を頼りにできません。例えば土方巽の『病める舞姫』(白水Uブックス)には、次のような「空」を含む記述があります。

空を漬け物にしたような類の教訓(p.31)

空の舌に嘗められる(p.49)

 後者の「空の舌」のほうは、比較的分かりやすいと感じました。「空」のコトバの素の中から「感情がある(泣く、怒る、憂う、笑う)」に着目し、感情が表情に現れる「顔」に「空」が喩えられていると解釈できます。「空の舌に嘗められ」たのは、土方少年がイワオという友人と茸とりの帰りに畷(あぜ道)を歩いているときで、超越者たる「空」にからかわれた、そんな民話的なのどかな印象があります。一方、前者はさっぱり意味がつかめません。「空を漬け物にした」とは、漬け物樽を空に、その中のうねうねとした茄子や大根をむら雲に見立てているのでしょうか? しかし“漬け物状の雲”の解釈では、それと同類(カテゴリー)に属するという「教訓」が何のことだか分かりません。このフレーズのあとには「~教訓からは、目を逸らし、身を逸らして生きようと私は思っていた」とあるので、土方さんにとって反価値的な「教訓」のようです。すると「空」は希望や未来の象徴で、それを漬け物にして発酵させ保存可能にした、そういうまやかしの「教訓」とは距離を置くということでしょうか? いや、反対に「空」は空疎や虚妄の象徴で、それが漬け物になって出され、食事のたびに毒盛りをされるように「教訓」をすり込まれるのは嫌だ、という意味でしょうか? 語義を解放し一生懸命理解しようとしても、意味は収束しません。たとえ読みの目当てがついたにしても、確信はもてず、私には「言語の謎」は謎のままです。

 さて、私は「ふつう」とは何かを考えていたのでした。ここまでの論だと、「ふつうの人」が「現実言語」の世界に生きるのに対し、「一般言語表象」を扱う詩人、および「一般言語表象」を解する詩の読者は「ふつう」ではないと、特殊能力をもつ人だと祭り上げるだけになってしまいます。次回は、マルクス・ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』を参照し、「ふつうの人」はなぜ「ふつう」なのか、「ふつうの人」でも詩(一般言語表象)に接近することができるのかを考えたいと思います。

※1 言語は世界に秩序を投影するためにも有用だが、竹田氏の論はこの認識手段としての言語には触れていない。また、言語そのものが意味を“もつ”のかについてはこの本の中で別途考察されているが、私の考えとは異なるので今回は参照していない。

※2 竹田氏の論では「現実言語」と「一般言語表象」を対立的に二分して捉えているわけではなく、受語者の信憑・確信の程度により一義/多義が生じるので、「現実言語」か「一般言語表象」かは程度問題と見ることもできる。

※3 竹田氏は「『語』の多義性自体が、われわれがこの語を多様な言語行為において使用したことの“痕跡”なのだ」(p.185~186)と語り、この部分はデリダの「散種」の概念に賛同している。

※4 実際は、受語者はそうとは受け取らず、「青い空はいい」という通常の言い回しからの統語的変形として読むだろう。この統語的変異を佐藤信夫は「意味の遊動性」とよんだ。これについては、また稿を改めて論じてみたい。