今回は、加藤さんの文章を受けて、自分が提出した概念を少し確認したい。「自己指示の塊」というやつだ。竹田青嗣さんの『言語的思考へ 脱構築と現象学』を全面的に扱いたいのだが、それはさすがに大変だから、いずれ論じるとして、その前段階の話を、この概念と関係させて、したいと思う。

 加藤さんが引用した竹田さんの文章をきっかけにしよう。

 たとえば「空は青い」という言表があるとする。認識論的な問題としては、この言表の「意味」は一般に自明なものとされ、なんら問題はないように見える。しかし、「意味」の伝達=了解の問題としては、すぐにアポリアが生じる。つまり、この「空が青い」という言葉は、それ自体としては単なる事実の叙述なのか、感動を表現するものなのか、今日は晴れでよかったと言っているのか、また空の色は「青」であって他の色ではないことを指示しているのか、〝決定不可能″である。(径書房、113頁)

なるほど。とても興味深いところだ。

 最初の「認識論的な問題としては、この言表の「意味」は一般に自明なものとされ」というところも、そうかなぁと思うのだが、それは、今回は追究しない。「空は青い」という文がどのようなものなのかという点に話を絞ろう。

 「空は青い」という文は、<誰のものでもあり、誰のものでもない>「エクリチュール」(デリダのいう意味での言語一般の性質。パロールもエクリチュールも(話そうが書こうが)言語であれば、その基底にあるもの)なので、決定不可能なのは、たしかなことだろう。誰が、どのような状況で使ったのか、まるでわからないのだから。ただ、それ以前に、そもそも、「決定」という事態を想定することが可能なのだろうかという疑問は浮かぶ。

 「空は青い」という文を、「事実の叙述」や「感情の表現」であるなどと言うことができるのだろうか、ということだ。あるいは、「今日は晴れでよかったと言っているのか、また空の色は「青」であって他の色ではないことを指示している」などと、そもそも言えるのだろうか。「叙述」や「表現」や「指示」などという事態が、言葉の使用において存在しているのだろうか。「決定不可能」どころか、「決定」ということ自体が、最初から問題にならないのではないか。「決定」という事態や概念は、このような言語使用においては、まったく登場しないのではないか、ということである。

 「空が青い」というのは、「エクリチュール」(デリダのいう意味での言語一般の根柢にある性質。「書き言葉」という意味ではもちろんない)であり、言語である。そのような「空が青い」が、<実際の空>(そんなものがあると仮定して)や<青い>という事態(そんなものがあると仮定して)を叙述できるのか。竹田は「単なる事実」などと言っているが、そんなものが、どこかにあるのだろうか。そもそも「事実」というのは、日本語の単語であり、つまりは、言語であり、「エクリチュール」(デリダ的な意味での)だ。

 この語(「事実」)は、それをどう解釈しようが、それについて、どう思考しようが、それを紙に書こうが、口にしようが、〝  ″をつけようが、< >をつけようが、言語以外のなにものでもない。竹田は、事実なるものが、言語を離れてどこかにあると思っているのだろうか。それは、どんなものなのか。そんなものがもしあったとして、どうやって確認できるのか。<それ>(という対象化は不可能なのだが)を、「事実」だと言語化したとたんに、それは言語のなかの「事実」という語になってしまうのである。「事実」という誰でも使える単語(「エクリチュール」)になってしまう。あるいは、多くの人の視覚に映る空の色が青いということを言っているのか。これは事実ではないか、と。しかし、そんなもの(多くの人の網膜像)を誰かが確認できるのだろうか。万人の<クオリア>は、じつは駄々洩れしているとでもいうのだろうか。そんなことは、そもそも不可能なのは、誰でもわかるだろう。可能だとしても、それを報告のために言語化したとたん、それは、手垢のついた万人の「網膜像」になってしまう。ただの言語になってしまうからだ。

 「感動を表現する」とは、どういうことだろうか。「感動」とは何だろうか。そのような<もの>(<こと>あるいは<事態>か?)が存在しているのは、私だって熟知している。しかし、その私が熟知している<もの>(「感動」)が、他の人の言う「感動」と同じなのかどうかは、まったくわからない。そして、それを「表現」するとは、どのようなことか。そうした単語としての「感動」(しかし、この語を使わなければ、この語が表していると言われる<もの>にはたどり着けない、というか、たどり着く可能性にすら、たどり着けない)は、そもそも単語として登場したとたんに、それは、万人の使うただの日本語の単語になってしまう。少なくとも私の<もの>では、ない。

 こうした「感動」を「空は青い」は、表現しているのだろうか。これもまた、言語のレベルで、「感動」という語と「空は青い」という文とを並べただけではないのか。どこにも、<感動>は現れない。存在したとしても、「表現」することは不可能だろう。言語にしたとたんに別物になってしまうのだから。

 「今日は晴れでよかったと言っているのか、また空の色は「青」であって他の色ではないことを指示しているのか」というのも、同様だろう。前者は、「空は青い」という文と「今日は晴れでよかった」という二つの文が、同じようなことを自己指示しているというだけのことではないか。もし他のものを指示していたとしても、それをたしかめる術はない。むろん、何も叙述していないし、何も指してもいない。後者は、文と文とを言語のレベルで、並べているだけだ。そして、「空の色は「青」であって他の色ではない」という文への変換がおこっているだけだろう。言語の地平での文から文への移動である。「指示」しているとすれば、それぞれの文が、その文を指示しているだけである。「意味」という厄介な概念については、今回、ここでは議論しない。

 「空は青い」という文が、自己指示の塊であるというのは、そういうことなのだ。どこまでいっても、言語は、言語の世界からは抜けられない。言語と言語が関係しあっているだけであって、他のものは、登場しない。だから、「事実」という語も、「感情」という語も、「今日は晴れでよかった」も「空の色は「青」であって他の色ではない」も、すべて自己指示の塊なのである。言語は、言語としかかかわれないのは、明らかではないか。

 <事実なるもの>が、存在しているにしても、それに最接近したとしても、結局、それを「事実」という語にしなければ、「空は青い」という文との関係はもてないのである。その結果、「空は青い」という「事実」(という言葉)になるだけだ。どんなに豊かな感情だろうと、どれほど深い悲しみだろうと、言語化しなければ、表現の世界には登場しない。そして、表現の世界に登場したとたんに、それは「豊かな感情」「深い悲しみ」という誰でも使う決まり文句になってしまう。何も表現していないし、何も叙述していない。誰のものでもあり、誰のものでもない「エクリチュール」になるのだ。

 言語は言語である。「エクリチュール」という本質構造からは、逃れられないのである。誰もが確認できる「痕跡」として、われわれの世界に存在しているのだ。それは、発話だろうが(パロール)、本だろうが、SNSだろうが、同じことである。すべて、「エクリチュール」なのである。<事実>や<感情>などの存在と、どうしても言語とを結びつけたいのであれば、それらは、言語化された後に、事後構成的にたしかめることができるだけだろう。言語化の後に、否定的に(いわゆる<事実>を否定することによって、<事実>と無関係であることによって)、たしかめることしかできない。つまり、それは、誰にとってもたしかめることなど決してできないということだ。言語によって、否定的にやりとりしているだけなのだ。だから、事実や感情といった不可知なものを前提にして(しかも、言語を使って)話すのは、根源的な錯誤を犯していることになる。言語は、言語だけできっぱり自己完結している。

 今回も、好きな<言葉>を引用しよう。

 榎本櫻湖の詩。

けれどもなにかしら、ことばならざることば、換言するならば、ものならざるものへの憧れが、有り体にいってしまえばいたって簡素な嫉妬こそがわたしを捕らえつづけていたのだった、ことばの暴動を制圧するための方途を見失い、そうでなければ抗いがたい音への執着が鈴をならし、巣籠もりに熱心な穴熊らを目覚めさせもするのだろうが、とはいえ…(『Röntgen、それは沈める植木鉢』思潮社、127頁)

わたしの目のまえを、ドイツ語が歩いていた、長い坂を登りながらも、颯爽と、それとも、悠然と、とにかく、さまざまな単語を連結させた継ぎ接ぎだらけの体躯をゆすぶって、ドイツ語が歩いているのを見てしまったのだ、なにも驚くことはない、雑巾の端にたくさんの子音を縺れさせ、舌のおさまりどころを探ろうと、うわ顎の窪みに唾液を溜めて、大きく腕をふって歩くそれの、こまかく神経質な表面を、空転する視線、(同書、150頁)

文字、そこだけをぬきだしてみれば躁病的な、奇怪な信仰が妨げられているのか、いったいどのような、それほど光は激しくはなく、誘蛾燈におびきよせられて天牛は、ベガを漁る、(『Hanakoganei Counterpoint』146頁)

わたしたちは、そのようにして、またしても、ことばにしうること、ことばにはしえないこと、そのどちらともいいがたい、ことばに結晶する手前で潰えてしまったもののことを夢見る。有限ではない、だからといっていつまでもつづいていくのでもない、無限からもはずれた世界にあって、ことばのみが、無際限にたなびいていくのを、ただ、完全なる停止へといざなわれるのを待つ。(同書、193頁)