多様な生きものの一つとして生きる狩猟生活の中で、少しずつ他の生きものにはない人間としての特徴を示していくホモ・サピエンスの生き方を見てきました。そこで、生まれてきた人間らしさの一つとして、心のはたらきであるアニミズムについて語り、それは古代人特有のものではなく、現代を生きる私たちの心の中にも存在することを指摘しました。

 それに続いて、そのような心のはたらきをもつホモ・サピエンスは、言葉を用いて物語をつくる能力があり、いかに生きるかということはどのような物語をもつかということであることを示しました。現代では世界観とした方がよいでしょう。因みに世界観とは、「自然をどう見るか、生活をどう見るか、そしてどう生活し、行動するかである。宗教、道徳、政治、商売、性、教育、司法、儀式、習俗、スポーツと人間生活のあらゆる面が含まれている」と哲学者の大森荘蔵先生から教えていただきました。生き方を組み立てると言えばよいでしょうか。 

「グローバル社会」の虚と実

 ところで、「サピエンス全史」で私たちの来し方を歴史的、総合的に捉えたうえで、これからの生き方について考えたY.N.ハラリは、著書「現代世界を読み解くための21テーマ」で、もう物語の時代ではないと言っています。物語は虚構であり、結局ごまかしに過ぎないのであると説明し、「政治家が聞こえのよい観念的な言葉を使って話し始めたときには、いつも用心しなくてはいけない」と警告します。それは現実の苦しみをごまかしたり非難をかわしたりしているのかもしれないからです。

 貨幣も国家も虚構の産物であり、今ここに多くの問題があることは確かです。だからと言って物語を否定してよいとは思いません。現実に真剣に向き合いながら、よりよい生き方につながる物語を紡ぐことはできるはずですし、それが必要なのではないでしょうか。

 ハラリの主張を知ってあることを思い浮かべました。20世紀末から盛んに言われるようになった「グローバル社会」という言葉です。グローブは地球ですからこれを言葉通りに受け止めるなら、地球という星に暮らす人々は、すべてつながりをもつ一つの社会に暮らすという意味でしょう。事実、生命科学研究は、地球上に暮らす80億人近い人々はすべて、20万年ほど前にアフリカで誕生した少数のホモ・サピエンスの子孫であり、生きものとしては一種、完全な仲間であり、お互いが理解し合えないことはあり得ないことを示しているのですから、基本は一つという認識で社会を組み立てていくのはあたりまえです。

 けれども、盛んに使われるグローバル社会という言葉は、そのような意味をもたない虚の言葉だったのでした。実際は新自由主義、金融資本主義を掲げる大企業が世界市場を支配する一律化を意味し、科学技術をそのために開発し、活用しました。地球のもつ多様性は無視した行為を「グローバル」と呼んだのです。それは格差を拡大し、結局世界の分断化をもたらすことになりました。詳細は述べませんが、そのような動きがプーチンによるウクライナ侵攻という最悪の事態を招くことになり、グローバルという言葉は聞かれなくなりました。本来のグローバルは霧の彼方にある状態です。

 けれども、それをすぐに物語の否定につなげるのがよいのかどうか。政治家などが現実をごまかすために物語をつくるのがいけないのであって、現実の苦しみに真剣に向き合いながら、よりよい生き方につながる物語をもつことは重要なのではないでしょうか。

食べることと生きること

 現代社会は、情報技術が急速に進歩し、地球上のどこにいる人とも言葉を交わすことができますし、大量の情報を日々手に入れることができます。今やメタバースと名づけられたヴァーチャルな空間で、分身を動かしての活動もできます。これは地球全体をつなぐ可能性を示すと同時に、虚構の拡大でもあります。多くの人が、子どもの頃から終日スマホの画面に向き合っている状態が続いた時、サピエンスはどのような存在になるのか、未来はどのようになっていくのか、予測できない不安があります。ここで技術の進歩を否定するのでなく、人間は40億年続いてきた生きものであることを忘れないようにすることにしましょう。

 日常で考えるなら、関心のほとんどがスマホの画面に向いている人でも食事はとっているでしょう。肉や魚や野菜、つまり生きものたちに支えられ、生きものとして生きるところから逃れることはできません。一時期、栄養分さえ取れればよいのだから完全栄養丸薬を飲む時代が来るなどという話もありましたが、今や消えました。宇宙ステーションでも、どれほど美味しいかだけでなく、見かけも美味しそうであることが求められています。近年、料理への関心は高まっており、食べることが生きることの中で大きな場を占めていることは、古代の人々と変わらないと言ってもよいようです。恐らくこれは今後も続くのではないでしょうか。

 ただ、古代と現代の大きな違いは、古代人は食べることについてすべて自分が責任を持っていたのに対し、私たちはスーパーマーケットですぐに料理できる材料、時にはすぐに口にできる製品を買っているというところです。食べることと生きることのつながりが消費の部分だけであって、生産とは何の関わりもなく暮らしている人が大半です。

 食べることが生きることだという感覚はあるけれど、生きものとしてのヒトが生きることの基本である、自然からの食べものの入手には関わらない生活をしているのです。ここに大きな虚構がつくられ、ごまかしも生まれる危険性があります。これでは本当に生きることにはなりません。だからと言って古代の暮らしに戻ることはあり得ませんが、この危うさをなくす生き方を探ることはできるはずですし、それが今なすべきことでしょう。

生命誌が綴る物語

 私たちは、生きることそのものがもつ面倒さ、複雑さを受け止めることが苦手になっています。でも、ごまかしを消すには、一人一人が自然に向き合い乗り越えて生きていく社会をつくる他ありません。そこでは皆が物語を共有できるはずですし、それがサピエンスの生き方ではないでしょうか。生命誌は、その物語は「私たち生きものの中の私」であると提案しています。まず「40億年の生きものの歴史の中に組み込まれた物語」、平たく言うなら「いのちの物語」を共有します。科学がこれまでに読み解いた事実をもとにした物語です。

 もっともここではすべてが読み解かれているわけではありませんし、恐らく科学ですべてを読み解くことはできないでしょう。しかし、新しい科学による物語は豊かです。たとえば暗黒物質や暗黒エネルギーについての最新研究成果をもとに描く宇宙のイメージは、古代の人々が描いた夢と重なりながら、私たちの自然認識を柔軟にしてくれます。すでに触れたアニミズムの世界も、生命科学が明らかにした事実が描くさまざまな生きものたちの中に暮らす私と生きものたちの関係、山や川や森との関わりとして描き出せます。それを統(す)べる神をイメージしなくとも、宇宙の中に誕生した地球で生まれた自然界として捉えるなら、その無限とも言える壮大さと永遠とも言える時間との奥にある深遠さへの畏れは自ずとわいてきます。

 このような物語の中に人間を置いた時、そこから最先端科学技術を武器開発に向け、権威や権力のために無差別で大量の殺人をするという行為が生まれてくでしょうか。私の中では「いいえ」という答えしか出てきません。

 科学の成果をすべて取り入れたサピエンスの生き方を支える物語は、アニミズムを生かし、宇宙への夢も抱く、生きることの喜びを支えるものです。生命誌はこの物語を紡いでいきます。 歴史を戻すことは不可能ですので、生命誌をもとにした考え方をすると言っても、現実を認めるところから始めるしかありません。そのうえでこの物語を生かせないだろうか。しつこく考えています。一つの試みとして、やはり食べ物で考えてみます。

農耕という生き方

 先回までに、生きものの一つとして生きる狩猟採集生活を見てきました。家族と集団とを組み合わせる独自の暮らし方を生み出し、道具をつくり、芸術を楽しみ、物語を語り合う日々は、サピエンスとしての生き方の始まりでした。その中で始まった定住がサピエンスの歴史を次の段階へと踏み出させます。農耕です。農耕文明と呼ばれるのでも分かるように、これは現代文明につながる大きな一歩です。狩猟採集生活を続けている人は21世紀の今も存在していますが、野生生物だけを食している人々はもう残っていないとされます。

 地球上のあらゆる場所で農耕へと移行したのがサピエンスです。狩猟採集生活にももちろん人間独自の側面はあったとしても、野生生物を食べるという点では他の生きものと同じであり、地平は連続しています。農耕になるとそこは違います。自然への操作が行われ、人間にしかない生き方が始まります。1万年ほど前のことです。食べることは生きることの基本ですし、先程述べたように、人々が食べる楽しみを求めているところからして、農耕という行為が消えることはないでしょう。従って農耕は、生命誌を切り口にして考察する恰好の対象です。

農耕への疑問

 定住を始めた人々が農耕を始めた歴史を追ってきた研究者たちは、長い間、これを人間のみごとな進歩と捉えてきました。私が子どもの頃よく聞いたのが、野蛮という言葉でした。野蛮は「文化が開けていない」という意味ですが、そこには「無教養で粗暴、乱暴で人道に反する」という意味も含まれています。狩猟採集生活をしている人々に対して、検証をすることもなくこのようなイメージを持っていました。もちろん今では、これが間違いであることはわかっています。今地球上で暮らす人々が、基本は自分と変わらない仲間であるという意識と同時に、20万年前から暮らしてきたホモ・サピエンスを同じ仲間と捉えるのが「生命誌」です。しかも先回までに見てきたように、狩猟採集生活には見事な文化があります。

 ところで、上述のような誤った認識もあって、従来は革命的進歩とされてきた農耕文明の始まりですが、近年、その評価に大きな疑問符がつけられるようになりました。これまでも多くを学んできたJ・ダイヤモンドは「農業革命は史上最大の詐欺だったのだ」とまで言っています。「パンドラの箱を開けてしまった」という言い方もされています。農業革命は手に入る食糧の総量を増やしはしましたが、よりよい食生活、より長い余暇には結びつかなかったことがわかってきたのです。農作業によって、椎間板ヘルニアや関節炎、ヘルニアなど、現代人も悩んでいる疾患が始まったとも言われます。

 農耕への道を歩んだことへの疑問が語られ始めたのは、20世紀末です。近代化の中での農業の科学技術化、工業化という大きな課題も含めて、考えなければならないことが山積しています。農業の見直しが必要なのですが、目の前で起きていることをどう変えるかという発想でなく、生命誌が明らかにした「人間は生きもの」という事実を知ったうえで農業を始めたらどうなっていただろうという問いを立てて考えたいと思っています。時代を戻して「もし〜ならば」という問いとしてではなく、現在を踏まえてこれからを考える時の問いとして考えるのです。とても難しい問いですが。