――90年代以降、社会が大きく変動していく中で生まれた「新しい正しさ」への反発として、「反リベラル市民主義」や「歴史修正主義」が出てきたということでしたが、これらはその後どのように展開していったんですか。

  その前に言葉の話ですけど、「リベラル市民主義」というのはそもそも変な言葉で、これはこの本(『ネット右派の歴史社会学』青弓社)の中で使用している造語です。「リベラル」とか「リベラリズム」という言葉が日本でよく使われるようになったのは90年代の半ば頃からで、それまではずっと「市民主義」といわれていました。市民主義はマルクス主義とはまた異なる左派的な考えで、一人ひとりの市民が責任を持って国家や市場の横暴に対抗し、その中で疎外されている人たちを助けていくというものです。つまり、現在のリベラリズムに非常に近い。戦後のそうした思想を一貫して捉えるために「リベラル市民主義」という言葉を使っています。

――なるほど。

 「リベラル市民主義」は戦後の知識人や文化人、メディアで言うと『朝日新聞』などが中心となって担ってきた価値観です。戦後の日本はめざましい経済成長を遂げたわけですが、その陰には安保や公害をはじめとするさまざまな問題がありました。そうした政治的・経済的な暴走にストップをかけ、自民党に支えられた政治経済のあり方を批判していく、という役割を果たしていたのが彼らだったんです。

 一方で、そういった知識人やマスメディアもある種のエリートなんですよね。日本の政治経済を動かしているエリートの横暴を批判している連中だって、結局は文化エリートじゃないかと。妙に上から目線だし、自分たちが決めた「新しい正しさ」を押し付けてくるだけじゃないかということで、それに反発する人たちが出てきた。

 60年代のアメリカで公民権運動や女性解放運動が起き、有色人種や女性といったマイノリティーを解放しようという動きが盛り上がっていく一方で、そういう新しい正しさの下でこれまで持っていた権利を失い、困惑する白人層が出てきた。それが「文化戦争」という事態を招き、結局、今日に至るアメリカの分断へとつながっていく。

――日本で起きてきたことと同じ構造なんですね。

 まったく同じなんですよ。そして、この構造の根幹にあるのは「誰が弱者か」という問題です。弱者を助けなきゃいけないと誰もが思っている。自由放任主義ではなく、困っている人・苦しんでいる人がいるならその人を助けようという気持ちはみんなが持っているわけです。でも、じゃあ誰が弱者なのかという認定が難しくて、そこに齟齬が生まれる。

 リベラルはマイノリティーが弱者であると。それは女性であり、有色人種や少数民族であり、戦争被害者を含めた外国人であり……。でも、ある種の人たちに言わせるとそうじゃない。中小企業が弱者である。あるいは女性よりも男性が弱者なんだ。男性の中で、もてない人や結婚できない人、そういう人こそが弱者なんだと。

 これは今、アメリカや日本を含めた世界的な問題になってきていて、弱者認定をめぐる争いが起きています。ふつうは私こそ強者だ、勝ち組なんだって言うじゃないですか。そうではなく、私こそが弱者なんだと主張する人たちの間の戦いなんですよ。

――私こそが助けられるべきだと。

 そうです。コロナで飲食店が大変だとなったときには同情していたのに、政府が補助金を出すと決まった途端、一斉にたたかれる。自分の方が大変なのに、あいつらばっかり楽しやがってと。生活保護たたきもそう。生活保護をもらってパチンコに行ってるじゃないかと。こういった風潮も90年代くらいから出てくるんですけど、その根幹にあるのは「福祉国家」の揺らぎという事態です。

 戦後に福祉国家という枠組みでき、国が弱者を助けるということに対して国民のコンセンサスが醸成されてきました。ところが80年代頃からその福祉国家が世界的に縮小していき――いわゆる「小さな政府」――、助けるためのパイが少なくなっていく。とりわけ日本では、企業の福利厚生や自民党の利益供与政治によって疑似的に福祉国家が作られていた面が強かったので、その縮小も急激でした。それで、このパイを誰に振り分けるかということで議論が白熱し、左右の対立が激化していった、という流れだと考えられます。

――いまに至る嫌韓や排外主義も、その文脈で読み解けるわけですね。

 嫌韓の問題もそうですね。日本が起こした戦争の犠牲者として、たとえば「従軍慰安婦」や在日コリアンの方がいるわけですよね。この人たちは明らかな弱者であるにもかかわらず、これまでないがしろにされてきました。そのことを認めて、きちんと謝罪していこうというリベラルの動きに対し、「そうじゃない。ないがしろにされているのは自分たちだ。自分たちこそが弱者なんだ」と主張する人が出てくる。

 かれらは在日コリアンが憎いというより、在日コリアンを弱者認定している強者に反発している。発言力のあるマスメディアや知識人といった特権階級が勝手に弱者認定している陰で、本当に大変な思いをしているのは自分たちなんだと。それで、「恣意的な」弱者認定をする強者に異議申し立てをするのと同時に、認定された弱者に対して意地悪をする。たとえるなら、先生がえこひいきをしている。それがムカつくから、えこひいきをされている生徒をいじめる、というのが日本的な排外主義の構図だと思います。

――なるほど。

 日本の場合は、ヨーロッパと違って、外国から来た人に自分たちの職が奪われるということはほとんど起きていません。つまり、損害を被ったから憎いのではなく、弱者認定されていることへの口惜しさなんです。弱者として認定され、優しくされていることが気に食わない。さっき言った、飲食店や生活保護受給者たたきと同じ。日本の排外主義は、まさに弱者認定をめぐる抗争だと思います。