論理とは何か

加藤 最初に言葉とは何かということについて考えていきたいのですが、これだけでもとんでもなく大変な話になると思いますので、ひとまず先生のご専門であるウィトゲンシュタインが言語についてどのように考えていたのかについて教えていただけますか。

中村 ウィトゲンシュタインという哲学者は面白くて、前期と後期で考え方が大きく変化しています。前期を代表するのが1921年に発行された『論理哲学論考』という本なんですけど、実は19世紀からこの本が出た20世紀前半にかけて、論理学の分野で革命が起きているんです。

 簡単に言うと、古代ギリシャにはじまる形式的な論理学が、フレーゲ、ラッセル、ホワイトヘッドといった哲学者によって「数学基礎論」、つまり数学を基礎づけるものへと変わったんです。この革命から始まった一連の動きを「言語論的転回」といいますが、ウィトゲンシュタインはもともと理系だったこともあり、この議論に興味をもったようで、ラッセルの下でこの新しい論理学を研究し、『論理哲学論考』を著したということになります。

加藤 論理学というのは文字通り論理を探求する学問だと思いますが、論理とはそもそもどういうものだと考えればいいですか。

 中村 論理というのは、われわれがこうして話したり、ものを考えたりする際のパターンのようなものだと言っていいと思います。いちばんわかりやすいのは言葉のベースにある構造ですね。われわれは、それぞれ自由に考えているといっても、基本的には言語を使って思考しているので、ある意味ではそれに拘束されています。同時に、言語のベースにある構造を共有しているからこそ、同じテーマについて考えたり、意見を言い合うことができるわけです。

 加藤 われわれが共有している思考のパターンが論理だということですね。「三段論法」とかは有名ですけど、じゃあそのパターンにはどんなものがあるかを考えていくのが論理学だと。

 中村 論理の理って「ことわり」ですよね。論理はギリシャ語で「ロゴス」というんですけど、このロゴスは言葉であると同時に、この世界のことわりや法則を意味しているんですよ。つまり、世界そのものが論理によって組み立てられおり、われわれは否応なくその構造に乗っかって生きている。『論理哲学論考』という本は、このような考え方に基づいて書かれています。

 加藤 仮にこの世界を、神が創ったWebサイトやアプリケーションだとすると、論理はその挙動を定義するプログラムだということですね。だとすると、プログラム=論理を解読しさえすれば、いちいち経験しなくても、この世界のことは全部わかるんだと。

 中村 ウィトゲンシュタインは神という言葉は使っていませんが、そういうふうに考えていいと思います。ただ彼は、世界のすべてが論理で解明できるとは考えませんでした。『論理哲学論考』は「語りえないものについては沈黙しなければいけない」という有名な一文で終わっていますが、この「語りえないもの」というのはそれこそ神であったり、道徳や倫理といったわれわれが生きていく上での価値判断に関わるもののことです。こうした事柄は論理の枠外にあり、言葉にすることはできないんだと。

 今日のテーマに引き付けて言うと、この「語りえるもの」と「語りえないもの」の区分は、AIやコンピュータが扱えるものとそうではないものにも対応していると思います。

 「私は私の世界である」

加藤 つぎに世界と「私」の関係について考えていきたいと思います。『論理哲学論考』には「私は私の世界である」「主体[私]は、世界の一部ではない。そうではなく世界の境界」といった記述がありますが、これはどういった意味なのでしょうか。

中村 これは西洋哲学の歴史に古くからある「独我論」という考え方に由来するものです。世界と私がイコールだというのはどういうことかというと、この両者が絶対に切り離せないということです。

 私は――おそらく加藤さんもそうだと思うんですけど――生まれてから今までずっと「私」という中心から世界を見てきましたし、これからもたぶんそうだと思います。この「私」という中心からは絶対に脱けられないし、どんなに頑張っても、加藤さんの中に入ることはできません。万一入れたとしても、私のままで入ったとしたら、それは結局私(=中村)であって、加藤さんではない 

加藤 アニメや小説でよくある入れ替わりは、身体が入れ替わっているだけで、私が入れ替わっているわけではないんですね。

中村 そういうことです。私が加藤さんになるんだとしたら、加藤さんの「私」にならないといけないんだけど、そういうことは決して起こらない。ウィトゲンシュタインはそのことを言っているんです。

 独我論にはいろいろなバリエーションがあって、「私以外の世界は存在しない」みたいなものはちょっとどうかなと思いますけど、「私は私の世界である」というのはまさにその通りだと思います。

 加藤 「私」というのは身体と中身に分離できるようなものではなく、誰もがそこでしか生きていくことのできない唯一無二の場所=世界だということですね。

 中村 私はよくワンルームマンションに譬えるんですけど、われわれはそれぞれ別々のワンルームマンションにいるわけです。そして、他人のマンションには絶対に入ることができない。そのことがずっと不思議で、別に入れてもいいと思うんですけど、なぜかそのような構造にはなっていません。アメリカに行こうが、ヨーロッパに行こうが、アフリカに行こうが、行くのは常に「私」であり、この狭苦しいワンルームマンションの窓からアメリカなりアフリカなりの風景を見るだけなんです。この構造のことを独我論というのではないかと思います。

加藤 お聞きしていてちょっと思ったんですけど、私と世界がイコールだとすると、私が死んでしまったら世界もなくなってしまうということですか。自然科学が対象としている、いわゆる客観世界というものは、ウィトゲンシュタインは認めていない? 

中村 ウィトゲンシュタイン自身は、別にすべての世界が消滅するとは思ってないと思いますが、私の死は世界の消滅だみたいなことは言っています。私=世界という構造で考えれば、私がなくなれば必然的に世界が消滅することになりますよね。私が消滅した後のことは、結局わからないので。

加藤 もう一つの、私が世界の一部ではなく「世界の境界」だというのはどういうことでしょうか。

中村 「境界」というのは、私というワンルームマンションからの視野、いわば映画のスクリーンのようなものです。私というスクリーンがあり、そこでは世界がさまざまに展開していくんだけど、映画にスクリーンそのものが出てこないのと同じく、世界に私が登場することは絶対にない。あるいは、私=眼球と考えてもいいかもしれません。眼球は視野を構成する大本であり、その視野に眼球そのものが現れることはありません。これが私と世界との関係なんです。

加藤 世界の一要素として私が存在しているのではなく、私自身がこの世界を構成しているということですね。それが意識的であるかどうかはともかくとして。 

中村 その通りです。 

加藤 でも、世界の法則でもある論理を探求していた前期のウィトゲンシュタインが、私=世界という非常に主観的な世界観を語っているのはちょっと不思議な気もします。

中村 『論理哲学論考』には、純粋な論理で世界の構造を語る箇所と、こういう感じで急に形而上学的な話になるところが混在しているんです。後者は明らかにショーペンハウアーの影響があると思いますので、この部分は当時の論理学をベースにして書いた部分ではないということが言えると思います。