神仏は叔父さんのようなもの

 前回は、笑う仏と菩薩の話でした。そこで今回は逆に、笑われる仏の例をとりあげましょう。一神教の世界と違い、日本では超絶的な神の概念がなく、神仏は人間的な存在とみなされて頼られがちであるため、親しみを持って笑われることもあったのです。

 こうした神仏観については、「神も仏もないものか」という言葉が良く示しています。この言葉は、「なぜどうにかしてくれないのか。これだけ困っているのだから、助けてくれても良いではないか」という思いの現れです。

 つまり、神仏は、「どうしようもなく困った時は、お願いすれば必ず助けてくれる、頼りになる親戚の叔父さん」のような存在とみなされていた、ということです。日本の神とインドの仏では性格が違うはずであるのに、「神も仏も」と言うのは、両方とも同じような存在と考えられている証拠ですね。

 そうした「叔父さん」が実際にいて親戚中で愛されていれば、酒好きだとか、忘れ物が多いとかいった欠点があっても、大目に見られることでしょう。むしろ、そうした面があってこそ、より親しみが増すかもしれません。

 そのせいか、日本では中世あたりから仏や菩薩などを人間扱いし、からかう例が見られるようになります。たとえば、天台宗の光宗が14世紀の初めから中頃にかけて編纂[へんさん]した『渓嵐拾葉集[けいらんしゅうようしゅう]』の異本によれば、『鳥獣戯画』の作者とも言われてきた鳥羽僧正は大変な学僧であったうえに巧みな絵師でもあり、「異形[いぎょう]の不動」、つまり、変わった姿の不動明王を数多く描いたとされています。

 不動が便所で下痢をしており、周りの童子たちが臭がって鼻をふさいでいるところとか、便所に入って剣で尻を拭いている絵などだそうです。『渓嵐拾葉集』は、これには秘伝があり、通常の教えである顕教[けんぎょう]と秘密の教えである密教は一致することを示し、汚いとか清らかといった対立にとらわれた見解から離れさせるための方便なのだと説明しています。

  方便とはいえ、あまりにもあまりではないでしょうか。とりわけ下痢の絵などは、不動を並みの人間扱いし、笑いものにした滑稽な描き方と言うほかありません。しかも、このように仏菩薩の類を人間扱いする傾向は、時代がくだるにつれて強まっています。それが頂点に達したのが江戸時代でした。

聖人たちが遊廓へ

 その代表例は、宝暦7年(1757)に出版された洒落本[しゃれほん]である『聖遊廓[ひじりゆうかく]』でしょう。作者不明のこの作は、孔子と釈迦と老子が仲良く遊廓に遊びにゆくという、とんでもない話です。中でも釈迦は主人公とされており、お気に入りの遊女と心中覚悟で駆け落ちすることになっています。

 舞台は、唐代の詩人である李白が主人となっている揚屋[あげや](客が遊女を呼んで遊ぶ店のこと)です。吉原遊廓の店のように描かれているその揚屋に、年代は合いませんが、やってきたのが儒教の聖人である孔子です。

 孔子が李白と話していると、裏口から道教の聖人である老子が入ってきたうえ、さらに釈迦も加わります。孔子が地味な出で立ちであるのとは反対に、釈迦は派手な着物に金襴[きんらん]の帯を締め、異国の香をくゆらせながら、「仮の世大夫」という名の遊女を連れ、相乗り駕籠で乗り付けるのです。

 亭主の李白が、いつも二人連れで仲がおよろしうと挨拶すると、釈迦は、「こうして連れ立っていても、会う者は常に離れ、命終[みょうじゅ]の時は随わない」と説法のように語ったため、仮の世は、「あれ、李白さん。聞いてくだしゃんせ。あのように無常な事ばっかり言うてござんすわいな」と遊女言葉で愚痴ります。

 孔子には「大道[おおみち]大夫」、老子には「大空大夫」という似つかわしい名の馴染みの遊女が呼ばれ、皆であれこれ冗談話をしたのち、三聖人はそれぞれの敵娼[あいかた]と寝所に入ります。

 大道大夫が「私の心はこの通り」と着物をずらして孔子に肩を見せると、そこには「孔子命」と彫られていました。儒教の聖人であってお堅い孔子は、「身体髪膚は父母より受けたもの。傷つけないのが孝の始まりだ」などと『論語』の言葉を引いて戒めますが、大道大夫は「孝にならなくても、あなたのためなら」と思いを打ち明けます。

  この作は、すべてこの調子であって、三人の聖人は『論語』や『老子』や『般若心経』などの言葉を用いて語り、読者を笑わせるのです。

釈迦と遊女の駆け落ち

 孔子と大道大夫がそうしたいちゃいちゃのやりとりをしているところに、李白の妻が飛び込んできて、釈迦大尽[だいじん]と仮の世大夫がいなくなったと告げます。老子も越中褌を引きずりながら出てきて皆で驚いていると、釈迦の部屋の枕元に書き置きがありました。

 書き置きは、なんと、卒都婆[そとば]などでよく見るインド文字の悉曇[しったん]で書かれていました。駆けつけた釈迦の弟子の阿難(アーナンダ)に読みあげさせると、二人の辞世の和歌であったため、駆け落ちではなく心中だと、一同は青くなります。

 ここから、近松門左衛門の『曽根崎心中』の道行きのような名調子の道行き文となりますので、冒頭と中間の一部を引いてみましょう。

さればにや釈尊は、仮の契りも仮の世と、深き妹背[いもせ]の仲となり、廓を抜けてただ二人、越し路の空を後に見て、十万億へと心ざす、道はどこやら後先も、涙の雨の晴れ間なく、……「いとしいぞや」と言わしゃんした、その一言が縁の端[はし]、……天上天下唯[た]だ一人、お前ならでと思いつめ、……

 いかがでしょう。「十万億へと心ざす」とは、十万億もある仏国土の更にその先にある西方極楽浄土をめざすということです。後半は、釈迦から「いとしいぞや」と言われた言葉がきっかけとなり、この世界であなた一人しかないと思いつめるようになった、ということですが、「天上天下唯一人」とは、釈尊が誕生した際、七歩あゆんで「天上天下、唯我独尊」と宣言したという伝承をひねったものです。遊んでますね。 

 この道行き文では、仮の世大夫が、妻がいる人と将来の約束はしないものだという格言を我が身に思い知るつらさを嘆き、釈迦の妻である耶輸陀羅[やしゅだら=ヤショーダラ]さんが私を恨んでいなさるだろうと、釈尊のたもとにすがって泣くと、釈尊が「色即是空と聞く時は、自他平等でへだてはない」と言い聞かせます。

 そして、最後は手に手をとって三途[さんず]の川を渡る船に乗り、「彼岸[かのきし]にこそ着きたまう」で終わっており、悟りの世界に行き着いたことになっています。これは目出度いのか、そうでないのか。 

『聖遊廓』と似た設定の洒落本

 この『聖遊廓』は、儒教・仏教・道教の聖人を笑いものにした不届きな作ということで取り締まられそうなものですが、実際には、略式ではあるものの開版願いを出して許可されています。江戸時代は、幕府の政策を批判したりすれば捕縛されたものの、こうしたおふざけはお構いなしとされていたのです。

 実際、天明3年(1783)にも、三人の聖人が吉原に遊びに行くという洒落本、『三教色』という本が出版されています。作者は、武士から遊女屋に婿入りして戯作者となった唐来参和(1740-1811)。『聖遊廓』では、孔子・老子・釈迦の三人が遊廓で遊ぶという話でしたが、『三教色』では、老子に代わって神道の天照皇大神宮が加わっています。

  天照大神は女神のはずですが、『三教色』では、「甚[はなは]だ御蕩楽[おんどうらく]にましまして」配下の神から意見されるほどの男性神とされています。なお、『三教色』とは、儒教・道教・仏教の教を比較して仏教の優位を説いた空海の『三教旨帰[しいき]』のもじりであって、三教の聖人たちの色事という意味ですね。

  この『三教色』では、釈迦は駄洒落好きな江戸っ子として描かれています。そのため、「茶(冗談)ばかり言いなんす」と相方の三国大夫に言われると、釈迦は「生まれた時、茶で産湯かけたから、それでさ」と答えています。釈尊の誕生を祝う降誕会[ごうたんえ]の時、幼児姿の仏像に甘茶をかけますが、それで茶番好きになったという冗談です。

 『三教色』の挿絵を描いたのは、誰あろう、あの喜多川歌麿です。このことだけ見ても、吉原通いをする釈迦を描いた洒落本が、厳格な僧などは別でしょうが、一般には楽しい娯楽作として受けとめられていたことが分かるでしょう。江戸時代は、そうした時代だったのです。