前回は、梵語の音写語の例ということで鉢に触れました。そこで今回は鉢について……というように、最近のこの連載では、前回の内容を承けて次の話を進めています。

 これは私が敬愛してきた幸田露伴がその最高傑作である『連環記』において、「法縁微妙[みみょう]、玉環の相連[あいつら]なるが如しである」と述べ、人と人の意外なつながり具合を見事に描いていった例にならいたい、という思いによるものです。

 『連環記』と似た面がある軽妙な小品、「骨董」でも、中国の骨董品をめぐる話が「これで沢山であるのに、まだ続くから罪が深い」と自分でも述べるほど、次から次へと続いていますし。

 何しろ、私は幸田露伴と娘の幸田文の文章が大好きで、この二人の作品しか読まない時期がかなり続いたほどですので、この連載を途中からそうした形で続けることにした次第です。今回、鉢をとりあげたのは、実は、その『連環記』の主人公である大江定基(962頃~1034)、つまり出家して僧になった寂照には、鉢にまつわる有名な話があるためです。

 飛鉢の法

 『連環記』では触れていませんが、この話は『本朝高僧伝』『今昔物語集』『宇治拾遺物語』に見えています。『本朝高僧伝』の大江定基伝では、入宋した寂照が、雨期となる三ヶ月の間、一箇所にこもって修行に励む期間である安居[あんご]に加わり、その最後の日に僧侶たちの端に坐って供養された食事を受けようとした、と述べます。

 彼の地の高僧たちは、供養される斎食[さいじき]を鉢に入れてもらうために、席を立たたずに「飛鉢の法」によって鉢を飛ばし、食べ物を入れてもらってまた自分の前に着陸させていました。今で言うと、ドローン操作のようなものですね。

 ところが、寂照はそうしたことはできないため、恥じて心の中で「深く本朝の神明仏法を念じ」ると、寂照の鉢は空に浮かび、堂をぐるりと三周した後、斎食を受けて戻ってきたため、異国の人々は感動して涙を流し、寂照を賞賛したとあります。

 『宇治拾遺物語』になると記述がさらに詳細になり、寂照が、自分は飛鉢の法は習っていないため、鉢を飛ばすことはできないと述べると、「日本の聖、鉢遅し遅し」と責められたと記されており、より緊迫した描写になっています。

 ただ、鉢を飛ばす話と言えば、有名なのは、『信貴山縁起絵巻』の例でしょう。この話では、信濃の出身の僧であって信貴山で修行していた命蓮は、食事については、ふもとの長者の邸の校倉まで鉢を飛ばし、そこに食料を入れてもらっていました。

 あるとき長者がいつも来るので憎らしいと腹を立て、飛んで来た鉢を倉の隅に投げ捨てて鍵を掛けて帰ってしまうと、倉がゆらゆら揺れて空に浮かび、倉から抜け出した鉢が倉全体を載せたまま空を飛び、信貴山にまで至って命蓮のすぐ横に倉をどさっと落とします。

 人々は慌て騒いで鉢の後を追って来ており、長者も謝って倉を返してくれるよう頼むと、命蓮は米だけ返そうと述べ、鉢の上に米一俵を載せて飛ばしたところ、残りの米もその鉢の後を追って群雀のように続いて飛んで行った、という話です。日本三大絵巻の一つに数えられる国宝『信貴山縁起絵巻』の活き活きとした絵が有名ですね。

仏の鉢の伝説

 鉢を飛ばす術については、仏教では早くから説かれていました。特に密教経典にはそうした記述が数多く見えていますが、道教と習合した内容も見られるため、飛鉢法を記した経典は、唐代半ば以後に中国で作成された可能性が高いことが指摘されています。

 唐代以前の仏教文献で目立つのは、神秘的な僧侶が鉢を空中に投げ上げると、飛んで行ったなどといった伝承です。これはインドにおいて釈尊が鉢を用いておこなってみせた神変の応用ですね。

 仏の鉢については、早い時期からそうした奇跡がよく語られていました。たとえば、悟りを得たばかりの釈尊に出会った二人の商人が食事を供養しようとしたものの、鉢がなかったため、釈尊に付き従っていた四天王が石の鉢をささげると、釈尊はその四つの鉢を一つにして食べ物を入れてもらい、食べ終わって鉢を虚空に投げると、鉢はどこかに消えていった、という伝承があります。

 この話については、経典によって内容が様々であり、四天王が最初に黄金の鉢を捧げると、釈尊は出家にふさわしくないと言って断り、銀の鉢も断り、以下、種々の宝玉で出来た鉢についても次々に断ったため、四天王が石の鉢を差し出すたところ、それを受け取って一つにした、とする話が多いようです。

 また、これより前に、釈尊が長い苦行の末、こうした修行は無益と悟り、体力を取り戻して坐禅しようとすると、村の娘、スジャーターが滋養に富んだ乳粥を黄金製の鉢に入れて釈尊にさしあげ、釈尊はそれを受け取って食し、終わると鉢を河の中に投げたところ、鉢は河を逆流してカーラ龍王のもとに届いた、という伝承もあります。

 二人の牧女が乳粥をさしあげたとか、スジャーターの話となっているものの、銅の鉢に入れて乳粥をさしあげたと記す経典もあり、伝承は様々です。中でも特に信仰を集めたのは、四天王が奉じた石鉢と伝えられるものであって、インドの西北地域で祀られていた鉢です。 

 『高僧伝』によると、かの鳩摩羅什[くまらじゅう]は12才の時(361年)に、遊学先の沙勒国で仏鉢を持ち上げようとしたところ、重くて持ち上がらず、思わず声をあげたところ、母親から「心であれこれ分別するから鉢に軽い重いの違いが生ずるのです」と叱られた由。鳩摩羅什の母は、西域のコータン国王の妹であって、大変な教育ママであったことで有名です。

 いずれにしても、石の鉢を受け取ったとか銅の鉢を受け取ったとされているのは、出家修行者は、粗末な器しか持ってはならないとされていたためでしょう。釈尊と同時代に活躍したジャイナ教の開祖、マハーヴィーラに至っては、鉢すら持たず、パーニパートラ(手鉢)、すなわち手の中に供物を受けて食べたと伝えられています。

 このため、不殺生と無所有を尊ぶジャイナ教のうち、白い衣を着ることを許す白衣派は木や瓢箪や粘土製の鉢を使うのに対し、着物すら着ない空衣派(裸形派)は、現代においても素っ裸であって、手を鉢にして施食を受け取っています。インドならではですね。

 それはともかく、インド西北の地で信仰を集めた仏鉢は、時代がくだるにつれていろいろな都市に移され、弥勒菩薩が遠い将来に下界に下りて来て仏となるのを待っているとされたようで、インドに渡った中国僧たちがカシュミールなどの地で仏鉢を目撃しています。

 404年に中国を出発してインドに向かった智猛は、鉢について「紫紺であって光っており、(四天王の四つの鉢を一つにしたことを示す)四隅がはっきりしていた」と報告しています。

『竹取物語』における仏鉢

 このように、多くの人の興味をひき、尊重されていたからこそ、『竹取物語』でかぐや姫が五人の求婚相手に難題を出した際、まっ先に石作皇子に「仏の御石の鉢」を持ってきてくださいと求めたのですね。

 むろん、そんなものが手に入るはずもないため、石作皇子は、「今日、天竺に向けて出発します」と使者に告げさせたうえで、三年間、姿を隠し、ある山寺の賓頭盧[びんづる]尊者の前に長年置かれていて真っ黒になった鉢を錦の袋に入れ、かぐや姫の家に持参します。

 かぐや姫があやしがって見ると、和歌が添えてありました。さんざん苦労しつくしたため「ないしのはちの涙ながれき」とあり、「泣いし(泣いた)の鉢」に「いしの鉢」、「はちの涙」に「血の涙」をかけた掛詞満載のわざとらしい歌であって、鉢には光はまったくありません。

 そこで、かぐや姫は、「(苦労したという涙の)露ほどの光がせめてあってほしいのに、小倉山(うす暗い山)で何を求めて来られたのでしょう」と返歌をすると、見破られた皇子は鉢を門のところに捨て、「雪山のように美しく輝くあなたに出会って鉢は光をうしなったのではないか」ということで、鉢は捨てたものの「はち(鉢・恥)捨てても、やはり結婚できるのではないかと期待されます」と、ずうずうしい返歌をします。

 かぐや姫は、あきれて返事もしませんでした。このように、皇子が鉢を捨てたうえでなお言い寄ったため、世間の人々は厚かましいことを「はぢ(恥)を捨てる」と言うようになったのだ、と『竹取物語』は説いてこの段をしめくくっています。しょうもない親父ギャグの連発です。

 そもそも『竹取物語』は、竹籠などを作る職人の翁が竹林の中で光っている竹の中にかぐや姫を見つけ、「こ(籠・子)」になるはずの人だと言って家に持ち帰るという駄洒落で始まっており、結末も同様です。古本系だと、かぐや姫が贈った不死の薬を日本一高い山で燃やしたから「ふしの山」と言うとし、通行本系では、大勢の兵士を登らせたから「士に富む富士の山」と言うとなっています。駄洒落で始まり、駄洒落で終わるのです。

 物語の中では、ここでは書けないような下ネタの洒落を言っている箇所もあります。作者については諸説ありますが、私が以前書いた「変化の人といふとも、女の身持ちたまへり:『竹取物語』の基調となった仏教要素」という論文では、色っぽい和歌を詠んだことで知られる僧正遍昭か、そうしたタイプの僧だろうと結論づけました。というのは、石作皇子が鉢を捨てた後に恥ずかしげなくまた言い寄るというのは、『維摩経』にもとづいているからです。

『維摩経』では、仏弟子である須菩提[しゅぼだい]が鉢を手にして托鉢して回っていた際、家の貧富などを考慮していた点を維摩に難じられ、恥じて鉢を置いて家を出ようとしたところ、維摩は「鉢を取れ」と語り、一切の現象は幻にすぎないと告げます。

 また、阿難が体調を崩した釈尊に命じられ、鉢を持って牛乳を貰いに出かけたところ、維摩から「釈尊は金剛の体であって病気などしない。病気だなどと外道に聞かれ、我々に恥をかかせるな」と辱められて困惑していると、天から「鉢を取れ。釈尊は、劣った時代の世間の人々を教化するため、敢えてそうした姿を示すのだ。慚(は)じることなかれ」という声がした、と記されています。このうちの「鉢を置く」という箇所を、中国の注釈では「鉢を捨てる」と表現しており、『竹取物語』はそれを踏まえているのです。

 『竹取物語』は、インドの経典である『月上女経』に基づくことは、かの博学な露伴が早くに指摘していました(これで、環のように冒頭の話に戻れました)。ちなみに、光輝く姿で生まれ、男たちの求婚を断る「月上女」は、「月の上の女」、つまり月にいる美女ではなく、「月の光より上の(月光より勝る)輝かしい娘」です。