月は晴れても?

 前回は月の光の話でしたので、今回はその反対の闇をとりあげることにします。月の光と闇と言えば、老齢の方が思い出すのは、「空は晴れても心は闇だ」という泉鏡花『婦系図』の名セリフでしょう。

 私は学生の時に『婦系図』を読んだ際、その箇所が「月は晴れても」となっていたため、違和感を覚えた記憶があります。というのは、小さい頃からラジオやテレビなどでこのセリフが語られるのをよく聞いていたのですが、その場合、「空は晴れても心は闇だ」と言うのが普通であって、私もそれで覚えていたからです。

 そのため、「元の文章は違うんだ」と驚く一方で、芝居や映画によって世間で流布している「空は晴れても」の方が、自然な表現のように思われたことでした。芸者のお蔦との関係を表に出せない主税[ちから]が、人目を忍んで夜に二人で湯島天神にお参りに来ているという設定とはいえ、「晴れる」のは「月」でなくて「空」のはずですし、「月は」というなら「照っても」などとするのが普通でしょう。

 ただ、大学院で学ぶようになって、月を覆っていた雲が去って月が輝くことを「月晴(月、晴れる)」と表現する例は、中国にも日本にもあることを知りました。そのうえ、「月」と「心の闇」を対比することは、古くからの日本の伝統でした。

 むろん、この伝統は仏教に基づきます。灼熱のインドでは、昼間の照りつける太陽の光より、薄暗くなって涼しくなった夕方の空に輝く月の光の方が愛好されたことは、前回紹介した通りです。また、インド仏教では、人々の無明[むみょう]、すなわち無限の過去から続く根深い迷いは、しばしば「闇」「黒闇」に喩えられました。ですから、そうした無明を除くことを述べる際、「月の光が闇を除くように」という譬喩[ひゆ]が好んで用いられたのです。

心は闇か

 問題は、「心」と「闇」の結びつきです。漢訳経論では、「心闇」とある場合は、「心闇鈍」「心闇昧」「心闇浅」などの用例が示すように、「心が暗くて愚かだ」といった形の用例が多く、「闇」を名詞とする「心の闇」のような表現は、『華厳経』の「(仏国土の光が)衆生心の重闇を除滅す」という箇所や、『正法念処経[しょうぼうねんじょきょう]』が、「(奥深い智恵の)灯明が癡心の闇を除く」と述べている箇所くらいであって、ごく僅かです。

 ただ、心の働きと地獄のあり方とについて詳細に説くこの『正法念処経』は、源信『往生要集』でも盛んに引用されていることが示すように、日本では平安中期から広く読まれて影響を与えています。そのためなのか、日本では「心の闇」や「心は闇」などの表現はよく用いられており、和歌ではこれが定型句にまでなっているほどです。

 そのきっかけは、『伊勢物語』のうち、題名の由来となった第六十九段でしょう。ある男が、朝廷で用いるために伊勢に狩の使いに出かけたところ、斎宮[さいぐう]、すなわち、伊勢の皇祖神にお仕えする皇族女性が親に命じられて手厚くもてなしたため、男は恋心をいだくようになり、夜にこっそり逢いたいと伝えます。

 斎宮は未婚であらねばならないので絶対に無理なのですが、男が寝られずにいると、人が寝静まった深夜になって斎宮がそっとやって来て部屋の前に立っていたため、男は喜んで引き入れて床をともにします。しかし、夜が明けるかなり前に、斎宮は戻っていってしまいました。朝になって斎宮から和歌が届きます。

 君や来し我や行きけむおもほえず夢か現かねてかさめてか

 「あなたが来たのでしょうか、私が行ったのでしょうか。記憶が定かでありません。あれは夢だったのでしょうか、現実だったのでしょうか」という歌です。男はこれに対して、

 かきくらす心の闇にまどひにき夢うつつとはこよひさだめよ

 「急に真っ暗になる心の闇に迷ってしまいました。夢だったのか現実だったのかは、今夜(もう一度訪ねてきて)定めてください」と返歌したものの、それきりで会えないまま終わってしまったとなって、話は終わります。

 このうち、女の歌は、阿弥陀仏などに会いたいと強く願っていれば、目の前に諸仏が立つが、それは仏が来たのでも自分が行ったのでもなく、心が造りだしたものだとし、隣国の美しい遊女の噂を聞いて会いたいと強く念じていれば、夢の中で交わることができるようなものだ、と説く『般舟三昧経[はんじゅざんまいきょう]』に基づいています。

 男の歌の方は、天台宗の開祖である智顗[ちぎ]の『六妙法門』が、禅定に努めていると「忽然として垢心昏闇[くしんこんあん]し、境界を迷失す(急に煩悩で汚れた心が真っ暗となり、迷ってしまって見ている対象が分からなくなる)」る場合があると述べている箇所に基づきます。

 また、「今宵定めよ」の部分は、『古今集』では「世人定めよ」となっており、『伊勢物語』の写本の中にもそのようになっているものがあるため、これが元の形と思われます。この表現は、智顗の『摩訶止観』では、経典が「一心に十二因縁を具す」と述べている「一心」とは区別を離れたものであると述べ、「世人は一異と定相の一念に取著す(世間の人は、一つだとか異なるといった点、また固定した概念としての一念に執著する)」と説いた部分を踏まえたものです。

 つまり、男は、夢なのか現実かなのかなどということは、真実の世界を妄[みだ]りに区別したがる世間の人に任せておきましょう、と説いたのです。「今宵定めよ」に改めた方が、恋物語らしさは増しますね。

心の闇に迷う

 ただ、仏教教理に基づく贈答だけに、両方の歌とも理屈くさすぎる面があります。そのためか、類歌も多少作られたものの、「心」と「闇」を詠んだ和歌としては、『後撰和歌集』にも収録された藤原兼輔[かねすけ](877-933)の次の歌の方が圧倒的な影響を与えています。

 人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな

 親の心は闇ではないものの、子のことを気にかけすぎるため、つい迷ってしまって常識からはずれた言動をしてしまうことだ、と述懐した歌です。紫式部はこの兼輔のひ孫であったうえ、『伊勢物語』にも親しんでおり、唯識説も学んでいて心のあり方に関心をいだいていましたので、『源氏物語』では「心の闇」「心は闇」という表現を数多く用い、登場人物たちの心の奧の動きを追求しています。

 これが後世に大きな影響を与えました。それにさらに拍車をかけたのが、平安時代に盛んになった本覚[ほんがく]思想でした。本覚思想では、人はもともと悟りの心を持っており、それが煩悩に覆い隠されているだけだとしますが、その際、悟りの心を月に、煩悩を雲に喩えることが盛んにおこなわれたのです。

 それが和歌にも反映し、美しい自然を詠むことと、心のあり方を詠むことを重ね合わせた歌が数多く生まれました。その一例が、源実朝の『金塊集』に見える、

 月影もさやには見えずかきくらす心の闇の晴れしやらねば

です。この歌には、「月影(月の光)」「心の闇」「晴れ」るという要素が揃っています。「かきくらす」とあるため、先述した『伊勢物語』の影響を受けていることが分かりますね。

近代の「心の闇」

 では、この伝統はいつまで続くのか。明治時代になって文学界のヒーローとして颯爽と登場したのは、尾崎紅葉でした。紅葉は、ディッケンズなどの英文学も好んだものの、江戸の浮世草子などの影響も強く、軽妙な文体で人気を呼びました。その結果、軽薄であって人間の深層に迫っていないと批判されたため、紅葉は親しんでいた『源氏物語』に見える心理追求の影響も受けた意欲作を発表します。

 その小説の題名が「心の闇」であって、主人公は、宿屋のお嬢さんに恋する盲目の按摩の青年でした。青年は結婚したお嬢さんの新居のまわりをうろつき、不審者として連行され、お嬢さんは、死人のような、また怪物のような顔をした青年の夢に悩まされるようになり、物語は以下の文で終わります。「言はずして思ひ、疑ひて懼[おそ]る。是も恋か、心の闇」。

 紅葉の「心の闇」が発表されたのは明治26年(1893)です。その紅葉を世に知らしめたのは、明治22年(1889)に発表した『二人比丘尼色懺悔』であり、これを読んで感激し、紅葉に師事して書生もつとめた泉鏡花の出世作は、明治33年(1900)の『高野聖』でした。その鏡花が冒頭に挙げた、「心は暗闇だ」というセリフで知られる『婦系図』を明治40年(1907)に発表したのです。

 なお、紅葉と並んで活躍し、「紅露時代」という言葉まで生まれた幸田露伴の出世作は、明治24年(1891)から翌年にかけて発表された『五重塔』でした。その露伴に絶讃され、寺の息子として生まれた少年と遊女の妹である少女のせつない恋心を描いた『たけくらべ』を描いた樋口一葉は、『源氏物語』を愛読し、「常住心月輪」(*)と題して、 

 晴れくもる何所の空をながめけむ月は心のうちに澄みしを

という歌を日記に記していました。もともと(真理の)月は変化することなく心のうちに澄んでいたのに、というのは、現実としては煩悩の暗雲に覆われて心が闇になっている、ということですね。 

 このように、明治の中頃までは「闇」は「月」と対比されていたのです。「月は晴れても」がわかりやすい「空は晴れても」に変えられた時、長い仏教の伝統は途絶えたのだ、と言えるでしょう。

(*)常住心月輪=人は不変で清浄な真理の心を備えているとし、暗い雲があろうと無かろうと輝いているその心を月にたとえた密教の言葉。