――「私は○○である」とか「私たちは○○である」と誇りをもって語れるものが、きっと人間には必要なんだと思うんです。でも一方で、それこそが他者への暴力を生み出してきたという面もやはり否定できない。白人による黒人や先住民への暴力も、「白人」というアイデンティティを守る行為だと解釈することもできますよね。異なる人びとが、互いにリスペクトとまではいかないまでも、せめて傷つけあうことなく共生していくためにはどんなことが必要なのでしょうか。

 すごく重要な問い掛けですね。僕は学問に、特に人文社会科学にできることがもっとたくさんあると強く思っています。アイデンティティに関して言うと、今まで学問の貢献の仕方は、先ほども述べたとおり、集合的なアイデンティティが構築されていくメカニズムを明らかにしていくことだったと思うんです。たとえばベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』にしても、ミシェル・フーコーの議論にしても、最初からある実体を想定するのではなく、それが実体になるために必要だったもの――社会制度や言説やメディアなど――を見ていった。

 それにはもちろん一定の効果があったのかもしれません。たとえばナショナリズムに関していうと、一度も会うことのない人とのあいだに、命を懸けるに値する宿命的な関係を見いだし、そのために自らすすんで命を投げ出す人が大勢出る仕組みが、以前よりは理解されるようになった。要するに私たち近代人を拘束するものがどのようにつくられているのかが明らかになったわけです。

 日本人やアメリカ人、中国人、韓国人など、国民や民族の歴史的な形成過程やその限界とか落とし穴を批判的に論じることのできる人の数は(多いかどうかわからないけれど)増えたし、ナショナリズムがヒステリックに高揚し、国家が戦争を起こすことの可能性を考えられる人の数も増えたように思います。

 でもその声は、「ナショナルなもの」以外に頼るものがない人たちにはほとんど届いていない。現に、ナショナリズムの魔術性がこれだけ批判されているにもかかわらず、それは全然なくならないどころか、むしろ強まっているようにすら見える。それを、教育程度の問題としたり、最先端研究の成果がいずれは浸透すると言ってみたりすると、ストリートで起きていることを見誤る。

――アメリカ人であるとか日本人であることを相対化するものがあればいいんですけど、それが唯一のアイデンティティになると、国家と簡単に一体化して、それこそナショナリズムの高揚につながりますね。

 それに関して、ハーレムのフィールドワークで参考になるなと思ったのは、さっきもお話しましたけど、アイデンティティの扱い方なのです。かれらの会話にはすぐに「白人は」「ラティーノは」「中東系のやつらは」なんて言葉が出てきて、それをネタにしょっちゅういがみ合っているんですけど、目立たないところで必ずそれを仲裁するような力が働いているんです。

 僕の会ったアフリカン・アメリカンたちはアフリカからの新しい移民のことをあまりよく思ってなくて、差別的に扱ったりもするんですけど、ちょっと行き過ぎたなって思うと、一緒に文句を言っていた人が止めに入ったりする。それから、さっきまでののしっていた相手に手を差し伸べて助けるという現象が、わりと自然に起こるんです。

――いがみ合いが極端なところまでいかないというか、ほどほどのところでやめておくと。

 これはけんか慣れしてるとか、場慣れしているというのがすごく重要だと思うんですが、ストリートで生きていくにはこういうことも必要なのだと思います。そこにいる僕は大変ですよ。けんか慣れしてない人にとってはしんどいと思います。そんなしょっちゅう言い合いなんてしたくないし、できることなら快適に過ごしたい。

――そうですよね。

 でも、快適な空間にあまりにも慣れてしまうと、ちょっとでも不快なもの、自分たちと異なるものが入ってきたときの反動がすごく大きくなってしまうと思うんですよ。仲裁してくれる人がいればいいけど、そういう人がいなくて歯止めがかからなかったとき、取り返しのつかないことが起こるんじゃないか。かれらのやりとりを見てそんなふうに感じました。

 争いになると多くの人が注目するし、新聞記者も飛んでくる。僕みたいな人類学者も争いが顕在化すると書きやすい。でも、争いまでいかないものは誰も書かない。通常は記録にも残りません。「何も起こりませんでした」では、ニュースにも映画にもなりませんからね。でも実はそこに、暴力に歯止めをかけている動きがあったということのほうが、むしろ重要だと思うです。本当はそれこそ記録しなきゃいけないんじゃないかと思います。

――いまのお話はさっきの、アイデンティティを「裏切る」っていうのともつながってきますね。

 そうなんですよ。他の集団の悪口に「そうだそうだ」って同調しながら、同時にそれを中和するような、アイデンティティからずれていくような動きをその本人がしている。

――正にアイデンティティの脱構築ですね。

 僕がいま注目しているのは、そういう反暴力や脱暴力のメカニズムです。これまで暴力の研究をしてきて、それはアイデンティティに関連して起こることも、そうじゃないこともあるかもしれませんが、いちばんの不満は何かというと、これまでの研究は暴力が起きた後のことしかわからないという点です。

 暴力を事後的に分析したり、そのメカニズムを解析したりというのは、学問は得意なのです。アイデンティティも同じです。これまでの構築の過程は比較的クリアに分析できる。過去に遡って史料や資料を分析したり、操作したりすることは、研究者が最も得意とするところです。

 でも、ことさら暴力に関して言うと、本当は起きる前にいろんなことを予見的に考えられないといけないし、起きつつあるとき、起きているさなかに介入し、暴力を無効化したり、縮減したり、次に起こさない方策を提示したりできないと、学問の意味があまりないように僕は思ってしまう。それについて研究していながら、なにもできないでいるのは嫌なんです。

 なので、この数年間はずっと、反暴力や脱暴力のメカニズムを見いだしたいと思ってやっています。暴力を問題にするというのは、それを可視化したり告発したり分析したりするだけでなく、同時に、非暴力や反暴力、あるいは脱暴力の試みがあるというのを見ていくことです。そこに現れる有効な手だてみたいなものを。その一つの参照事例が、ハーレムのストリートのなかにあったということだと思います。

(取材日:2019年8月29日)