日本社会における人間関係の形成・維持は、長い間、血縁と地縁に基づく中間集団、いわゆる「ムラ社会」によって支えられてきました。日本人が代々営んできた農業は多くの人手を要するため、人びとは共同で作業をこなし、暮らしに必要なものはお互いに融通し合いながら生きてきました。農業社会では中間集団に属さず、一人、あるいは一世帯だけで生きていくことはほぼ不可能だったことでしょう。このような中間集団のあり方に変化が見られるのは、国全体で工業化が推進された明治時代以降です。といっても、第二次大戦前の農業人口が5割を超えていたことから、100年ほど前までは、まだ、多くの人びとが、昔ながらの中間集団の中で生活していたということができます。

 第二次大戦後、国の復興に向けての工業化が急速に進められると、それまで全国にある程度均等に分散していた人口が、都市部や工業地帯に集中するようになります。生まれ育った場所を離れ、縁もゆかりもない土地で働く人が数多く見られるようになったのです。そこには人口の急増により、きょうだい全員が生まれ育った土地では生活していけないという事情もありました。

 これらの人びとの暮らしを保障したのは、かれらが働く会社です。「年功序列」や「終身雇用制」に代表される日本企業の経営手法は「経営家族主義」と呼ばれ、地域から引き離された人びとに生活の安定と新たなつながりをもたらしました。また、かれらが結婚をして家庭を持つと、「男は外で働き、女は家をまもる」という「性役割分業」により、子育てや介護は妻の仕事だとみなされるようになりました。こうして、これまでムラ社会が担ってきた社会保障は、戦後、国の政策というより、「日本型経営」と「性役割分業」によって肩代わりされたのです。

 このシステムは日本に高度経済成長をもたらし、一時期は世界からも大いに注目されましたが、バブル崩壊後の1990年代から様子が変わってきます。企業の経営体力が落ちて終身雇用制を維持できなくなると、能力主義や成果主義が叫ばれるようになり、「家族」だった個人と会社の関係にも変化が生じました。会社は利益をもたらす優秀な人材だけを正社員として雇い、人手が足りなくなった時だけ派遣社員を補充する。一方の個人は自分の条件にあう会社を求めて職場を転々とする。こうなるともはや、企業は人びとのつながりや生活を保障する中間集団とはいえません。

 1980年代~90年代頃から、私たちに「温かい」人間関係を提供してくれた家族も急速に解体していきます。生涯未婚率、単身世帯率は上昇の一途を辿り、今や結婚して子どもをもつ生活は当たり前ではなくなりました。こうして人びとは家族、地域、企業からも引き離された「むきだしの個人」として生きることを余儀なくされるようになったのです。

 中間集団から引き離された人びと(つまり私たちのことですが)が取り結ぶ人間関係のことを、イギリスの社会学者アンソニー・ギデンズ(1938-)は「純粋な関係」と表現しています。純粋な関係とは、関係そのものに対する欲求を原動力として結ばれる社会関係であり、お互いがその関係に満足している間だけ維持される性質をもちます。純粋な関係はその成立や存続が個人の意思に委ねられるので、人びとは関係を築き、それを維持していくために、絶えず相手からの承認を求めるようになります。ケータイやスマホといった通信機器の普及がその心情に拍車をかけました。一昔前は今日着信があったかどうか、今ではSNSの投稿にいくつ「いいね」がついたか等によって私たちは社会とのつながり具合を確認し、いつ解消されるかわからない関係に日々心をすり減らしているのです。

 中間集団の解体によって人びとが個人化していくことは、経済成長の面ではプラスです。人びとがバラバラになって世帯の数が増えればそれだけモノが必要になりますし、中間集団内の助け合いでまかなっていたものを企業の提供するサービスに変えてしまえば、そこに消費が生まれます。私たちは、助け合わなければ生きていけなかった社会から、一生懸命、一人でも生きていける(ただしお金があれば)社会をつくり上げてきました。いまやそれは、ほぼ完成したと言っていいでしょう。インターネットが使えれば、宅配業者以外の誰とも顔を合わせないで生活できます。部屋にカメラを設置しておけば、何かあったときには警備会社の人がすぐに駆けつけてくれるでしょう。極端でもなんでもなく、私たちは「人づきあいをするかしないか」ということさえ、自らの意思で選べるようになったのです。

 住む場所も、働く会社も、人づきあいの有無さえもが個人の選択に委ねられる現代。そこには確かにムラ社会のしがらみも、タテ社会のわずらわしさもないかもしれません。しかし、それと同時に私たちは、これまで自明のものだった「人間とは社会的な存在である」という前提さえも見失ってしまったように思います。一人でも生きていけるようになっても、いや、なったからこそ、私たちは、人とのつながりを求めずにはいられません。それでは、私たちはどのようにして、新たなつながりを形成していけばよいのでしょうか。その問いに答えるのは容易ではありませんが、少なくとも、現代の社会の根底を成している「経済合理性」とは別の尺度を模索する必要があることだけは、間違いないように思います。