最近思うことを2年間にわたって記してきました。まだ思考の途中であり、まとまった形ででき上がったものになってはいません。ただ、まだまだ考えなければならないことがたくさんあり、長くなりそうだと感じ、2年という区切りで一度止め、これまでのところをまとめてからその先を考えたいと思うのです。そこで、これまで書いてきたことを振り返りながら、今何を考えたいのか、自分に問いかけながらまとめをしようと思います。

 私は「今をていねいに生きること」が好きです。権力を手にしたいとか、大金持ちになりたいとか、大偉業を成し遂げたいという望みは持っていません。たまたま日本列島に生まれ、四季のある美しい自然の中で小学校4年生の時に敗戦を体験して以来、直接戦争に巻き込まれない平穏な日々を幸せと感じながら過ごしてきました。

 ところが最近、心がザワザワするようになってきました。きっかけの一つは、日本の中に毎日の食事を楽しく食べるという、あたりまえと思ってきたことのできない子どもたちが7人に一人という割合でいるということを知った時でした。世界を見れば貧しい国があり、そこに暮らす子どもたちの中には、日々の食事を満足にできない子どもたちが大勢います。それは大きな問題であり、考えなければならないことです。けれども先進国と言われ、豊かとされる日本の中に食事のとれない子どもがいるという事態は、それ以上に面倒な問題です。そこで思うのです。先進性と豊かさを求める新自由主義と金融資本主義、それを支える先端技術を生み出す科学によって動いている社会に歪みがあるのではないかと。経済成長という一つの物差しが示す、拡大・成長・進歩をよしとし、そのために効率だけに価値を置いた現代社会は、決して誰もが生き生きと暮らせる場になっていないと。過剰な競争を強い、敗者は自己責任とする冷たさは、人間を大切にする社会とは言えません。

 この35年ほど「生命誌」という新しい知を創り、「人間は生きものであり、自然の一部である」というあたりまえのことを出発点にして、「生きているとはどういうことか」「どう生きるか」について考えてきた私にとって、これは自分事として考えなければならない課題です。そこで、これまでの研究を踏まえて、日常を生きる人間に目を向けてみよう。そこに心のザワザワを消す答えがあるかもしれないと思い始めました。そこで、40億年という長い生命の歴史の中で生まれた多様な生きものの一つとしての人間、すなわち生命誌の中の人間を、日常の人間につなげようと考えました。もちろんこれで明快な答えが出るという保証はありませんが、とにかく考えてみようと。

 基本に置いたのが「私たちの中の私」という切り口です。現代社会が求める個の確立は重要です。生命誌の中の生きものである私は唯一無二の存在であり、私が私であることの大切さはそこからも見えてきます。けれども一方で、私はDNAの入った細胞から成る生きものとして他の生きものすべてとつながっており、私だけが一人で存在することはありません。常に「私たちの中の私」なのです。

 日常も、たった一人でいることはなく、常に私たちの中にあるのが人間です。そこで、まず思い浮かぶのが家族でしょう。図に示したように、その関係は更に広がり、学校、職場、地域などの仲間となり、更には日本列島に暮らす仲間(そのほとんどが日本人と呼ばれる人たちですが、日本国籍を持たなくとも、私たちという意識は生まれます)、そして人類というように「私たち」は広がります。

 これが普通の感覚であることは認めた上で、ここでは敢えて「私たち生きものの中の私」という意識を出発点にすることを提案します。「生命誌」は、私は「私たち生きものの中の私」であるという事実を示していますので。たとえば今、私たちが解決しなければならない二酸化炭素排出抑制という課題があり、それに向けて国連が提案したSDGs(Sustainable Development Goals)と言う活動に必要なのは地球レベルでの発想であり、「私たち生きものの中の私」という感覚です。

 それは「生命誌絵巻」の中にいる私です。長い時間と多様な生きものたちとのつながりの中にいる私から始めると、図にあるように地球とのつながり、宇宙とのつながりも感じられ、大らかな気持ちになります。その中にいる人類の一員としての私、つまり「私たち人類の中の私」と思えば、とても近い仲間意識が生まれ、権力争いをして武器を持って戦うことなどバカバカしくなります。ましてや核兵器の開発に意味があるとは思えません。そこでは地球の上に暮らす仲間という意識が生まれ、この星の上で争うことの無意味さを実感するでしょう。

 人類の歴史は戦争の歴史だったではないか。戦争のない社会などあり得ない。そう言われても、スパルタ人も信長もナポレオンも、地球上の生きものすべてが共通祖先から生まれたこと、人類は皆アフリカにいた少数の人々を祖先とする仲間であることは知らなかったのです。それを知ったうえでどう生きるかを考えるのが今であり、そこでは戦争はないと考える方が合理的です。

 ところが現実には、信長やナポレオンではなく今を生きるリーダーたちが戦争を引き起こしたり、戦闘の準備を最重要課題であるかの如く振舞っています。不戦を明言する憲法を持つ日本の首相が、戦闘中の国を訪れ、停戦への道を探る提案をするのでなく「必勝」と書いたシャモジを贈るのですから。権力を求め、経済力を生かしての戦争意識が日常化しています。

 ここで気づきました。世界中で盛んに行われている生命科学研究は、「私たち生きものの中の私」という事実を明らかにしながら、それを生かした社会へ向けての行動をとっていないということに。生命科学者自身が経済成長という一つの物差しが示す拡大・成長・進歩をよしとし、効率だけに価値を置いて研究成果を活用することを「社会に役立つ行為」と考えているのです。

 私たちの生き方を世界観という言葉で表すなら、今の社会を支えているのは「機械論的世界観」であり、人間をも機械のように見ています。これは誤りです。人間は生きものなのですから。生命誌は素直に人間を生きものと捉える「生命誌的世界観」を持っています。このあたりまえの事実を基本に置いた世界観を、社会全体のものにするための努力をしなければいけない。そう思って始めたのがこの連載です。

 最初に「生きものとしての人間」はどのような存在かということを見ていかなければなりません。まず、ホモ・サピエンスとはどのような生きものとして現れたのか。そこで見えてきたのが、決して強い種とは言えず家族、地域集団など協力して生きる姿です。私たちの脳の大きさで上手に対処できる集団が150人程度であり、事実その程度の集落があったことも分かりました。

 そこから出発して現代社会のような人間のありようまでの流れを見ると、転換点として浮かび上がるのが農耕社会の始まりなのです。通常現代社会の見直しは、17世紀の科学革命、18世紀の産業革命を意識して行われます。自然離れがこの時から始まったとされるのです。ところが、最近の研究は、農耕社会が自然離れの原点であることを示しているのです。自然の操作という意識がここから始まっているからです。「機械論的世界観」を示したのは科学ですが、この世界観を見直すには農耕社会の始まりに戻る必要があるのです。

 そこで浮かんだのが「私たち生きものの中の私」という生き方、つまり「生命誌的世界観」に基づいて農耕を始めたらどうだろうという問いです。現代社会が持つ、拡大・成長・進歩という価値観の中で行われてきた農業が環境破壊、健康被害につながるなどの問題を起こし、その見直しの動きが出ていることはよく知られています。農業関係者による見直しの動きは、近年世界的広がりを見せています。

 それと共に歴史学者の中から、人類史の中の農耕について、“農耕は最大の詐欺である”、“パンドラの箱を開いた”という言葉が聞かれるようになりました。「農業は人類の原罪である」と明確に言っているのは、動物学者のコリン・タッジです。狩猟採集生活から農耕への転換は、ある時突然始まったものではないのは当然です。狩猟採集をしながら、いわゆる園芸という形、つまり実のなる木を植えたり、植物のタネをまいて育ってくるものを収穫したりする作業は少しずつ始まって行ったのでしょう。土を耕す農耕も始まり、食べものが少しずつ安定して手に入るようになると、人間の数が増えます。

 狩猟採集生活では動物を獲りつくすことはありません。人口も少ないですし、生きものとして自然のバランスが分かっていたのでしょう。ところが農業によって食糧の入手が安定化し、しかも人口が増加していく中で、人々は「ただのハンターでなくより破壊的なハンター」になっていく、タッジはこう言います。アメリカ大陸やオーストラリアでの大型動物の絶滅はこのようにして起きたのだとも指摘します。農耕を始めることが人口増加と自然生態系の破壊という問題を生み出したというのが、タッジの言う「原罪」の意味です。実態については様々な研究が進められており、ここでの指摘がすべて正しいかどうかはわかりませんが、農耕文明が持つ問題点を考える必要はあります。

 現代社会が抱える難問である人口問題や環境問題の原点ここにありということです。良質な食べものを安定した形で手に入れることは私たちが生きていくために不可欠ですから、農耕を始めない人類史はあり得ません。けれども人口も含め、ただ拡大し、更に進歩をすることが生態系の中で上手に生きられない状況を生み出すのだとしたら、そうではない形で農耕文明を始められなかっただろうか。そこで生命誌が明らかにした「私たち生きものの中の私」から始まる農耕文明を考えることが、今の社会の見直しになるのではないかと思いました。

 農耕の歴史を見ると、今の農業の中で最も基本とされる土の準備と品種改良は最後になって注目されるようになったことが分かります。今では、土の持つ複雑な構造やそこに存在する生きものたちの力の研究が進み、土の生かし方が分かっています。そこから始まる農耕文明がつくる社会を考えることができます。

 もう一つの問題は、拡大・進歩こそよりよい社会をもたらすという考え方でしょう。地球上に生まれた生態系の中で上手に生きることがよい社会であると分かっている今、進歩ではない進化の道が見えています。人口が大きいことが国の力であるという考え方は、暮らしやすい社会を保証するものではありません。構成員のすべてが主体的に暮らす小さな暮らしの場が、本当に生きることを支えてくれるのであって、大国は必要ありません。

 日本の中を旅していると、都市としての機能を備え、その土地の歴史や自然を感じさせてくれるのは人口数十万人までであり、百万人を超すいわゆる政令都市は個性が消えると実感します。少し大きな都市の周りに、数万人、時には数千人の集団が暮らす。そんな社会を生み出す文明をイメージします。

 今日本が少子化を問題にし、その解決策が経済的支援であるところが、現在の社会の歪みを象徴しています。人間は生きものであり、子孫が続いていくことを願うものですから、生きものとして生きやすい状況であれば、誰もが子どもを持ちたくなるはずです。今の社会が生きにくいので、子どもを残す気持ちにならない……そこを変えずに子どもを産むならお金をあげますという考え方は、生きものとして生きるという生き方からは大きくはずれています。しかもそれが、労働力という数を求めてのことであるのも気になります。

 労働力は、AIやロボットで対応するのが筋でしょう。その対応をしながら現在の年齢分布の歪みを乗り越え、現在の半分ほどの人口に落ち着いたら、日本列島の自然を思う存分楽しみながら暮らす社会になるのではないでしょうか。このような社会をイメージして、農耕文明から考え直してみたい。それが今考えていることです。さまざまな問題があるでしょう。これぞ正解というものがあるのかどうかさえ分かりませんが、少なくとも現在の社会の生きにくさをなんとかする方法を皆で考えることが大事であり、一つの試みだと思っています。

 まさに道半ば、というより道の入口にいる状態ですが考えます。これまでお付き合い下さってありがとうございました。よく考えて、またお目にかかれますことを楽しみにしております。コメントをいただけましたら嬉しくよろしくお願いいたします。