近代の多義性、複雑さ
近代化とは何か? この問いは限りないほどに繰り返し問われてきた。とくに「近代の超克」の試みの果てに破局を迎えた戦後日本では、近代を学び直すことが戦後の不可避の出発点となった。しかし、近代を問い直していくうちに、その多義性が明らかになり、価値的にも賛否両論が出て来ることは避けがたかった。
今日、「近代」が複雑な性格を有し、単純に把握できない概念であることは、学問的には基本的な了解となっているが、実際に流通しているのは、相変わらず画一化、単純化された近代像であることが多い。たとえば、デカルト的な精神と物質の二元論、主体と客体の分離、ホッブズ的な権力的政治観、「ゲマインシャフトvsゲゼルシャフト」(テンニース)、資本主義の世界支配、等々。
これらがそれぞれ近代のある面を捉えていることはその通りだとしても、それには尽きない複雑さや両義性が近代や近代化には伴っている。このような単純な近代像は、近代をひとまとめにしてそれを肯定したり断罪したりする関心からは好都合だろうが、近代を脱却することはもはや不可能に近く、その不都合な面に付き合っていかなければならない現在では、近代の成り立ちの複雑性に着眼することこそが重要だと考えられる。
近代をどのように把握するとしても、近代がそれ以前の時代には見られなかったような、社会的分化を含む時代であることは明らかだろう。それは哲学に関わる価値の面でも当てはまる。たとえばイマニュエル・カントのいわゆる三批判書は、古来論じられてきた真・善・美といった根本的価値が、統一的なものではなく、それぞれ自立した法則性に従うことを論証した。カントにあっても、「政治」がどのような位置を占めるのかは、かならずしも明らかではないが、政治思想における近代化が、近代の概念から一義的に演繹されるとは考えにくい。
主権者の誕生:ホッブズ
政治思想における近代化といえば、まず思い浮かべるのは「万人の万人に対する戦争」や怪物「リヴァイアサン」で知られるトマス・ホッブズ(1588-1679)の思想だろう。ホッブズは当時(17世紀中葉)のイングランドの内乱を耐え難いと感じ、平和の実現を何にも優先されるべき目標と考えた。そのためには、圧倒的な権力を有する主権者を立て、万人がこれに絶対的に服従することが必要だと考えた。具体的な方法としては万人が集会して主権者を選び、すべての公的な力と判断をこの主権者に譲渡する契約理論が援用された。このような「契約による秩序の創設」という着想は、よく知られているように、他の点では考え方が大きく異なるロックやルソーにも継承されて、後に社会契約説と呼ばれる近代の政治理論の系譜を構成する。
ホッブズが近代的だとされる別の理由は、彼が主著『リヴァイアサン』をはじめとする著作において、当時顕著な進展を見せていた自然学の新しい発想(17世紀科学革命などと呼ばれ、ガリレオ・ガリレイによる自然学の数学化はその代表例である)にもとづいた、斬新な政治の論じ方を開発したことである。ホッブズは当時、政治哲学においても権威とみなされていたアリストテレスの学問を否定し、アリストテレスやそれを受け継ぐスコラ哲学に見られる曖昧で多義的な政治の論じ方が、政治の混乱を助長していると考えた。
そしてホッブズは、アリストテレスの「ゾーン・ポリティコン」(人間は生まれながらにしてポリスのなかで、言葉を通して「よく生きる」ように出来ている)の考え方を否定して、自己の生存だけを考え、自己保存のためには他者を支配し殺害さえするような個人を、自然状態として想定した。こうして人間とそれ以外の動物との差異は縮小され、その結果物理学的な力が政治をも規定することとなり、政治学が自然学に解消されるような論述が『リヴァイアサン』冒頭では展開されることになる。
以上述べてきたような、自然学の流儀で展開され、それゆえ論理的で厳密な学とされる政治学(アリストテレスでは政治学は人間の思慮の自由を含むゆえに、厳密な学はふさわしくないとされた)、そして自然状態では個人的な闘争が繰り広げられるゆえに、平和は専制的な主権者によってはじめてもたらされる、という考え方が、近代的な政治観としてその後広く認識されることになった。それは近代的な政治を肯定的に捉える立場においても、逆に否定的に捉える立場においても、等しく共有された近代的政治観だったと言うことができる。
しかし問題は、そのいずれの立場に立つか、ということではなく、近代がこのように単純で一義的なものとして把握されてよいかどうかということにあると私は考える。しかも、政治における近代がそう単純ではないことは、当のホッブズ自身によって示唆されているのである。
リヴァイアサンのジレンマ
たとえば、ホッブズは政治的リアリストとして知られ、人間の邪悪さに通暁していたのだが、そうであれば政治的秩序は実力によって正当化されると考えるのがふさわしく思われる。にもかかわらずが、なぜ「契約」というような言葉を必要としたのか。
ホッブズによれば、実力においては個人間の差異はたいしたものではなく、弱者も毒殺のような方法を用いれば強者を倒すことができるので、秩序の安定は得られない。他方で言葉への信頼もまた実力によって担保されなければ成り立たない、というジレンマが存在することを彼は認識していた。
ホッブズは「人は人に対して狼」と言って、あたかも人間を獣と同一視するような表現を用いてはいるが、獰猛なオオカミがとくに同種間において始終殺し合いをしているかというとそんなことはない。「万人の万人に対する戦争」は人間独自の争いであって、動物に還元できないことをホッブズは明確に認識していた。このとき人間の争いの特徴となるのは言葉であって、言葉こそが他者との比較を介して人間に虚栄心を与え、また言葉による予測能力の拡張が、今は満足していても将来への不安を掻き立てる。
言葉によって人間の欲望は無限大のものとなった。鋭い牙のような武器を持たない人間は、代わりに言葉を武器として終わらない争いを続ける。そうである以上、実力で平和はもたらせないから秩序の形成は言葉(契約)に頼るしかないが、その言葉が紛争を拡大する要因でもある、という人間固有の問題。ホッブズが直面したのはこのような人間の条件であった。したがって、ホッブズの政治理論の特徴を自然科学的方法のみで説明することはできず、レオ・シュトラウスらが早くから指摘してきたように、むしろそうではない点にホッブズの偉大さが認められると言えよう。
ホッブズは曖昧さのない厳密な論証(自然科学のような)をもとに国家の理論モデルを構築しようとしたが、その試みが逆にこの理論に含まれる矛盾を露出してしまう。彼は言語を用いた比喩的表現を、正確な伝達に反するものとして批判しているが、彼の主著の表題「リヴァイアサン」自体が、旧約聖書から採られた国家を表す比喩である。ここにはホッブズ自身が若い頃影響を受けた人文主義の、効果的なレトリックが再現している(ホッブズは厳密な学問知を主張しながら、政治的影響力という点では学問が無力であると語っていた)。
それ以外にも『リヴァイアサン』に含まれる矛盾は数多い。なかでももっとも深刻と思われるのが、諸個人の自己保存を目的として設立した絶対的国家(リヴァイアサン)が、逆に諸個人の生命を奪うようなケースである。
たとえば死刑になるような場合、ホッブズの国家では主権者が法の解釈を自由に決めるので、死刑が不当だと訴えることはできないが、死刑台で暴れることまでは禁じられていないとする。徴兵されて戦場で戦闘に加わる場合、恐怖から逃亡することも不当とは言えない。捕虜になった場合、もとの国家への忠誠義務は免じられる。戦争や内乱で、もはや主権者が保護を与えられなくなった際も、主権者への服従義務は消滅する。
このように、絶対的と見られたホッブズの国家は、意外な脆弱さを有しているのであり、ホッブズはそれを隠してはいない。リヴァイアサン国家はその誕生時において、すでに死への萌芽を持っているのだとホッブズは語る。リヴァイアサンは並ぶ者のない「地上の神」であるのだが、あらゆる被造物と同様に永遠ではありえず、「可死の神」なのである。
ホッブズと近代国家のあいだ
これをどう捉えるべきか。ホッブズは近代国家の理論的基礎を与えたとされることが多いが、その後成立する近代国家とのあいだに無視できない差異が存在することも否定できない。たしかに主権の絶対性と中央集権の確立は後の近代国家の基本的前提になったが、それだけでは近代国家の成立要件とは言えないだろう。ホッブズは基本的人権を擁護したわけではないが、国家設立の目的をもっぱら個人の自己保存に求めたため、個人の自然権(生存権をはじめ、すべての人間が生まれながらに持つとされる権利)と国家の主権とが深刻な対立をもたらす場合には、国家の脆弱性が露呈することになった。ホッブズはそれゆえ国家の時間的有限性を想定したが、現在の国民国家について、国家の死は通常想定されていない。
別の角度から見れば、現在の政治制度の中核を占める議会制民主主義のような要素はホッブズには含まれていない。たしかにホッブズは民主政もまた主権の担い手になり得ることは一応認めたが、それは意志が多数決で一つに決まれば可能ということであって、討議などは想定されずむしろ有害だと考えられている。
ホッブズの契約理論が近代政治理論の先駆けとなったとされる場合には、彼からロックやルソーへの継承と発展が政治的近代化の流れとして把握されることが必要だが、それは必然的なものだったのだろうか。
たとえば戦後日本の政治学の基礎を築いた丸山眞男(1914-1996)は、その初期論文において、「自然」から「作為」への転換をもって、政治的近代化の主要な点と考えた。丸山は、ホッブズがアリストテレスのゾーン・ポリティコン概念を否定し、人間はその自然においては反社会的であって、人為的な契約(作為)によってのみ平和と社会生活が実現すると説いたことを高く評価した。しかし、このような作為が国家形成時の一回かぎりの作為(ホッブズでは国家成立後、臣民はあらゆる政治的行為から排除され、あとは主権者に委ねられる)ではなく、実質的な「万人の作為」となる経路は、丸山によっても論理的にたどられてはいない。
ホッブズに欠けているのは近代国家の民主的要素だけではない。この近代国家の「試作品」には、国家の時間的永続性や、安定を得るために必要な臣民による忠誠心の根拠なども十分には考慮されていない。このような要素が近代国家にどのようにしてもたらされたのかを考えると、ホッブズが嫌った「古典的共和主義」の文脈を無視することができない。
マキアヴェリとホッブズ
現在では近代における国家の成立過程を、単線的な近代主義的思想系譜(マキアヴェリ、ボダン、デカルト、ホッブズ、啓蒙思想とたどるような)に求めることは、政治思想史学では疑問視されて久しいのだが、一般的な通念としては生き残っていると言える。
まずマキアヴェリについて言えば、『君主論』から導かれるいわゆるマキアヴェリズム(権謀術数)がこの思想家のアイデンティティかというとそんなことはない(権謀術数なら中国古典にもあった)。何しろマキアヴェリは、故郷のフィレンツェが実質的な君主だったメディチ家を追放して久しぶりに共和政を取り戻した時期に名誉ある書記官を務め、共和政フィレンツェのために外交を中心に目覚ましい活躍をしていた人物だったのだから、メディチ家復位と自身の失脚後であるとはいえ、君主のために『君主論』を書いたことの方がむしろ奇妙と言えるからである。
『君主論』の問題はさておき、マキアヴェリはこの著作と同時期により長い時間をかけて著した『リウィウス論(ディスコルシ)』のなかでは、君主政と共和政のどちらが優れているかを論じ、共和政の方が優れていると明言している。その理由として、国家の力(ヴィルトゥ)が一自然人である君主のみに依存するゆえに不安定な君主政に対して、共和政では多数によって支えられるためそのような心配がないこと、また君主政では君主と臣民との利害が対立しやすいのに対して、共和政では愛国心で支えられた市民による強い軍隊を作ることができることなどから、マキアヴェリは国力という点からも共和政に利点があると考えたのだった(もっとも『君主論』を書いた時点では共和政の可能性が乏しかったために、彼はメディチの君主にフィレンツェさらにイタリアの救世主を託したのだが)。
これらのことから、通俗的には政治的近代化の点で同一の系譜にあると考えられることが多かったマキアヴェリの政治思考とホッブズのそれとがむしろ反対のものであったことが容易に理解されるだろう。このマキアヴェリの共和主義的側面を継承し、同時代のホッブズを批判した人物として、ジェームズ・ハリントン(1611-1677)を挙げることができる。ハリントンはユートピア物語的な構成で語られる『オセアナ』において、ホッブズのような主権者への権力の集中ではなく、土地を保有する市民間の力の均衡こそが、安定的な政治体、不死のコモンウェルスを形成することができると説く。
マキアヴェリとホッブズとは(かつて丸山をはじめ多くの解釈者が想定したような)継起的関係にあるというのとは逆に、ハリントンはマキアヴェリを古典的な政治思考の、ホッブズを近代的な政治思考の代表例として対立させ、前者を支持してホッブズを批判する。ここで古典的と言うのは、古代ギリシアや古代ローマを範とすることを意味している。
輝ける古代への称賛と決別
思想史における近代という時代区分の成り立ちを考えると、その考えが萌芽したルネサンス期において顕著なように、直前となる時代(後に中世と呼ばれることになる)から断絶し、模範とされた古代(ギリシアやローマ)と直接結び付こうとする志向を示している。これがマキアヴェリも大きな影響を受けた人文主義(ヒューマニズム)と呼ばれる学問方法であって、そこではギリシア語や全盛期のラテン語の語学教育に非常に重点が置かれたのだった。
こうして見ると、近代という意識は独力で立ち上がったわけではなく、古代を称賛しそれを再発見することで得られるものだった。通常近代の始まりを告げるとされるルネサンス(Renaissance)と宗教改革(Reformation)は、ともに反復の意味を持つ接頭語reを含んでいる(もっともこれらの用語が使われるようになったのは後世のことではあるが)。
このように古代を称賛して始まった新しい時代は、その意識が深まるにつれて、古代を模範であるとともにライヴァルと見なすようになる。17世紀頃フランスなどで行われた文学上の「古代―近代論争」は、このような近代意識のあり方を示している。やがて自分たちの時代は古代をも凌駕しているという自負が生じて来るのだが、さらにホッブズはアリストテレスをはじめとする古代思想を誤謬(ごびゅう)であると片づけ、古代と決別しようとした。古代を踏み台として獲得された近代の意識は、こうしてその生誕の不可欠の媒介だった古代を不要とするようになる。
しかし、このような断絶がそれほど一般的だったわけではない。先に触れた自然学の分野での「17世紀科学革命」においてさえ、過ぎ去ったとされる諸思想との連続性を残している(たとえば占星術や錬金術などの果たした役割)ことが明らかにされてきたように、政治思想の領域においても近代が容易に古代からの独立を果たしたということはできない。古代に範を求めマキアヴェリの共和主義を称賛したハリントンのリヴァイアサン批判は、ホッブズの政治思想の弱点を突いていたのであり、古代的なものの復権やヨーロッパ中世以来の立憲主義を受け継ごうとする政治思想は、政治や国家の近代化のなかでその役割を長く果たし続けることになる。
絶対主義から革命へ
近代化の一形態と見られるヨーロッパにおける絶対主義(absolutism)は、その名が示すほどには絶対的でなかったことは今ではよく知られている。フランスのルイ王朝のような典型的ケースを含め実際の絶対主義とされる国家体制は、貴族や都市など諸々の中間団体を否認することはできず、むしろそれら中間団体の支持のうえに統治を成り立たせていた。16世紀後半のフランスで宗教戦争を乗り越えて絶対主義的な主権論を確立しようと試みたジャン・ボダンにあっても、主権者は神の法と自然法には従わなければならないとし、また主権は絶対といっても「タタールやモスクワ」のような専制政治とははっきり異なるとしたのである。
ボダンの主権論に対抗して抵抗権論を主張し「モナルコマキ(暴君討伐論)」の名で対立陣営から恐れられた思想家たちも、政治的近代化の一翼を担っていたと言えよう。その代表例である偽ブルートゥス『ウィンディキアエ』のように、国王の地位はたしかに個々の臣民よりは上だが、臣民全体よりは下にあるとする団体論的な立場は、中世の有機体的国家論(頭である君主は手足とされる臣民よりも優位だが、身体全体なしでは頭は生きられない)を近代につなぐ役割を果たしたと考えられよう。
したがって、絶対主義に抵抗する諸要素を、近代化の遅れや逸脱と見なすことは適当ではない。権力集中(主権論)とそれに対する抵抗(立憲主義)という緊張関係にある両者が複雑に作用することを通して、結果として政治的近代化および国家形成がなされてきたと見ることができる。
そしてルソーにおいては、ホッブズが作り上げた近代的な契約モデルを人民主権に改作し、一般意志を国家の礎としたのだが、『社会契約論』の中途で、その一般意志を導く判断力の問題が提起されたことを機に、議論は転回して主権者を教育する超越的な「立法者」の視点が導入され、この書物の中盤以降は近代的と言うよりもギリシア・ローマを範とする古代的な枠組みで政府論その他が語られている。このことは、ルソーが同時代でモデルとした政治社会が、生地のジュネーヴのような比較的小規模な都市であって、まだ国民国家ではなかったことと関連している。
にもかかわらず、フランス革命のとくにジャコバン派は、ルソーの人民主権論をルソーが想定していなかったフランスのような大規模な政治社会に適用しようとした。その結果、普通選挙権(これは民衆の直接参加の替わりだった)など平等化を積極的に推し進めた面もあったが、対外戦争に突入したことも災いして、反対者を容赦なく弾圧し、近代的で効率的な処刑道具(ギロチン)を用いて殺害し、また農村での反革命戦争(ヴァンデの反乱)を誘発してフランスを内乱状態に陥れることになった。フランス革命はたしかに政治的近代化を一挙に進めたとも言えるが、今日考えられている民主主義とは相容れない暴力的で不寛容な要素を多く含み、それらは20世紀に到来する全体主義の先駆的な面さえ含んでいた。
一方で英国は革命フランスに対して参戦し、著名な政治家であったE.バークはフランス革命を断罪する書物を書き、近代の保守主義の先駆となった。しかし平等化という点では英国もまたその影響を免れたわけではなく、19世紀をとおして次第に民主化としての政治的近代化を受け入れていくことになる。
革命を超えて
フランス革命は生まれつつあった近代国家を加速させるとともに、近代化の大きな屈折点となり、それが提起した問題は今も政治の議論の焦点を形作っている。たとえば自由主義的要素と民主主義的要素の対立関係、普遍主義とナショナリズムの関係(人類の平等という普遍性に立って始まった革命が強烈なナショナリズムを生んだ逆説)、国家と(市民)社会の分離、等々。そして社会主義とりわけマルクス主義がフランス革命の中央集権と独裁、さらに暴力性を継承し、20世紀末についに自壊したのに対して、西側の自由民主主義は自らの始まりでもある革命の暴力的な面を封印し見えなくすることで正当性を調達してきた。たとえば選挙による政権交代は、革命の代用品である。
フランス革命の混乱を収拾しようとするポスト革命の思想のなかでとくに興味深いのは、フランス革命の否定性、暴力性を批判し回避しながら、同時に革命以前に戻ることはできないとして、革命か反革命かの二択ではなく、秩序と進歩とを両立させようとした試みである。
それはカトリック圏ではフランスのオーギュスト・コント(社会学の創始者でもある)、そしてプロテスタント圏ではドイツ観念論の偉大な哲学者ヘーゲルである。彼らにとって革命の非連続性や混乱、分断を癒すものは、公私両方の領域での、実定的(実証的)な力に支えられた組織(行政官僚制や企業体)による進歩の遂行だった。ここに来て、われわれはようやく現代国家に近いものを見出すことができるだろう。安定し連続した秩序は、ホッブズにも革命にも欠けていたものだった。こうしたいわば純粋な近代性の欠点を補ったのは、ポスト革命の思想のなかの、近代批判を含むもうひとつの近代の試みであり、保守と進歩という(今日でも)対立として捉えられるものを統合する思想だった。
現代にまでつながる政治における近代性とは、その批判をも包摂する複雑な多層性を持つものであるゆえに、デカルトであれホッブズであれ近代を単純化して表象し、その乗り越えを要求する思想が失敗してきた理由も理解できよう。同時に近代の複雑性は、その内部での数限りない矛盾や対立を含んでいるとも言える。近代が新たな「再帰的近代化」(ウルリヒ・ベック)の時代に至ったとされる20世紀末以後、近代の複雑な成り立ちをあらためて把握しなおす必要に迫られている。
【追記】
この小論では、近代の政治的な成り立ちを西ヨーロッパでの展開に限定して論じた。しかし実際には、キリスト教・ラテン語世界(西ヨーロッパ)は、イスラーム世界やビザンチン世界、中国やロシア、さらにいわゆる「新大陸」など、その文明の他者との接触によって自らを形成し直してきたことは、もちろんその通りである。それらを扱うことはテーマが大きくなりすぎるため、今回は割愛したことをご理解いただければと思う。