この連載で、「モナド」について書こうと思ったとき、実は、「モナド」に似たもうひとつの概念についても続けて書くつもりでした。ただ、そうなると、「モナド」以上に、さらに横道にそれることになるので、またの機会にしようとすぐ考えを変えたのでした。やはり、「モナド」の説明をしたあとにすぐ、西田幾多郎が「モナド」についてどう考えていたのかを説明したほうが無難だと思ったのです。

 でもしばらくすると、自分のなかで、なぜかその概念にも少し触れた方がいいかもしれないという考えが突然浮かんだのでした。理由はわかりません。こういうのは、いつも「突然」なので。ですので今回は、絵具でしっかり色は塗らずに、濃いめの鉛筆で、その概念について、さっとスケッチしてみたいと思います。詳しく話しはじめると、これまたきりがないので。

 その概念というのは、ホワイトヘッドという哲学者(1861-1947)が、『過程と実在』(1929年)という本で提示した「現実的存在」(actual entity)というものです。もうずいぶん前に(40年以上前だと思います)、ホワイトヘッドを読みはじめたとき、最初は、この「現実的存在」というのは、「モナド」みたいなものなのかなぁ、と思っていました。ライプニッツの「モナド」がどんなものかさえわかっていないのに、その偉そうな若者(私ですね)は、当てずっぽうでそう思っていたのです。だから、その頃を思いだしながら、ちょっと比較してみたいと思ったのです、ごく簡単に。

「モナド」との違い

『過程と実在』を読み進めてみると、「モナド」と「現実的存在」は、ずいぶん異なる概念だということがわかりますし、この二人の哲学者の世界についての考えも大きく異なっていることがだんだんとわかってきました。

 ライプニッツの「モナド」は、前回も説明したように、それぞれに宇宙のすべてがたたみこまれていて、それぞれの「モナド」が他のすべての「モナド」と同一の宇宙全体の鏡になっています。そして、その「モナド」の位置や状況によって、宇宙全体の映し方が、やや異なっているということになるでしょう。さらにそのように調和した宇宙全体(構成されている個々の部分にも全宇宙が映し込まれているという意味での調和)を、神様が背後から支えているというのが、ライプニッツの宇宙です。

 このように、ある意味で完成されたスタティック(=静的)な宇宙に比べると、ホワイトヘッドの宇宙は、もっとダイナミックで「未完成」です。ホワイトヘッド自身が言うように、彼の考える宇宙は、「現実的存在」によってつくりあげられる(つくりあげられつつある)「細胞理論」(cell theory)なのです。だだこの「細胞」(「現実的存在」)は、ほかの「細胞」と有機的に関係しあい、つねに「動的平衡」(福岡伸一)状態にある不安定なものです。

 なぜ「動的平衡」などという生物学の概念を使うかと言うと、それぞれの「現実的存在」は、現れたとたんに消滅してしまうからです。「動的平衡」という状態が、「かたち」だけが維持されつつ、その構成要素である細胞は恒常的に交替し変容していっているように、「現実的存在」もまた、特定できるような「もの」として存在しているわけではありません。

 たしかにわれわれは、たとえば「中村昇」という個体を、ひとりの人間として認識できます。ただそれは、あくまで「遠目に」見て、そう認識できる(「enduring object」とホワイトヘッドが名づけるあり方で、ホワイトヘッド哲学では、「対象」(object)は、「存在」(entity)とちがって、変化しない普遍的な対象を意味します)だけであって、その「中村昇」なる状態を仔細に見れば、それは時々刻々変容し生成消滅しつづけている「状態」であるというのが、ホワイトヘッドの考えです。

 いわば一瞬だけ「もの」になり、つぎの瞬間(というよりは、その同じ「一瞬」の裏面のような瞬間)には、つぎの「もの」の生成のために自分自身を全面的に捧げて消えていくのです。このような生成消滅を繰りかえしているのが、「現実的存在」であり、この宇宙を構成している「細胞」なのです。

 そして、ホワイトヘッドによれば、この「現実的存在」は、大きさもかたちも自由自在です。この宇宙に存在するすべての「もの」や「こと」が、そのつど、ただ一瞬だけ「現実的存在」になり、すぐ消えていくからです。大きさのスケールも、物質も観念もお構いなしに、とにかくこの世界に存在する(あるいは、この世界で生成消滅している)「もの」や「こと」は、すべて「現実的存在」なのです。

 ワラックというとても素晴らしい研究者は、ホワイトヘッドが、『過程と実在』のなかで「現実的存在」と名指した対象を山ほど挙げています。そのごく一部を列挙してみましょう。

神、一羽の鳥、一本の木、一枚の葉、一頭の羊、一粒の砂、母についての子供の観念、太陽、ソクラテス、ルビコン川、エネルギー量子、古代ローマ帝国、地球、太陽系、ギリシア語についてのある人間の知識、人間的経験、霊魂、自我、神経細胞、などなど(拙著『ホワイトヘッドの哲学』講談社選書メチエ、80頁参照)

この宇宙のどんな側面でも、その一側面を切りとれば、それは、「現実的存在」なのです。「現実的存在」には、物質や観念といった区別も適用されません。われわれは、何かを考えるとき、物質にかかわりをもっていますし、もろもろの物質にも、われわれの意識や記憶が浸透しています。ホワイトヘッドによれば、「現実的存在」は、物質的側面も観念的側面も併せもった「もの」や「こと」なのです。

<いま・ここ>という「主体」

 当たり前のことですが、この宇宙は、一刻の休みもなく、複雑に流動しています。あらゆる「もの」が関係しあい、錯綜した流れをかたちづくっています。その有機的流動の一点(私のいる<いま・ここ>)にぐっとフォーカスを当てると、そこに一つの「現実的存在」の生成消滅が特定できる(理論的に)ということになります。

 俯瞰的な図式や過去化された構造を介入させずに、この宇宙に、そのダイナミックな状態のままでかかわるとすれば、<いま・ここ>という「現実的存在」にフォーカスを当てるしかないでしょう。現時点で、はっきりしてる(出発点にできる)のは、<いま・ここ>しかないからです。それ以外の宇宙全体は、このフォーカスをあてた「現実的存在」(<いま・ここ>)から見て、すべて過去化された他の場所や他の時刻でしかないのです。だから、誰かが「現実的存在」について語るとき、その人の唯一無二の「現実的存在」(その人の<いま・ここ>)だけが、存在していることになります。もちろん、その「現実的存在」も、あっという間に、つぎの「現実的存在」へと自分自身を投げ与えてしまい消えていくのですが。

 しかも、ホワイトヘッドは、この宇宙の唯一無二の「現実的存在」(<いま・ここ>)を「主体」(subject)とも呼びます。宇宙のすべての現象の、ある特定の側面に焦点をあてると、そこが「主体」となるのです。<そこ>が、いわば宇宙の唯一無二の中心になるというわけです。どこでもない(どこでもいい)<ここ>が、「主体」となるのです。

 これまでの話から、もちろんわかると思いますが、この「主体」は、デカルトのいう「われ思う」やカントのいう「超越論的主観」やフッサールのいう「志向性」の源(ノエシス)などとは、まったく異なります。だって、この宇宙の全存在(物質も観念も何もかも)のなかの、たまたまフォーカスを与えた一点にすぎないからです。それは、ただの「もの」や「こと」にすぎないのです。

 しかも、その「もの」や「こと」は、恒常的に変容し、生成消滅していますので、われわれは、「対象」として認識することはできません。それは、「流動」そのものなのですから。だから、あえて「動的平衡」などという他の分野の語を使ったのです。

「変化そのもの」「生成消滅そのもの」こそ、ホワイトヘッドの「現実的存在」(actual entity)だといえるでしょう。このように考えると、ライプニッツの「モナド」とは、ずいぶん異なる概念だということがわかるでしょう。

 どうでしょうか?今回は、このくらいにして、次回は、西田のライプニッツ論についてお話したいと思います。