デジタル文明と近代化

 デジタル文明が花盛りの二一世紀の今日、いったいなぜ、基礎情報学の観点から近代化をとらえ直さなくてはならないのだろうか。

 常識的には近代化とは、西欧ではじまった文明的変革が一九~二〇世紀に世界中にひろまった現象と言えるだろう。明治維新以来、日本もその洗礼を受けたわけである。この国をふくめ多くの国々では近代化以前、出自できびしく峻別される身分制階層社会だったのだが、近代化によって否定され、人権、平等、自由などの理念が認められる民主的な社会となった。だから現代では普通、近代化はひとまず「善」だと位置づけられている。

 重要な点は、こういう啓蒙的理念と不可分なのが、経済活動と一体化した科学技術だということだ。経済活動の在り方には資本主義のほかに共産主義もあるが、科学技術はいずれにおいても近代化において必要不可欠な要素だと見なされている。そして、コンピュータを駆使したデジタル技術は、その精華なのだ。とすれば、インターネットに象徴されるデジタル文明は、人類に全面的な善をもたらしているだろうか。

 むろん、光明面をあげればキリがない。国内ばかりか各国の人々と簡単に交流できるし、世界中の情報を検索することもできる。それらが現在の効率的なグローバル資本主義の発展をうながしているわけだ。だがそれだけではない。目を凝らしてSNSへの投稿の有様を眺めれば、そこには楽しい話題や便利な情報だけでなく、無数の怨嗟(えんさ)の声をはじめ攻撃的・差別的なメッセージが氾濫している。単純ミスによる誤情報(misinformation)だけならともかく、意図的に世間をあざむく陰謀論などの偽情報(disinformation)もてんこ盛りだ。違法なポルノをはじめ犯罪的な情報も少なくない。毎日押し寄せるメールの中には、官庁や大企業からの発信を装って人々をフィッシングサイトに導き、個人情報を入力させてカネを巻き上げようとする詐欺メールが山のように混じっている。いったいなぜ、いつから、デジタル文明はこういう暗黒面を持つようになってしまったのだろうか。

三段階の変容

 ふりかえると、二〇世紀半ばに誕生したコンピュータ技術は主に三つの段階をふんで変容してきた。一九八〇年代くらいまでは、メインフレーム(大型汎用機)・システム中心の時代である。これは一台の大型コンピュータが多様な処理を実行し、ユーザはシンプルな端末から計算サービスを依頼して結果を受けとるクローズド(閉鎖的)方式だ。米国のIBMが主導し、この国でも日立、富士通、NECなどの大メーカーが寡占的に技術を担った。銀行オンラインシステムはその代表格である。プロの専門家のみが携わるクローズド処理だから正確で信頼性も高いが、欠点は途方もなく高価なことだ。

 ゆえに半導体の性能向上と低価格化にともない、第二段階のクライアント・サーバ・システムが出現した。これは、ユーザ端末(クライアント)が一部の処理を担い、中央の高機能コンピュータ(サーバ)と協力して処理を実行する方式である。たとえばメールの作成はパソコンのメーリングソフトでおこない、サーバを経由して送る、ということになる。

 九〇年代はおよそこういう中間的・過渡的な状況だったが、二一世紀に入ると、いわゆるウェブ2.0の到来とともに第三段階のクラウド・システムが優勢になった。主導するのはビッグテック(GAFAM)と呼ばれる米国企業群で、そこでは、特定のサーバというより、インターネット(ウェブ)全体が一種のデジタルリソースと見なされる。ユーザは「雲」のように不特定なたくさんのサーバ群にサービスを依頼するのだ。メールも自分のパソコンでなく、Gmailなどのネットサイトで読み書きする。現在はこの第三段階に他ならない。

 注目しなくてはならないのは、クラウド・システムはメインフレーム・システムと違って、基本的にオープン(開放的)なシステムだという点だ。限られた専門ユーザが高価なコンピュータ処理を独占する第一段階、それなりの技術をもつ一部のユーザがネットで意見交換する第二段階と異なり、第三段階のクラウド・システムではごく普通の一般ユーザがスマホなどで簡単に安価なデジタル・サービスを活用できる。周知のようにSNSでは原則上、無料でどんなことでも自由に発言し交流できるわけだ。とすればクラウド・システムはまさに、人権、自由、平等を奉じる近代化精神と合致しているという気がしないだろうか。

 現在のデジタル文明がそういう理想とともに進展してきたことは否定できない。しかし、それはオープンなクラウド・システムの光明面である。暗黒面も忘れてはならないのだ。今や、買い物や交通など日常生活のすみずみまで一見便利なネットが浸透している。ネットにあふれる広告宣伝に踊らされつつも、デジタル処理を続けないと生きてゆけない。だがもし万一、デジタル処理中に何らかの不具合が生じた場合、いったい誰が責任を取ってくれるのか。詐欺メールに騙されて一文無しになっても、自己責任ということになる。ITに疎い者なら、いきなり西部劇の荒野に丸腰で放り出されたような気がしてくるのではないか。

 かつてのクローズドなコンピュータ処理によるデジタル文明では、基本的に、生産活動の効率化がめざされていた。あくまで人間がコンピュータを使っていたのである。一方、今のオープンなデジタル文明において、一般人は消費活動のデータを奴隷のように提供し続ける機械部品のような存在と化しつつある。人間がコンピュータに使われているのだ。

ポストモダンとは何だったか

 最近あまり聞かれなくなったが、二〇世紀末には「ポストモダン」という言葉が流行した。文字通りなら「近代以後」となるが、進歩主義を批判する反近代主義とも解釈できる。歴史的前進を奉じる共産主義の退潮に伴って、日本でも一時、マスコミを賑わわせた。

 学問的には、ポストモダニズムは構造主義、とくに「言語学(言語論)的転回(linguistic turn)」と深く関連している。ソシュールの構造主義的な言語学によれば、地球上のあらゆる文化における思考や社会は言語の構造にもとづいている。たとえば日本人の思考や社会は日本語、米国人の思考や社会は英語、といった具合で、それぞれの言語のもつ構造(単語同士の関係)を基盤にしているというわけだ。

 人間の思考が言語の構造にもとづくという言語学的転回の発想は二〇世紀の分析哲学をうんだが、ここでいっそう大切なのは、西洋で誕生した近代化や進歩などといった概念の絶対性が疑われ、いわば相対化されてしまったことである。これを二〇世紀後半にはっきり明示したのが、レヴィ=ストロースの構造主義的な文化人類学だった。

 地球上のいわゆる未開とされる地域の文化をいろいろ調査した結果、この人類学者は、それらが西洋より遅れて劣っているのではなく、独自の深みと価値をもっていると主張した。当然だろう、人間の思考がそれぞれの地域の言語で規定されているとすれば、地球上の様々な文化や社会のうち、どれかが絶対的に正しいとは言えなくなる。アジアやアフリカで保たれてきた伝統的な理念や価値観も、西洋の近代的思考より劣っているとは断言できなくなるのだ。

 指摘するまでもないが、近代化のプロセスは、西洋諸国によるアジア・アフリカ諸地域の植民地化のプロセスでもあった。近代科学技術の成果である圧倒的な武力はその有効なツールに他ならない。殺戮と略奪、支配と搾取が行われたが、この蛮行を正当化したのが、「啓蒙的な近代化によって未開地域の人々を解放する」という進歩概念だった。レヴィ=ストロースの主張はこの種の偽善の告発でもあり、それゆえ、近代化の暗部を暴き出すポストモダニズムは西洋の心ある知識人の圧倒的な支持を集めたのである。

 大雑把に言えば、二〇世紀末のこういった価値観の変容が言語学的転回の要点に他ならない。世界各地の多様な民族文化の位置づけは改められた。だがその一方、単純な進歩概念が否定されて多文化主義が唱えられ、善悪の基準が曖昧になり、「何でもありの相対主義」がはびこってしまったのも事実である。

 さて、では日本の動向はどうだったのか?――この国の状況はアジア・アフリカ諸国の中で例外的と言える。明治維新は西洋による植民地化の一部ともとらえられるが、日本人はむしろ脱亜入欧で自らを名誉白人と位置づけ、植民地主義まで含めて近代化をそっくり模倣しようとしたのである。

 とりわけ肝心な点は、日本人が西洋の科学技術を習得すべき「絶対善」と位置づけたことだ。敗戦後も、原爆という科学技術の最悪の産物によって恐るべき被害を受けたにもかかわらず、核兵器とその基底にある現代物理学を生んだ思考の根底を問い直すかわりに、「敗戦は我々の科学技術レベルが低かったためだから、遅れを取り戻し、もっと進歩させなくては」と考えたのである。

 そんな経緯もあり、この国のポストモダンは少々変わっている。二〇世紀末に出現した主張は、「戦後、日本人は一生懸命、真面目に生産活動に従事してきた。そのおかげで経済は高度成長したが、そろそろ価値観を変えてもよいのではないか。禁欲的生産はもう古い、快楽的消費にもっと目を向けよう」というものである。つまり「生産から消費へ」「贅沢に楽しく暮らそう」が日本のポストモダンの中心だったのである。内需を増すための資本家の計略だったのかもしれない。いずれにせよ、この国において、ポストモダニズムにもとづく言語学的転回は、西洋的近代化にひそむ暗黒面を暴き出すものではなかったのだ。

偽の悪しき情報学的転回

 平成になってこの国の経済発展が衰えてくると、せっせと働くより消費を楽しもうというポストモダンの掛け声は次第に消えていった。SNSでの発言も、二一世紀の今日、他者との共感を育むよりむしろ、腹のなかの不平不満をぶちまけ、自分と異質な他者を侮辱し攻撃する叫びが増えてきつつある。そんな発言をする者の大半は、社会のなかで不当に扱われたと感じて傷つき、自信をもてず、将来に希望をもてない人々なのだ。

 そういう人々が続出した原因は何だろうか。企業が短期的利益をあげるための厳しい効率化、働く者に課せられる激しい競争と賃金の抑制、結果的に拡大していく経済格差などをあげれば十分だろう。背後にあるのは、カネさえ儲かれば何をしてもよい、という社会的風潮である。

 SNSで口汚く罵るだけならまだしも、ネットを利用して徒党を組み、強盗や詐欺などの犯罪を実行する闇バイトも流行ってきた。会ったこともないボスからの指示に素直にしたがって残酷な闇バイトを実行する者たちの心中にはいったい何があるのか。

 闇バイトの実行者に対する調査結果を聞いたことがある。彼らの特徴は感情がない、もしくは感情表現が下手だ、ということらしい。被害者への同情がひどく希薄なのである。よぼよぼの老人を力いっぱい殴って痛めつけ、血まみれの相手が悲鳴をあげても、カネさえ奪えれば首尾よく任務完了なのだ。まるでロボット、いや機械部品そのものである。多くの人々がそういう心理になってしまえば、ガザやウクライナで幼い子供たちが何人殺されようと、抗議の声など上がるはずはない。いくら残虐な行為が行われても、自分とは無関係なのだ。

 他者の苦痛や恐怖を想像する能力がないのは、日ごろデジタル情報をルール通り効率よく処理しているだけで、生きた身体的経験が乏しいからかもしれない。こうした倫理感の欠落は、「偽の情報学的転回」がもたらしたものだと考えられる。地球上の諸民族は言語だけでなく音楽や舞踊、美術など多様な情報で文化をつくってきたのだから、言語学的転回はさらに拡張されて「情報学的転回(informatic turn)」と呼べるものになるはずだ。だが逆に矮小化され、すべてがコンピュータ処理できるデジタル情報に還元されてしまうのが、偽の悪しき情報学的転回に他ならない。いったいなぜ、そんなものが出現したのか?

 ポストモダンがもたらした相対主義によって、善悪の基準があいまいになったことに不安をおぼえる人は少なくない。物質的な進歩を重んじる米国では特に、相対主義克服の渇望がある。多文化尊重も結構だが、少なくとも科学技術の改革だけは絶対に望ましいはずだし、デジタル文明を日進月歩でどんどん発展させようではないか、というわけだ。

 この動向を象徴するのがAI(人工知能)の開発であり、さらにシンギュラリティ(特異点)仮説と言ってよいだろう。二〇世紀半ばのコンピュータの黎明期から、AIは正しい論理的解答を自動的に導出する機械として期待されていた。当初の応用先はたかだかパズルやゲームなどに限られていたが、二一世紀に入ると、統計的な深層学習技術の実用化とともに、AIの応用範囲は一挙に広がった。たとえ論理的誤りが混在しても、かなりの確率で図像や音声を認識できれば役には立つ。深層学習のメカニズムが脳の作動と類似していることもあって、夢は大きく広がっていった。コンピュータの処理速度は脳の反応速度をはるかに超えるから、やがて人間より賢いAIができるという信念がうまれてくる。ある時点(特異点)を過ぎると人間以上に頭の良い機械が出現し、自分勝手に進歩していく、というシンギュラリティ仮説はそんな唯物論的信念の代表格と言えるだろう。

 こういった議論のベースにあるのは、生きた人間と機械を峻別しない「人間機械論」である。そこでは、脳における思考活動は、コンピュータの作動と大差ないものと見なされてしまう。それなら、社会の諸機能をすべて0/1のデジタル処理に還元し、優秀なAIに決定を任せるほうが効率的だし間違いも少ない、というデジタル処理万能論が出てくる。

 注目されるのは、近年公開された「生成(generative)AI」だ。それは画像や音声だけでなく、巧みに文章をつくる能力も持っている。コンピュータに質問すると、まるで人間のように自然な言葉で答えてくれるから、一般人のあいだで圧倒的な人気を集めるのも無理はない。大規模言語モデルにもとづく対話型の生成AIは二〇一〇年代後半に米国を中心に研究開発されたが、その技術レベルの高さは見事なものだ。質問に答えるだけでなく、翻訳や要約、さらにプログラミングまで可能だというから驚く。

 とはいえ、そこに落とし穴はないのだろうか。――論理的厳密さより一般人の使い易さを追求する方針に疑問をもつ研究者も多い。生成AIは要するに、ネットの膨大なデータを統計的に分析し、学習して、表面上もっともらしい単語列を出力しているだけだ。人間のように感情をこめ意図をもって語るわけではないから、全面的な信頼はできないだろう。

 さらに、いかなるデータをいかに学習させるかに関して生成AIを操作できるのは、米国ビッグテックなどの一部の専門家に限られる。彼らは選ばれた知的エリートであり、世界中の富を吸い上げるという目標を持っている。もし世界中の人々が自分で思考するかわりに生成AIの指示に盲従するなら、それは全地球の新たな植民地化、新たな形の支配と搾取につながる道ではないのか……。偽の悪しき情報学的転回とは、まさにこのことである。

基礎情報学が示す光明

 日本における生成AIの評価はかなり高い。むろん、誤情報や偽情報への警戒の声もあるが、基本的に受容し促進する方向性は産官学に共通している。西洋由来の科学技術を信奉し、その進歩を「絶対善」とみなすこの国の慣習は簡単には揺らがないのだ。

 しかし、明治維新から百五十年以上たち、仮にも先進国の仲間入りをしたからには、そろそろ近代論を深化させてもよい頃ではないか。デジタル文明を根本からとらえ直す試みもあってよいはずだ。そういう試みのなかで、生成AIをただ表面的・従属的に利用するのではなく、人間が真に生きるために活用する方途が見えてくる可能性もある。

 わが研究グループが構築している「基礎情報学(Fundamental Informatics)」はこの試みのささやかな第一歩に他ならない。微力ながらもそこには、光明をもたらす「真の善き情報学的転回」を実現しようという希望がこめられているのだ。基礎情報学の内容をまとめたテキストに加え入門書も刊行されているので(拙著『基礎情報学 正・続・新』NTT出版、『生命と機械をつなぐ知』藝術学舎、など)詳細は省くが、トイビトのインタビュー『人間とはどのような「システム」なのか』からおよその主張をわかって頂けるだろう。

 本稿では基礎情報学の四つのポイントだけをあげておきたい。第一のポイントは、情報の源は機械的な存在ではなく、生命的な存在だということ。生物と機械とは本質的に違うのだ。前者は時々刻々、自分で自分をつくり続ける自律的なシステム(autopoietic system)だが、後者は過去のデータや所与のルールにもとづいて周囲と関わる他律的なシステムである。

 ここから第二のポイントである生命情報と機械情報の相違が現れる。情報とは本来、生物が生きるための意味(価値)に他ならない。それは身体的情動や感情にもとづく。この生命情報の一部を、人間は言語や画像などの記号つまり社会情報として表現する。デジタル情報などの機械情報は、社会情報の一部を効率的データ処理のために転化させたものである。だから、生命情報のごく一部がデジタル情報であり、逆ではない。人間をデータ処理機械と同一視し、デジタル情報がすべてだと見なす発想は情報概念の矮小化であり、これが偽の悪しき情報学的転回をもたらすのだ。

 第三のポイントは、人間が自律的存在であるとともに他律的存在でもある、ということ。人間は生命体だから生物としての主体的自律性を持っているが、同時に、法律など他律的に規定された社会的ルールに従わないと生きていけない。ゆえに短期的にはデータ処理機械のように行動する面もある。このことが、デジタル文明のもとで、まるでロボット、いや機械部品そのものと化してしまう悲劇をうむのだ。とはいえ、人間本来の生物的自律性は消滅するわけではないので、主体的に周囲に働きかけ、長期的には社会的ルールを改革する道がひらける。つまり、自律システムのなかには階層性があり、社会的なコミュニケーションを下部で支えているのは、それぞれの人間の心のはたらきなのである。

 最後に、第四のポイントは、デジタル機械とは人間のコミュニケーションと関わる一種の「メディア」だということ。それ自体が創造性を持つわけではない。人間は時々刻々、身体をもって周囲と関わり、必要に応じて創造性を発揮しながら生きていく。生成AIのようなメディアは、あくまで人間の創造的な行動を補助し支援する存在を超えないのだ。

 以上の四点は、ごくアタリマエのことかもしれない。だが二一世紀が悲惨な時代とならないためには、それらを噛みしめることが肝心なのだ。デジタル処理の効率化だけに狂奔するのでなく、言語学的転回の拡張による真の善き情報学的転回を起こすことが、光明へと我々を導くのである。