ベルクソンが、「哲学」をどのようなものだと考えていたかということを、今回は、お話ししたいと思います。まずは、こんな例を考えてみましょう。

 ある人が、トム・ウェイツ(1949-)というアメリカのミュージシャンが好きで、曲を聴きこむだけではなく、彼についてなら何でも知りたくなり、いろんな情報を集めているとしましょう。ウィキペディアで調べてみると、生まれたのが、カリフォルニア州のポモナと書かれている。どんなところだろうと思って、グーグルマップのストリートビューを見てみると、いろんな写真がでてきます。なるほど、トム・ウェイツは、こんなところで生まれたんだと、ポモナのイメージが、その人のなかでできあがる。さすがカリフォルニアだ、乾燥していて暑そうだな、とか、けっこう綺麗な建物がいろいろあるんだな、とか。ポモナ・カレッジというアメリカ有数の大学もあるんだ、などなど。それなりのトムの故郷のイメージが、その人のなかでつくりあげられるというわけです。

 それに対して、ポモナに生まれ育った人にとっては、どうでしょう。砂漠特有の強い太陽、殺伐とした街の風景、ひっきりなしに聞こえてくる車の排気音、乾いた独特の臭い、ちょっと危険な地域だけがもつ排他的な空気。ポモナ・カレッジという名前をもっているけれども、この大学のある場所は、「クレアモント」という北側の隣街であり、そこはとても安全で、ポモナとは、かなりちがう雰囲気だといったこと。あるいは、ロスアンジェルスに鉄道で行くとどのくらいの時間がかかるとか、街にある美味しい中東料理をだすお店のことなど、いろいろなことが、すべての感覚に、その人の記憶を伴って訴えかけてきます。ポモナを内側から、その襞(ひだ)にわたるまでまざまざと実感できるでしょう。

 「ポモナ」についての、このようなふたつの知り方を、ベルクソンは、「分析」と「直観」と呼びました。あくまでも外側から(日本にいて、インターネットや本の情報で)「ポモナ」を認識するのは「分析」で、内側から(ポモナに長く住んでいろいろ経験して)「ポモナ」を認識するのは「直観」だというわけです。そして、内側から認識する「直観」こそが、哲学の方法だと、ベルクソンは言うのです。ですから、この「直観」は、それまでの哲学の世界で登場していたような「直観」とは、はっきり異なります。いわゆる対象との「神秘的合一」などといったものではありません。ポモナで生れた人は、ポモナという街と「合一している」わけではないので……。何といっても、人と街ですから。

ずっと苦しい仕事

 ベルクソンは、この「方法としての直観」について、こういう言い方をします。

 直観とは熟慮反省である。(『思考と動き』原章二訳、平凡社ライブラリー、120頁)

 精神を直観的に深めることは、たぶんずっと苦しい仕事である。どんな哲学者であっても、見ることのできるものをその度ごとにちらっと見ただけなのだ。ところがそれとは反対に、私のいう直観的な方法を採用するとなると準備作業はいくらでも必要となり、もう充分ということは決してない。(同書、93頁)

 これは、どういうことでしょうか。またまたトム・ウェイツの生まれた街に戻ってみましょう。「ポモナ」を知るということ。このことの程度は、無数に分けられるでしょう。まずは、「外側から」日本にいて、いろいろな情報をもとに、自分なりの「ポモナ」像を創りあげる。これだって、その情報の量や濃淡によって、いろいろな段階があります。一度もポモナに行ったことがないのに、行ったことがあるのではないか、と思えるほどよく知っている人だっているかもしれません。

 つぎに、一週間だけ、ポモナのホテルに泊まり観光をした人。この人は、たしかにこの街に関する情報は、それほど知らないかもしれません。でも、ポモナの唯一無二の雰囲気は、身体ごと経験しています。充分<内側から>ポモナを知っていると言えるでしょう。しかし、さらに一年間、留学や仕事で滞在した人はどうでしょうか。この人に比べれば、観光だけの人は、その<内側>の襞の数や複雑さは、随分劣るでしょう。一年間いれば、街の四季や、周辺の地域のこと、そして多くの人間関係も含めて、さまざまなことを経験しますので、ポモナをより<内側から>直観していることになります。

 でも、やはり生まれて亡くなるまで、ポモナでずっと暮らした人には、かなわないでしょう。その人の一生とポモナという街は、切っても切り離せないかたちで密接に深くつながっています。一生分のポモナの記憶が、その人の<内側>の襞を細かく複雑に、そして豊饒につくりあげているからです。こうして、ポモナとの四つのつきあい方(日本から、一週間、一年間、一生)を考えただけでも、ベルクソンのいう「直観」の程度の違いがわかるのではないでしょうか。そして、「直観的に深める」というのが、どういうことだかわかると思います。

 ベルクソンのいう「ずっと苦しい仕事」というのは、こういうことなのです。その対象を知るためには、その対象を<内側から>時間をかけて、じっくり体験しつくさなければならない。いま、仮に述べた四つの階梯(かいてい)を、じっくり進むように、つねに、その対象とつかずはなれず、それについて「熟慮反省」しつづけなければならないのです。そうしないと、対象を「直観的に知る」ことはできない。だから、ベルクソンは、「もう充分ということは決してない」と言っているのです。

 前回述べた、小林秀雄が、ロシア文学者もびっくりするほど、ドストエフスキーを繰りかえし読んでいたのも、まさに、この「直観的に深める」作業を日々おこなっていたと言えるかもしれません。『罪と罰』を、『白痴』を、『カラマーゾフの兄弟』を内側から「直観する」ために、何度も何度も読み、「もう充分ということは決してない」という読書にいそしんでいたのだと思います。

「持続」を捉える

 そして、ベルクソンの言う、この「直観」がかなり難しい方法だというのは、その対象にも問題があります。ベルクソンは、つぎのように言います。

 したがって、私の語る直観は何よりもまず内的な持続へ向かう。直観がとらえるのは並置ではなく継起であり、内からの生長であり、絶え間なく伸びて現在から未来へ食い入る過去である。直観とは精神による精神の直接的な視覚である。(同書、44~45頁)

 とはいえ、直観の基本的な意味が一つある。すなわち、直観的に考えるとは持続のなかで考えることである。(同書、48頁)

 ベルクソンによれば、「直観」のもっとも典型的な事例は、自分自身の「持続」を捉えることなのです。これを話し始めると、きりがないので、深入りしないようにしますが、ベルクソンによれば、われわれの意識に直接与えられているのは、「純粋持続」という有機的な時間の流動です。これこそが真の時間であり、われわれの真相なのです。そして、「直観」は、この有機的な流動(「持続」という真のあり方)を把握する方法なのです。

 さらに、この私たちの精神の内側の「持続」は、ベルクソン自身の『物質と記憶』(1896年)、『創造的進化』(1907年)という著作によって、外側の宇宙や自然にまで拡張されます。つまり、われわれも世界も、同じ「持続」というあり方を本質にしているというわけです。そうなると、直観という方法は、われわれと自然とが共有する有機的な流動(「持続」)を把握するわけですから、かなり難しいと言わざるをえません。何といっても対象が固定されていないのですから、その変化しつづけているものを内側からとらえるというのは、この上なく困難な作業になるでしょう。だからこそ、ベルクソンは、「直観的に深める」のは、「ずっと苦しい仕事」だと言ったのです。

 最後に、もう一度、トム・ウェイツの故郷に戻ってみましょう。ポモナに住んでいる人にとって、この街は、季節ごとに、そして日々一瞬一瞬、つねに変容しつづけています。風景も、建物も、住人も、感覚的な刺激も、何もかもが流動しています。そして、そのなかで暮らしている自分自身も、その内的な持続は、絶え間なく流れ変化しつづけています。そのような、どこにも固定点のない複雑な持続(対象もこちらも)を、まるごとつかみとるのが、ベルクソンの「直観」ということになるでしょう。

 変貌しつづける「ポモナ」を、<ポモナそのもの>としてまるごと認識し把握すること。これが、「直観」という「苦しい仕事」ということになります。そんなことが、本当に可能なのでしょうか。しかし、これがとりもなおさず、ベルクソンの考えていた「哲学」なのです。