「笑い」というのは、不思議な現象です。笑っているときには、本人は他のことは何もできません(笑いながら、昨日の出来事を反省したり、明日の朝食の献立を考える人はいないでしょう)。それに、みんなで笑っているときなどは、本人だけではなく、周りにいる人たちやその場全体を「無化」してしまいます。突然、今までの秩序がすべて消えてしまいます。「笑いとばす」といういちばん破壊力のある笑いだけかもしれませんが(苦笑、憫笑(びんしょう)、失笑、冷笑、照れ笑い、微笑、嘲笑などは、今回は、考えません)、一人で「哄笑」する場合や、大勢で「爆笑」する場合には、そこには、べつの世界(ある意味で、「無」)が現出するといえるでしょう。

 逆の言い方をすると、この世界内部に、きちんと「笑い」の場所はないかのようです。この世界には、まったく必要ないのに(人間以外に、頻繁に笑う存在は、この世界にはいません)、破壊力のある<それ>が登場すると、この宇宙の秩序、社会の原理、経済原則、人間関係などを、一挙に吹き飛ばします。退屈な会議の途中、眠くなる授業の途中、深刻な話の途中、何かがきっかけで笑いがおこると、その場の雰囲気は一変し、べつの世界が現れ、それ以前の時間の流れ(ゆっくりとした物理的時間)が無化され、一挙に何かが達成されます。この世界の通常の当りまえの面倒くさい出来事なんか、「どうでもよかったんだ」ということにわれわれは、はっと気づくのです。

「笑い」の力

 このように考えると、「笑い」というのは、世界のさまざまな現象とは、ひとつだけ異なった例外的な現象だといえるかもしれません。この世界に、「笑い」がなくても一向にかまわない。だって、「笑い」がなくとも、世界は、たんたんと問題なく進行していくでしょうから。人間が存在しないところでは、「笑い」は、存在していない。進化史のなかで、人間が登場するまでは、この宇宙には、「笑い声」は、どこでも響いてはいなかったのだから。つまり、ある意味で、「笑い」は、世界の外側に存在している(だから、実は存在していない、あるいは、存在する必要はない)ということになるのではないでしょうか。ようするに、余計なものなのです。余計なものなのに、世界を吹き飛ばす、あるいは、余計なものだからこそ世界を吹き飛ばすことができる、ということでしょうか。

 前回の終わりで書いた通り、こうした「笑い」のもつ本質的な「力」に、私は、ニーチェによって気づいたのです。『この人を見よ』の根底的粉砕力に圧倒されたのです。世界の外側に立って、世界全体を一気に破壊しつくす。訳のわからない超絶的な自画自賛をすることによって、世界を超え、自分自身をも超えていく。誰も理解できないくらいの高みに立つ。それはつまり、自分もろとも、何もかも「無」化する。灰燼(かいじん)に帰す、というわけです。われわれが、何かを「笑いとばす」とき、その対象を突き放して、その外側で自分も無になります。真の「笑い」は、あきらかに対象全体を超えています。そして、その超え方は、自分自身も無になることによって、まるごと超えていくのです。その背後には、灰燼だけが存在している(何も無い)というわけです。

 だから私が考えている「笑い」と対立する笑いは、「冷笑」や「嘲笑」だということになるかもしれません。私に言わせれば、世界もろともふっとばす神聖で原理的な「笑い」に、これらの人間的で下品な(?)笑いは、含めるわけにはいきません。自分自身を安全な位置におき(「自分を棚に上げる」)、他人だけを破壊(否定)しようとする笑いだからです。べつの単語を使いたいくらいです。だから、そういう意味では、逆に「自虐による笑い」というのは、この根源的「笑い」の必要条件をなしているといえるかもしれません。自分を笑いの対象にするわけですから、世界と自分を一気に無化する「笑いとばす」の本質的な特徴の一つだと言えるでしょう。

笑越論的主観

 さて、私の「哲学病」は、世界全体の不条理なあり方にどうしても納得いかないから発症しました。「いったいぜんたいこの世界は、どうなっているのか?」というわけです。この症状は、世界内部のルールから逸脱し、そのルールの不可思議さを外側から呆然と眺めることによって始まったと言えるかも知れません。つまり、世界の外側から、その内部のあり方がどうしてもわからない、理解できないし、納得できない、というのが、出発点だったといえるでしょう。そうなると、「哲学病者」の立っている地点というのは、さっきの「笑いとばす」人が立っている地点と同じではないでしょうか。

 そもそもこの地点は、人間だけが立つことができる地点といえるかも知れません(たしかに、他の動植物に詳しく尋ねたわけではないので、本当のところはわかりません。イルカだって、ボノボだって、猫だって世界全体について考察しているかもしれませんから)。人間だけが世界の意味を考え、世界全体の構造を探究したりする(ということにしておきましょう)のですから、人間だけが、世界の内側に存在しつつ(内在)、世界の外側から世界全体を考える(超越)ことができる唯一の存在だということになるかもしれません。

 だからこそ、世界全体の不条理に直面し、愕然とし、悩み、哲学の病にかかったりもするのです。そして、このようなあり方を人間だけがしているからこそ、人間だけが「笑う」のです。人間だけが、世界を「笑いとばす」のです。こうした人間のあり方、世界全体を笑いによって吹き飛ばし無化するあり方を、カントの「超越論的」という語を借りて、「笑越論的」と呼んでもいいと思います(笑)。笑うことによって、世界を超え、世界と自分を粉々にする態度、この態度をとる人を「笑越論的主観」と呼んでもいいかもしれません。人間だけがもつ根源的で強靭な力の構造(能力)です。われわれは、誰もが「笑越論的主観」なのです(笑)。

小林秀雄とドストエフスキー

 さて、今回からベルクソンの「哲学」についての考えをお話ししたいと思っていましたが、「笑い」の話で、ちょっと盛り上がりすぎましたので、その導入となる逸話だけを紹介したいと思います。

 最近、必要があって、小林秀雄のドストエフスキー論を再読しようと思い、久しぶりに『小林秀雄全作品5「罪と罰」について』(新潮社)を手にしました。この巻には、何度読んでも感銘を受ける、池田健太郎さん(1929-1979)というロシア文学者の解説がついています。タイトルは「小林秀雄氏のドストエフスキイ」というものです。池田さんも書かれていますが、ようするに、ロシア文学の「専門研究者」が、ロシア文学の専門ではない小林秀雄のドストエフスキー論をどう思うか、という編集部の求めに応じて書かれたものです。

 池田さんは、あるエピソードから話し始めます。知り合い(G氏)が、小林秀雄の自宅を訪ねたときの話で、そのとき小林は、『罪と罰』の訳書を読んでいたというのです。それに、池田さんは、とても驚きます。なぜ驚いたのか、池田さんは、こういいます。

小林秀雄氏がドストエフスキイに関するノートを書きはじめたのは、年譜によると昭和八年です。私の熱愛する『「罪と罰」について』が発表されたのは、終戦の年、昭和二十年です。G氏の話は、確か昭和三十八年頃のことです。とすると、小林秀雄氏は生涯何十年にもわたって、折にふれてドストエフスキイの作品を何十ぺんとなく反覆して熟読しておられるわけです。(253頁)

 小林秀雄は、一連のドストエフスキー論を書き終わった後でも、『罪と罰』を読んでいた。つまり、自分の執筆とはまったく関係なく、何度も繰りかえしてドストエフスキーを読んでいるというわけです。池田さんによれば、これは、ちょっと信じられないことなのです。なぜなら、

世のいわゆるロシア文学者たちでさえ、――私もそのひとりですが、――こんなにドストエフスキイを読んじゃいません。新着のドストエフスキイ研究書は読んでも、今さら『罪と罰』や『白痴』は読み返そうとはしません。小林秀雄氏は、自身、自分のドストエフスキイ作品論のうちで「一番いい」と語っておられる『「白痴」について』の中で、長いイポリットの告白をパラフレイズしながら、「私は、イポリットの告白を勝手に再構成している。幾度も読んでいるうちに、自ら頭の中に出来上ったところを、本文も殆ど参照せずに書いている」と断わっておられますが、ロシア文学者の中で、長い、一見退屈なイポリットの告白を、空で語れるほど繰り返し読んだ人はまずいないでしょう。(253頁)

 これが、小林秀雄の本質です。小林以降の評論家や思想家でも、とても面白い視点や考察を提示する人はいますが、改めて、いま読み返そうと思う人は、あまりいません。当時は、とても興味深く全著作を読んでいた人でも(たとえば柄谷行人)、いま(たとえば柄谷の『探究』を)再読しようとは思いません(『探究』は、私が長年研究しているウィトゲンシュタインについて書いていたにもかかわらず)。なぜなのか、ずっと不思議だったのですが、やはり、小林秀雄の読みが、他の評論家とは比べものにならないくらい、とてつもなかったからだと最近気づきました。

 小林秀雄は、<深み>がちがう。でも、これは、この連載とはあまり関係のない話なので、これくらいにして。次回は、この小林秀雄のエピソードから、ベルクソンの哲学観へと移っていきたいと思います。