ナショナリストとしてのマックス・ヴェーバー

今野 元
2021.01.13

 19世紀後半から20世紀初頭のドイツを生きた社会学者・経済学者マックス・ヴェーバー1864-1920)。ヴェーバーといえばこの後紹介する資本主義の起源論の他にも、支配の三類型伝統的支配、カリスマ的支配、合法的支配)や官僚制論などが有名ですが、かれがなぜこうした問題を取り上げたのかということについては、あまり知られていないように思います。社会学の基礎を築き、今なお新たな発見をもたらす多くの著作を残した知の巨人」は、その人生において何を追い求めていたのでしょうか。

 マックス・ヴェーバーの人生は、ドイツという国の存在を抜きにして語ることはできません。かれの思想の背後にはしばしば、いかにしてドイツを強大で名誉ある国にするかという問題意識がありました。ヴェーバーの生誕から遡ること4年、鉄血宰相」と呼ばれたオットー・フォン・ビスマルク1815-1898)の率いるプロイセンが独仏戦争普仏戦争)でフランスを破り、プロイセン国王をドイツ皇帝とする連邦国家ドイツ帝国」が建国されました。ことがここに至るまでには、いささか込み入ったいきさつがあります。

 ドイツ帝国の基になったのは1815年に発足したドイツ連邦」であり、それをさらに遡ると962年に生まれた神聖ローマ帝国」に行き着きます。この神聖ローマ帝国はローマ皇帝を君主とするゆるやかなまとまりで、皇帝はカトリック教会全体の指導者であるローマ教皇と欧州世界の権威を二分していました。ちなみにドイツ」という言葉の基になったのは民衆的」という意味の中世のラテン語です。これには、当時文明的とされていたラテン語ではなくゲルマン系の民衆語を話している連中」といった、ネガティブともとれるニュアンスが含まれていました。そのため、当初はイタリアなど帝国外の人びとだけが使う呼称でしたが、時間の経過とともにネガティブなニュアンスが消え、自分たちでもドイツと名乗るようになったようです。

 それはともかく、領土の拡大・縮小やカトリック対プロテスタントの戦争、フランスやスウェーデンの帝国政治への介入等がありながらも存続していた神聖ローマ帝国は、1806年、ナポレオンの率いるフランス軍の侵略を受けて崩壊し、800年を越える歴史に終止符が打たれました。このことがドイツの人びとに与えた衝撃の大きさは計り知ることができません。

 その後、神聖ローマ帝国を構成していた諸国は1815年にオーストリアを議長国とする連合体ドイツ連邦」として再びまとまりますが、やがて新興国プロイセンとオーストリアとの対立が深まり、1866年にはドイツ諸国を二分するドイツ戦争普墺ふおう)戦争)が勃発します。この戦争に勝利したプロイセンが、ドイツの枠組みからオーストリアを追い出し、ドイツ国家統一の主導権を手中にすると、プロイセンの台頭をよく思わないフランスは、ルクセンブルクをフランス領とすることを要求します。プロイセンはこれを拒否。両国間の緊張が高まり、スペインの王位継承問題のこじれが決定打となって、先述した独仏戦争へと突入していったのでした。1871年、ドイツ皇帝がヴェルサイユ宮殿で即位宣言をしたのは、フランスの長年の侵略に対するドイツ諸国の意趣返しだったのでしょう。

 こうした歴史を経て生まれたドイツ国民国家を肯定し、自己自身と同一化してその発展の方途を描こうとしたのが、マックス・ヴェーバーその人だったのです。 

こんの はじめ 今野 元
愛知県立大学外国語学部 教授

愛知県立大学外国語学部教授。ドイツ政治思想史/欧州国際政治史/日独関係史。日本の近代化のモデルとなったドイツの国家がどのように形成され、国民意識がどう変化したのか、そしてドイツ(語圏)の政治や学問が日本にどのような影響を与えてきたかを研究している。またマックス・ヴェーバー研究を出発点に、歴史学研究の一つの可能性としての伝記研究の手法的確立を目指している。