A級戦犯は知っていても、BC級戦犯のことはよくわからないという方は、きっと多いことでしょう。田中宏巳著『BC級戦犯』(2002年、ちくま新書)によると、A級戦犯が国家を戦争に導いた軍部や政府の指導者であるのに対し、BC級戦犯は日本軍が占領した地域において捕虜や現地住民に対する残虐な行為を罪に問われた人びとです。命令した士官がB級、実行した下士官以下がC級とされたようですが、同書によるとこの区別に実効的な意味はあまりなかったようです。

 BC級戦犯の裁判はアメリカ、イギリス、オーストラリア、オランダ、フランス、中国、フィリピンの連合国側7ヵ国の主宰により、主に中国大陸や東南アジアなど戦闘があった現地で開かれました(49法廷のうち、日本国内はアメリカが主宰した「横浜法廷」だけです)。戦後、連合国の調査によって逮捕された2万5000人以上のうち5000人以上が起訴され、900人以上が死刑となっています。この裁判では検察、弁護人ともに連合国側が務め、通訳も十分ではなかったために、状況がよくわからないまま判決を言い渡された被告も多かったようです。

 社会学者の作田啓一はこうしたBC級戦犯についていくつかの論考を残しており、そのうち『恥の文化再考』(1967年、筑摩書房)に収録されている高橋三郎との共著論文「われらの内なる戦争犯罪者――石垣島ケース」(1965年初出)において、7人が死刑となった「石垣島ケース」を詳細に再構成しています。

 石垣島ケースとは、1945年4月15日午前9時ごろ撃墜されて石垣島に降下した米軍爆撃機の搭乗員3名が、同日夜、石垣島海軍警備隊によって虐殺された事件です。この処刑は正式な取り調べもないまま警備隊内で「以心伝心でなんとなく決まって」しまい、合図もなく始まり、40~50名の兵士が次々に米兵に刺突するという陰惨なものでした。裁判で警備隊トップのOI指令は自らの命令を否定し、「自分の意を察して部下が思うように運んでくれた」と供述しています(この証言によって下士官たちも死刑判決を受けました)。彼らは「なんとなく」殺人行為に駆り立てられ、「誰も責任の自覚がなく、ずるずるべったりに」処刑が進行したのです。

 この共著論文の5年前の1960年、作田は「戦犯受刑者の死生観」で刑死または自殺したBC級戦犯の遺文を資料に、彼らが自らの死をどのようにして受け容れたかに迫ろうとしています。作田はそれを四つの類型に分類しました。

 一つめは、人間も動物もいつかは死ぬ、自分はいま戦争犯罪者として死んでいくが、いずれにしても死は避けられないものだという「自然死」型。二つめは、日本が起こした戦争に対しては誰かがその代表として犠牲にならなければいけないという「いけにえ」型。三つめは、「いけにえ」型と似ていますが、自分の死が新しい日本の基礎になるのだという「いしずえ」型。そして四つめは、自らの罪を認め、それを償うために死ぬという「贖罪」型。このうち最も多かったのは日本のために死ぬという「いけにえ」型で、逆に最も少なかったのは個人の責任を認める「贖罪」型でした。西洋の責任意識である「贖罪」型とは対照的に、BC級戦犯の多くは自分個人には責任がないと思うことによって、死を受け容れることができたのです。

悪の陳腐さ

 丸山眞男は1949年の「軍国支配者の精神構造」で、日本ファシズムが「神輿」(権威)、「役人」(権力)、「無法者」(暴力)からなる「厖大なる「無責任の体系」」であると指摘し、東京裁判におけるA級戦犯の供述記録から「既成事実への屈伏」と「権限への逃避」という二つの態度を抽出します。前者は既に決まった政策には従わざるを得なかった、既に開始された戦争は支持せざるを得なかった(「個人的意見は反対でありましたが、すべて物事にはなり行きがあります」)とする態度、後者は自らの形式的権限を絶対化して閉じこもることで、訴追事項が自分の権限に属さない(「私は単なる一少尉でしたから、何もできませんでした」)とする態度です。こうして「小心翼々たる「臣下」意識」が蔓延し、「責任なき支配」と「統治の原子的分裂」が生じるというのです。

 こうした戦争犯罪と責任の問題を考えていく上で、アドルフ・アイヒマン(1906-1962)は注目すべき人物のひとりです。アイヒマンはナチス政権下のドイツにおけるユダヤ人移送局の長官で、ドイツ占領地内のユダヤ人をアウシュビッツ等の収容所に移送する任務の責任者でした。敗戦後はアルゼンチンのブエノスアイレスに逃亡しましたが、1960年にイスラエルの諜報機関(モサド)によって身柄を拘束され、エルサレムに連行されて、同地での裁判で死刑を宣告され、絞首刑に処せられました。

 自身もユダヤ人であるハンナ・アーレントは『エルサレムのアイヒマン』(1963年、みすず書房)で、この裁判における彼の姿を克明に記しています。そこで明らかになったのは彼が有能な官僚かつ小心な一市民であり、与えられた任務を最大限の効率で遂行すること以外には何も考えていなかったということでした。「私は命令に従っただけだ。当時のドイツではヒトラーの命令は絶対だった」、「私はユダヤ人であれ非ユダヤ人であれ、そもそも人間を殺したことがない」といった彼の証言は、丸山が指摘した態度そのものだと言えるでしょう。これについてアーレントは、「アイヒマンは自分の仕事が他人に一体どんな事態を生むかに対して思考を停止している」と述べています。

自分の昇進に恐ろしく熱心だということの他に彼には何らの動機もなかったのだ。そしてその熱心さはそれ自体としては決して犯罪的なものではなかった。俗な表現をするなら、彼は自分がしていることがどういうことか、全然わかっていなかった。……彼は愚かではなかった。まったく思考していないこと――これは愚かさとは決して同じではない――、それが彼があの時代の最大の犯罪者の一人となる素因だったのだ。(『エルサレムのアイヒマン』、P.395)

 自分の仕事によって他者に何が起きるのかを考えなければ、良心の呵責に悩むこともありません。彼がひたすらルールを守り、上からの命令を忠実に実行した結果、何百万といった命が徒(いたず)に失われる。このことは悪がいかに陳腐で凡庸なものであるかを物語っています。アーレントは言います。

アイヒマンという人物の厄介なところはまさに、実に多くの人びとが彼に似ていた……ということなのだ。この正常性はすべての残虐行為を一緒にしたよりもわれわれをはるかに慄然とさせる。(同書、P.380-1)

 アイヒマンが極悪非道な人物であったならば事態はシンプルです。私たちは彼のした事をその残虐性に帰して納得することができるでしょう。しかし彼が自分に与えられた仕事を忠実にこなすだけの、ごく普通の人間であったことは、私たちの心に言いようのない不安を残していきます。

 アーレントはまた、「自分が効率よく任務を遂行できたのはユダヤ人の協力があったからだ」というアイヒマンの証言を記しています。アイヒマンは各地のユダヤ人評議会にその地域のユダヤ人のリストを作成するよう依頼し、それを基にして移送計画を立てていたというのです。それによって協力者(ユダヤ共同体の指導者たち)の権力と身の安全はナチスに保障されました(自分たちが移送されるまで、ですが)。彼ら自身は恐らく、自分が収容所に送られることはないと考えていたのでしょう。アーレントは、もしもこうしたユダヤ人評議会の協力がなければ、何百万ものユダヤ人をシステマティックに殺害する――アウシュビッツ強制収容所は「殺人工場」と呼ばれました――ことは到底できなかっただろうと述べています。

 こうしたアーレントの指摘は多くのユダヤ人の怒りを買いました。残忍な反ユダヤ主義者の本性――実際アイヒマンは反ユダヤ主義を信奉していたとする研究もあります――が暴かれると期待していたら、そこにいたのは出世のことだけを考えている小役人であり、さらにはあの虐殺がユダヤ人自身の協力によって成り立っていたというのですから無理もありません。そんな話は誰も聞きたくないわけです。これによってアーレントは多くの友人を失ったといいます。しかし、「向こう側に悪があり、自分たちは無辜の被害者である」というユダヤ人の態度を否定する彼女の議論には、ある種の普遍性があるように思います。

私たちはBC級戦犯である

 ここでもう一度「石垣島ケース」を見てみましょう。作田らは、この事件が起きた理由はアメリカ兵への憎しみや日本兵の残虐性ではなく、海軍警備隊という集団内の問題だったのではないかと推測しています。この警備隊は40代と20代のメンバーによってジグザグに組織されており、両者の間には厳しい緊張が存在していました。着任したばかりのOI指令は48歳で、この集団の連帯を維持するためのリーダーシップに欠けており、常に不安をもっていたようです。そこへ、撃墜されたアメリカ兵3名が捕虜となった。数人があちこちで話し合い、誰もイニシアチブをとらないまま「なんとなく」で処刑が決まる。しかしこの処刑は、暴力の共有により、分裂の要素をはらんでいた集団にまとまりをもたらします。作田はこれを、ルネ・ジラールの『暴力と聖なるもの』を参照して、「相互暴力から共同暴力へ」という言葉で表現しています。集団というものがもつ暴力性、それこそがこの事件の原因だったのではないかというのです。

私たち日本人は、一人一人の人間としては、決して愚かでも残酷でもない。しかし、ある種の集団に巻き込まれると、私たちはほとんど狂人のように行動する。集団への同調はある場合には私たちの長所となるが、しかしそこから救いがたく愚かな行動も起こってくるのである。集団的愚昧こそ日本人の原罪なのかもしれない。(『恥の文化再考』P.106)

 アイヒマンと海軍警備隊の日本兵に共通しているもの、それは自分たちの集団の外にいる「他者」への想像力の欠如ではないでしょうか。前者はナチスのルールに、後者は警備隊内の状況のみに囚われ、集団の外のユダヤ人やアメリカ兵もまた自分たちと同じ人間であることに思いを致すことができなかった。いや、自らその想像を遮断したのです。自分が集団の中で生きていくために。しかし、それを非難する資格が私たちにあるでしょうか。

 戦前、多くの日本人は軍部の独断を支持し、開戦の報を聞いて歓喜したといいます。その彼/彼女らは、戦争が終わると、この間違った戦争の責任は戦犯にあり、自分たちは被害者であるという態度をとりました――これは言うまでもなく、アイヒマンと彼を極悪非道な異常者として見るユダヤ人の構図と同じです――。これに対して作田は1964年の論文「死との和解」で「BC級戦犯は他ならぬ私たちである」という立場を表明します。

 軍部や政府の指導者だったA級戦犯に比べるとBC級戦犯はずっと身近な存在です。ごく普通の日本人といっていいでしょう。それは、もしも同じ立場に置かれたら、私たちも残虐な行為に加わり、戦勝国によって裁かれていたかもしれないということを意味します。にもかかわらず、いや、むしろそうだからこそ、BC級戦犯の存在は戦後「忘却によって遇されて」きたのではないでしょうか。刑死した彼らの多くが自らの死を日本のための「いけにえ」死として受け容れたことを思い出してください。そんな彼らを私たちは「戦後の新しい日本」の外の「他者」として、彼らへの想像力を遮断し続けてきたのです。

 集団内部の緊張と不安を和らげるために「いけにえ」を選び出し、相互暴力を満場一致の共同暴力に作り替えて彼/彼女を迫害する。そういったケースは「日本人の原罪」という作田の指摘通り、現在もこの社会のあらゆる「集団」で起きているように思います。BC級戦犯を生み出した性質は戦後75年を経たいまも、何も変わらずに私たちの中にあるのではないか。私たちも彼らと同じ罪びとなのではないか。想像力を遮断し、「いけにえ」を「忘却」によって遇してきた私たちがするべきことは、まず、この苦く、居心地の悪い現在地を認識することではないでしょうか。


※本稿は「いけにえ・憐憫・赦し――作田啓一と「戦後」」(『反転と残余――〈社会の他者〉としての社会学者』2018年、弘文堂所収)及び「無責任の体系とそのいけにえ」(『ソシオロジ』193号、2018年、所収)の内容を下地として、トイビトのインタビューへの応答を基に再構成したものです。