資本主義は現在、日本を含むほとんどの人類社会の基盤を成している経済システムです。これを言い換えると、現代社会の問題の多くは資本主義に起因するということになります。マスクの値段が高騰するのも、長時間労働の蔓延も、生活保護の受給者がバッシングを受けるのも、根本原因は資本主義にあると言えるでしょう。では、その資本主義とは、一体どのようなしくみなのでしょうか。主著『資本論』をはじめ、生涯を資本主義の分析と闘いに捧げたカール・マルクス(1818年―1883年)の理論に従って見ていきましょう。

 資本主義社会において何よりも重要なのは市場です。といってもそれは、市場が資本主義社会に特有のものだということではありません。奴隷制や封建制などと言われるような、資本主義以前の前近代社会においても、商品やお金をやりとりするという市場は存在しました。しかし、生産力の乏しいそれらの社会では、人びとは基本的に自給自足の生活を送っており、市場でやりとりされるのは高級品や特産品などの限られた生産物だけでした。また、かれらの市場でのふるまいは、哲学や宗教などの倫理や習慣によって強く規制されてもいました。

 地縁や血縁といった人と人のつながりを構成原理とするこれらの社会で個々人が私利私欲を求めることは、共同体の秩序を乱し、社会全体の機能不全をもたらすからです。キリスト教やイスラームなどの宗教が利息をとることを禁じていたのも、この文脈で捉えることができるでしょう。

 しかし、上記のような前近代社会の市場と比べて、資本主義社会の市場はかなり違った論理で動いています。まず規模がまったく違います。それまでは自分たちで賄っていた生活必需品までもが商品として、市場を介して取引されるようになりますし、生産者の大部分は誰かに雇われて、すなわち自分の労働力を販売して生産活動に従事するようになります。つまり、資本主義においては、市場は社会の一部にとどまることなく、その全体を覆い尽くすものになっているのです。

 また、個人が利益を追求することも悪いことだとはみなされません。アダム・スミス(1723年-1790年)が見事に定式化したように、個人が自らの利益を追求することがむしろ社会を繁栄に導くのです。一見して分かるとおり、これはそれまでの倫理観の真逆を行くもので、人類の歴史上極めて特殊な考え方です。これだけでも資本主義がいかに特異なシステムか理解していただけるのではないでしょうか。

 ともあれ、こうして社会の中心は、共同体における人と人のつながりから、市場における商品や貨幣のやりとりへと移っていきました。その過程をマルクスは「物象化」という概念で分析しています。

物象化

 やや図式的に言うと、物象化は3つの段階に分けて考えることができます。

 資本主義以前の共同体社会では食料、衣服、住居といった生きていくために必要な物の生産は、伝統や身分によって割り振られていました。伝統によって生産を組織するやり方はなかなか強力で、前の世代で上手くいっていたやり方を踏襲するわけですから、人口や生産力が急激に増大するような社会でなければ、生産部門の均衡を保つことができます。あるいは、ピラミッドや万里の長城など、大規模な事業を行う場合は、政治的権力者の命令が物を言いました。これらはいずれも、共同体内部の秩序によって生産を組織するやり方だと言えるでしょう。

 これに対して、共同体が解体し、バラバラになった個人が私利私欲を追求する資本主義社会では、伝統や身分といった制限はありません。そのため、人びとは基本的に効率の良い(=できるだけ少ない労働でできるだけ多くのお金が得られる)商品の生産を選びます。すると一番効率の良い産業に労働者が集中し、社会が成り立たないように思ってしまいますがどうでしょうか。

 仮に、200円で売れるノートの生産に1時間かかり、同じく200円で売れるボールペンの生産が30分だとしたら、(原価や生産工程の違いが無視できるとすると)ノートを作っていた人たちもボールペンを作るようになるでしょう。すると市場ではボールペンは供給過多になって価格が下がり、逆にノートは需要が供給を上回って価格が上がります。そうなると、今度は多くの生産者がノート業界へと流入することになり、最終的には需要と供給が釣り合うような配分に落ち着くのです。

 資本主義社会ではこうした市場の「見えざる手」によって、摩擦をともないながらも、労働の社会的配分を実現することができます。とはいえ、ここでは、人間はもはや自ら生産を制御することはできず、その役割は市場そのもののメカニズムに委ねられるのです。人間と市場のこうした逆転が、物象化の第一段階です。市場が生産を制御し、人びとの目が市場に向かうと、人間よりも貨幣や商品の方が信頼されるようになります。人は裏切るけどお金は裏切らない、というわけです。こうして人びとは、とにかく貨幣を得ることに血道をあげるようになります。

 資本主義以前の社会では、物は使用するために生産されていました。お米は食べるために、服は着るために、家は住むために、といった具合です――生産物がもつこのような有用性を「使用価値」といいます――。これに対して資本主義社会では、生産はより多くの貨幣を得るために行われます。どれほど社会に必要であっても、金儲けにならないものは誰も作りません。いま改めて問題になっているように、パンデミックにそなえて抗ウィルス薬やワクチンが必要だとしても、それが利潤につながらないのであれば、企業は開発しようとしません。それでは困るので、実際には国家が生産を調整するということになっているのですが、この何十年間かのいわゆる「新自由主義」の流れのなかでますます民営化が進み、社会保障が削減され、市場の領域が拡大しているのが実情です。

 お金を増やすことが目的ならば、多くのお金を持っている人は、自分で働くより、投資をした方が効率よく稼ぐことができます――こういう人のことを「資本家」といいます――。資本家が投資したお金をG、生産物を売って得たお金をG’とすると、その事業がうまくいけばG < G’となります。資本主義の「資本」とは、このように自己増殖する価値のことに他なりません。こうして、生産の大部分が、たんに貨幣を目的として行われるのではなく、資本の利潤を目的として行われるようになります。これが資本主義社会です。

 他方、資本を持たない多くの人びとがお金を得るためには、賃労働者として、自らの労働力を資本家に売る他ありません。かれらは自分自身の目的のためではなく、雇われた資本家、つまりは他人の金儲けのために働くことになります。ここでも、労働者はたしかに自分の意志で自分の頭と身体をつかって働くのですが、しかし、自分のやりたいようにではなく、資本家の指揮命令にしたがい、資本のために働くのです。

 こうして、賃金労働者は自分の労働を他人の労働として行うという「疎外」状態におかれ、物理的には生産過程の遂行者でありながら、社会関係的には資本の利潤のための「道具」でしかないという転倒が生じます。実際、資本主義社会では人間の都合ではなく、資本の都合に合わせて労働するようになります。これが物象化の第二段階です。この構造が現代においても「ブラック企業」問題に象徴されるような若者の使い捨て、長時間労働といった問題を引き起こしていることは言うまでもありません。

貨幣の力

 こうして社会が資本家と賃労働者によって再構成されると、第三段階として社会全体の物象化が起こります。いま、「経済」という言葉を聞いて多くの人が連想するのは、具体的な商品やサービスよりも、株価やGDPなどの数値ではないでしょうか。私たちは生産、物流、保育、介護といった産業がちゃんと機能していても、株価が下がると「大変なことが起きるのではないか」と感じます。社会に必要なもの(=使用価値)が生み出されることよりお金がどんどん増えていることの方が重要だ、というのが私たちの社会の共通認識です。日本の政治家の多くは当然のようにGDPを基準とした「経済成長」を標榜しますが、このことは物象化がこの社会を覆いつくしている証左だといえるでしょう。

 物象化された社会において、貨幣は絶対的な力を持っています。では、その力の源泉とは何でしょうか。それは、どんな商品とでも交換できるということです。冒頭でお話した通り、資本主義社会とは生活に必要な物やサービスまでもが「商品化」された社会のことでした。この商品化が進めば進むほど貨幣の重要度が増し、その力はどんどん強大になっていくのです。

 逆に、医療費や大学の授業料が無料で、社会保障も充実した北欧のような国では、貨幣がそれほどなくても生きていけるので、その力は相対的に弱くなります。また、人と人のつながりが維持されているところでも、貨幣はあまり必要とされません。友達同士でキャンプに行き、カレーをつくったからといって、料理代を請求する人はいないでしょう。貨幣が力を持つためには、市場を介することでしか社会的な生産体制を組織することも、生きていくために必要な物を手に入れることもできない状態にしておく必要があるのです。新自由主義的な統治が実現しようとしたことは、まさにそういうことです。

 市場が社会の中心を占め、日々の生活が商品や貨幣に依存して営まれるようになると、人びとの意識も変化していきます。すなわち、人間ほんらいの「自由、平等、所有」といった権利が市場を前提としたものに書き換えられ、市場での競争こそが自由であり、平等であり、そこで認められた所有だけが正当である、という考えが生まれてくるのです。現在の日本における生活保護受給者や公務員へのバッシング、自己責任論などは、こうした考えに依拠しているといえるでしょう。

資本主義と自然破壊

 共同体が解体され、バラバラになった個人が市場に依存することで成立する資本主義社会。しかしそれが壊したのは、人と人のつながりだけではありません。人間と自然との関係もまた資本主義によって撹乱され、破壊されることをマルクスは指摘しています。

 マルクスは『資本論』第一巻において、労働を次のように定義しています。

労働は、さしあたり、人間と自然とのあいだの一過程、すなわち人間が自然とのその物質代謝を彼自身の行為によって媒介し、規制し、制御する一過程である。

 マルクスが労働について考える際の大前提は、人間は自然の一部だということです。私たちは他のあらゆる有機体と同じように、たえず自然とやりとりすることでしか生きていくことができません。呼吸によって酸素を取り入れ、二酸化炭素を排出する。食物や水を摂取し、尿や便を排泄する。他方で自然は、排出された二酸化炭素を、光合成をつうじて酸素に変換する。排泄物は土壌を肥やし、植物の育成を促すでしょう。こうした循環のことをマルクスは「人間と自然との物質代謝」と呼びました。

 しかし、人間が必要とする自然とのかかわりはこれだけではありません。体温を保持し、身体を防護するために衣服をつくったり、食べるために食料を栽培したり、安全な生活領域を保持するために住居を建てたりします。人間は自然との物質代謝を円滑に行うために、自分たちの意識的な行為によって自然を変容させているのです。こうした自然との物質代謝の意識的媒介こそが、マルクスのいう労働に他なりません。

 人間による物質代謝の媒介(=労働)は、他の動物のそれとは異なり、自覚的に行われるという特質を持っています。そのため、そのあり方は多様性を持ち、時代によって変化していきます。資本主義以前の共同体社会では、労働は使用価値を生み出すために行われました。着るため、食べるため、住むための労働です。それに対して資本主義社会では、先述した通り、利潤を生み出すことを目的に行われます。ここでは自然は、労働力と同じく、価値増殖の手段でしかありません。

資本主義的農業のあらゆる進歩は、たんに労働者から略奪する技術における進歩であるだけでなく、同時に土地から略奪する技術における進歩でもあり、一定期間にわたって土地の肥沃度を増大させるためのあらゆる進歩は、同時に、この肥沃度の持続的源泉を破壊するための進歩である。(…)それゆえ資本主義的生産は、すべての富の源泉すなわち土地および労働者を同時に破壊することによってのみ社会的生産過程の技術および結合を発展させる。(『資本論』第一巻)

 使用価値を目的とする資本主義以前の労働は、共同体で消費する以上の物を作る必要がないため、その生産量には自ずと制限がかかります。一方、資本主義的生産が目的とする価値増殖には――政治家が経済成長を叫ぶ通り――制限がありません。そのため、資本主義的生産は人間と自然の物質代謝に固有の論理――たとえば、作物を収穫したら排泄物を戻して土地を肥やす――と齟齬をきたし、最終的には労働者と自然環境の双方を破壊してしまうのです。気候危機やパンデミック、バイオテクノロジーのリスクの増大などを考えればわかるように、これは現代の私たちが直面している問題そのものだと言えるでしょう。

 マルクスが『資本論』を著してから150年以上の時が流れました。その間に世界は「社会主義」国家(それはマルクスの理論からみれば「国家資本主義」とも言うべきものですが)の誕生と崩壊をはじめ、さまざまな変化を経験しました。現代社会には、マルクスの理論だけでは説明できない現象がありますし、そもそもマルクスの理論じたいが未完成なものです。しかし、マルクスが『資本論』で明らかにした資本主義の本質――専門的な言葉で言えば資本主義的生産様式の経済的形態規定――は現在もなにも変わっていません。むしろ、グローバル化やテクノロジーの発展をつうじて、その力があまりにも強力になったために、マルクスが想定もしなかったレベルでの物質代謝の危機が到来しようとしています。

 このまま無限の成長を追い求めて破滅の道を辿るのか、持続可能な新しい社会への一歩を踏み出すのか。私たちは今こそ、マルクスの残した言葉と真摯に向き合うべきではないかと思います。


※本稿は『カール・マルクス』(筑摩書房)、及び『マルクス 資本論』(KADOKAWA)の内容を下地として、トイビトのインタビューへの応答を再構成したものです。