「個人の置かれている現在の状況はその個人の資質や行動の結果である」と考える自己責任論は、1990年代から徐々に私たちの社会の「常識」となっていきました。貧困、障害、不登校、DV、介護疲れといった問題は、すべて、個人やその家族に帰するものなのだから、自分で解決すべきだというのです。その結果、痛ましい事件が毎日のように新聞やニュースを賑わしています。はたしてこれらは、本当に、個人や家族だけの問題なのでしょうか。

 30年ほど前の日本には、国家という大きな共同体と家族という小さな共同体の間に、会社をはじめとして、地域や町内といった「中間共同体」があり、家族や個人が支えあう場として機能していました。しかし、「すべての人は市場の前で等価であり、交換可能である」と考える新自由主義の台頭によって、人々の生活が国家から市場へ委ねられるようになると、これらの社会結合は弱体化していきます。短期間での成果を迫られた企業が、終身雇用をやめ、必要なときに必要なだけ雇う派遣制度を採用したことなどは、その顕著な例だといえるでしょう。

 それに伴って、中間共同体の担っていた機能が失われ、唯一残った家族に背負いきれないほどの負担がかかっているのが現状です。私たちが家族や個人の問題だと思っている(思わされている)ものは、実は社会の制度や構造、つまりは政治によって解決すべき問題なのです。

 人は誰しもが社会の中に埋め込まれ、さまざまな他者との関わり合いの中で生きています。長い人生の間には人を助けることもあれば、人の助けが必要となることも必ずあります。生まれてから死ぬまで「自己責任」で生きていける人間は一人としていないのです。

 グローバル化・多様化が進む現代において、世代も、性別も、文化的なバックグラウンドも異なる人同士がつながる共同体をつくるのは、確かに容易ではありません。しかし、それぞれの違いを受け入れ、どうすれば共に生きていけるかを話し合い、少しずつ合意を形成していく。たとえ困難であっても、それこそが、私たちの選んだ民主主義という政治形態の「原初の姿」なのではないでしょうか。