アフリカ大陸の北に位置し、文明発祥の地の一つとしても知られるエジプト。人口の大半をムスリム(イスラム教徒)が占めるこの国において、女性たちの多くは自らの髪や首を思い思いのヴェールで覆っています。それは「ムスリム女性」と聞いて誰もがイメージする姿そのものですが、20世紀の半ばにはこのような女性を見ることは多くありませんでした。その背景には何があったのでしょうか。そして、彼女たちはなぜ、再びヴェールをまとうようになったのでしょうか。

 イスラームの聖典クルアーンでは、女性だけに対して「何らかの覆い布の使用」が命じられています(たとえば、24章31節、33章53節・59節など)。これに限らず、クルアーンやハディース(預言者ムハンマドの言行録)では、男性に対する神からの啓示と女性に対するそれとの間にいくつかの違いが見られます。一夫多妻婚を認めているのはその代表的な例ですが、他にもクルアーンには以下のような章句があります。

男は女の擁護者である。それは神が一方を他よりも強くなされ、かれらが自分の財産から経費を出すためである。それで貞節な女は従順に、神の守護の下に(夫の)不在中を守る。あなたがたが、不忠実、不行跡の心配のある女たちには諭し、それでもだめならこれを臥所に置き去りにし、それでも効きめがなければこれを打ちなさい。それで言うことを聞くようならばかの女に対して(それ以上の)ことをしてはならない。(日本ムスリム協会訳『聖クルアーン』4章34節より一部改訳)

 こういった章句はイスラームの法学者らにより、男性を女性よりも優位に置く男女観の論拠として用いられてきました。ところが19世紀後半から20世紀にかけて女性の解放を目指した運動が世界的に広まっていった時期、イスラーム社会でも近代教育を受けた知識人たちを中心に、このような男女観に対して異議が唱えられるようになります。

 その議論の一環として、クルアーンを字義通りに捉えるのではなく、各時代の文脈に当てはめて解釈すべきだという主張が聞かれました。たとえば上記の章句にある「(女性を)打ちなさい」の解釈として、クルアーンが編纂された7世紀には夫から妻に対してもっとひどいことが行われていた。この言葉はそれを戒めるもの、すなわち「打つ前に妻をよく諭し、また寝床を分けて冷却期間を置き、それでも必要であれば、しつけのために軽く打つ程度にしておきなさい」という段階的な忠告であり、決して夫による妻への暴力を是認するものではなかった、という声が聞かれるようになりました。

 このようにして従来の常識に捉われない自由な言論空間が形成され、その影響はヴェールに関する議論にも及び始めます。やがてムスリム女性が髪や肌を覆う姿は中東諸国の後進性の象徴として激しく非難されるようになり、その結果、エジプトでは20世紀の中頃にかけてヴェールを脱がせよう/脱ごうという運動が高まっていったのでした。

 このまま消滅していくかに思えたヴェールですが、1970年代になると再び「覆い」をまとった女性たちの姿が見られるようになります。彼女たちはスカーフで髪や首を覆い、衣服やロングスカートで身体の線を隠しました。中には、顔覆いや手袋を着用し、肌を一切露出しない女性もいました。女性たちのそうした服装は「ヒジャーブ」と呼ばれました。ヒジャーブをまとった女性の数は80年代、90年代を通して増えていき、2000年代になると、腕や足を露出する女性や髪を覆わない女性は、エジプトにおいてむしろ少数派となったのです。

女性=災いをもたらすもの

 近年のエジプトにおけるヒジャーブ着用者の増加の理由は、これまでにもさまざまに論じられてきました。経済的節約やセクハラ防止といったヒジャーブの機能性に注目する見方、あるいはヒジャーブを欧米的な価値観などへの抵抗や抗議の象徴とする見方は多くの先行研究に共通しています。エジプトの歴史や社会状況を鑑みると、これらの議論に説得力があるのはたしかです。一方で、女性たちのあいだでよく聞かれる「神のために」「ムスリム女性の義務だから」ヒジャーブをまとう、という言葉には十分な注意が払われてきませんでした。彼女たちの言葉、そしてヒジャーブをまとうという行為はどのような論理や感情の上に成り立っているのでしょうか。

 1960年代の終わりからエジプトで出回るようになった、ヒジャーブに関するアラビア語の著述や説教の多くでは、「女性のフィトナ」を防ぐことがヒジャーブの最大の目的だとされてきました。「フィトナ」とはクルアーンにおいて試練や災い、騒乱といった意味で用いられる言葉です。とくに女性の誘惑が引き金となって起こる災いや、社会の秩序の乱れ、あるいはそうした災禍をもたらす女性の魅力や誘惑それ自体は「女性のフィトナ」と呼ばれます。これについて、多くの説教師や著述家に共通するのは次のような認識です。

 神は男性と女性を創造した際、男性には女性への強い欲望を植えつけた。ただし男性は、むやみに女性への欲望をおぼえるわけではない。正常な状態であれば、それは防ぐことができる。フィトナのきっかけをつくるのは、女性自身なのだ、と。たとえば、エジプトの内外で活躍するワジュディー・グナイムという説教師は『ヒジャーブ――最後の審判の前に』と題する説教の中で次のように述べています。

女性は男性が欲望を持っていることを知っている。男性が自分を求めていることを知っている。だから、身体を覆わなければと思う。女性の本能がそうさせるのだ。…だからこそ、われわれの主は盗みの罪についてお話になるとき、≪盗む男と盗む女≫(クルアーン5章38節)…とおっしゃった。男性が先だ。…しかし、姦通の罪に関しては、何とおっしゃったか。≪姦通する女と姦通する男≫(同24章2節)。ここでは女性が先だ。姦通のきっかけをつくるのは女性だからだ。

 イスラームで姦通は多神崇拝や殺人と並ぶ大罪とされています。女性は姦通のきっかけをつくる恐ろしいフィトナであり、堕落への第一歩は男性が女性を見ることによって踏み出される。だから、女性の美しい部分はヒジャーブによって隠されなければならない。女性がヒジャーブをまとえば、男性が欲望を感じることもなく、社会の平安は保たれ、共同体は混乱から守られる。女性をヒジャーブで覆うのは、結果的に女性自身のため、女性を守るためなのだ――。これが現代エジプトにおいて出回る多くの説教や著述の基礎となっている「フィトナを防ぐためのヒジャーブ」論(以下、フィトナ論)」です。

 これに対して、2000年前後に「カリスマ的」説教師として大きな注目を浴びたアムル・ハーリドという人物は、女性の「ハヤー」こそが彼女たちにヒジャーブをまとわせるのだ、という「ハヤーのためのヒジャーブ」論(以下、ハヤー論)」を展開します。

ハヤーとは何か

 アムル・ハーリドによると、「ハヤー」とは恥ずかしいという気持ちです。ただしそれは単なる恥じらいではありません。自分は常に高潔に生きてきた、誰の前でも正しい行いをしてきたと自負する者が、禁じられた行為や間違った行為を前に、「そんなことをするのは恥ずかしい」と感じる。それがハヤーです。ムスリムにとって何よりも大切なのは道徳だと考える彼は、ハディースを引きながら、その道徳のうちもっとも完全なものがハヤーであると説きます。そして、ハヤーの中でもっとも高位にあるのは「神に対するハヤー」、すなわち神の意思に逆らうことは恥ずかしいという感情である、と言います。

 ハーリドによると、これこそが、ムスリム女性がヒジャーブをまとうもっとも重要な理由です。彼はクルアーンの章句を引用し、ヒジャーブ着用はクルアーンに示された神からの命令であると断言します。

われわれの主が示したクルアーンにあるではないか。ヒジャーブは義務だ。自発的な追加行為などではない。ヒジャーブは義務なのだ。推奨行為ではない。…私たちは今日、神に対するハヤーの話をしている。主の面前に立つことになる人びとの話をしている。わが同胞姉妹よ、あなたは神に向かって何と言うつもりなのだ。神が「私が命じたヒジャーブはどこだ」とあなたに尋ねるとき、いったい何と答えるつもりなのだ。

 こうした言葉によってハーリドは、女性たちの中から「神に対するハヤー」という感情を引き出そうとしているかのようです。

 ヒジャーブ着用の根拠をクルアーンやハディースに求めるという点において、フィトナ論とハヤー論に違いはありません。しかし前者においてはヒジャーブをまとわせる主体が男性、あるいはイスラーム社会だったのに対し、後者では女性自身が主体となっている点は注目に値します。ハヤー論ではヒジャーブそのものより、女性の信仰心が重要になっているのです。ハーリドは「フィトナ」の代わりに「ハヤー」という概念を用いることによって、これまで連綿と受け継がれてきた、女性は有害でおそろしい存在なので覆い隠した方がよいという女性嫌悪的なヒジャーブ着用の理由を排除することに成功したように見えます。

エジプト・カイロの洋品店のショーウィンドウを飾るさまざまなヒジャーブ(著者撮影)

 ハーリドは女性たちに、男性権力による抑圧からの解放と信仰者としての自立を約束しました。しかし、彼は同時に女性たちから大切なものを奪っていったようにも思われます。それは、彼女たち自身が神の意思について考える余地です。

本来のイスラーム

 ヒジャーブ着用は神の命令であると説くアムル・ハーリドは、それが彼自身の聖典解釈によるものだということを明示していません。その上で、「われわれの主がおっしゃったことに対して、あなたに選択権はないのだ。主がそうおっしゃったのであれば、それでおしまいなのだ」と議論を閉じてしまっています。しかし、そもそも彼の言葉が神授のものであると、言い換えるなら本来のイスラームであると断言することが果たしてできるのでしょうか。

カイロのモスク。ラマダーン(断食月)には日没後に信者たちが集まり、集団で礼拝する(著者撮影)

 牧野信也氏は、著書『イスラームの根源をさぐる』(中央公論新社)の中で、「イスラーム」という言葉はもともと、自分の家畜を預けるという意味で使われていたと述べています。アラビア半島の遊牧社会において家畜はもっとも大切な財産。その家畜を預けられるのは、心の底から信頼できる相手だけです。それがいつしか神となり、家畜が自分自身に置き換わって、「イスラーム=神に身を委ねる」という意味になった、と。ムスリムが一日に5回「神は偉大なり」と唱えて礼拝することも、ラマダーンの断食をすることも、一人ひとりが神のことだけを考え、神と向き合うために他なりません。かれらの信仰の源はクルアーンの章句以前に、むしろ、こうした神との関係の中にこそあるように思います。

 現代エジプトにおけるムスリム女性のヒジャーブ着用が、男性説教師たちの言説に大きな影響を受けていることは間違いないでしょう。にもかかわらず、彼女たちがその理由を「神のために」「ムスリム女性の義務だから」と話す口調からは、自分で決めたことだというあふれんばかりの自負が伝わってきます。イスラームという「枠組み」の中で生きる彼女たち。しかしその枠組みはいまや、伝統によって受け継がれるものでも、外から押し付けられるものでもなく、神との一対一の関係を通して、彼女たち自身の中につくられるものとなっているのかもしれません。


※本稿は『神のためにまとうヴェール』(中央公論新社)の内容を下地として、トイビトのインタビューへの応答をもとに再構成したものです。