明治維新にはじまる日本の国民国家樹立の根底には、常に「祭政一致」の理念があったといっても過言ではありません。祭政一致とは天皇崇敬と「皇室祭祀(さいし)」を国の精神的支柱としてキリスト教に対抗し富国強兵を図るというもので、1889年(明治22年)に発布された大日本帝国憲法の第一条には「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とあります。「万世一系(ばんせいいっけい)」とは一つの血筋の王朝が永遠に続いていくという他国に例のないすぐれた「国体」ということで、その意味するところは記紀(『古事記』と『日本書紀』)の神話に求められます。

 記紀神話によると、天上の国「高天原(たかまがはら)」の主神である天照大神(あまてらすおおみかみ)は「天壌無窮(てんじょうむきゅう)の神勅(しんちょく)」を下して、孫(「天孫」)の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に地上世界の統治を委ねます。瓊瓊杵尊は日向(いまの宮崎県)の高千穂峰に降りたち(「天孫降臨」)、その曾孫である神武天皇が大和を平定して初代天皇に即位したとあります。この神武天皇の血が、途絶えることなく、現代の天皇までつづいているというのが「万世一系」の意味です。そして、「日本はこのような神勅と神的系譜によって統治されてきた特別な国である」という考え方を「国体論」といいます。

 国体論を最初に説いたのは江戸中期の儒学者や国学者たちで、それを一気に広めたのは江戸末期の水戸藩士 会沢正志斎(1772-1863)です。会沢が属する学派は後期水戸学とよばれますが、この水戸学の基礎を築いたのは水戸黄門でおなじみの徳川光圀(1628-1701)です。1661年に第二代水戸藩主となった光圀は、中国から明の遺臣である朱舜水を招き、儒学(朱子学)を藩政の中心に据え、徳川の治世に貢献しようとしました。中世の日本の思想は仏教が主でしたが、中央集権的な国家の理念と哲学体系をもち、強大な明王朝の設立に寄与した朱子学を導入します。死後の世界を説く仏教を退け、江戸幕府の武士の統治を実践的に支える理念を求めたものです。

 光圀は朱子学を奨励すると同時に、江戸の藩邸に修史局を設け、歴代天皇の治世を記す『大日本史』の編纂(完成は1906年)を命じました。この事業がきっかけとなり、水戸藩では朱子学を中心として国学や神道を取り入れた後期水戸学が形成され、前述の国体論を掲げる会沢正志斎の『新論』へとつながっていったのです。

 国体論は、清がアヘン戦争に敗れ、西洋の外圧が身近に迫る中で、「尊王攘夷」を掲げる志士たちの精神的基盤となりました。この危機的状況で日本を守るには、政権を幕府から取り戻し、万世一系の天皇を中心とした本来の国の姿に戻さなければならない。その思いが、「攘夷」を「開国」に転換した上で実現したのが、明治維新だったといえるでしょう。

国家神道の成り立ち

 それでは、明治維新によって生まれた新政府は、どのようにして国づくりを進めたのでしょうか。中心になったのは、冒頭にお話した「皇室祭祀」です。皇室祭祀はもちろん明治以前にも行われていましたが、その中では仏教によるものも多々ありました。新しい天皇が即位したときに受ける「即位灌頂(かんじょう)」は密教の儀礼ですし、葬儀も仏教式で行われていたのです。明治政府はこれらをすべて神道式に改め、大幅に拡充していきます。たとえば、天皇が自ら祭司を担うものとして、先述した天孫降臨、すなわち皇位の始原を祝う「元始祭」や、神武天皇の即位を祝う「紀元節祭」など、11の祭祀が新たに定められました。これらはすべて天皇家の神祭りや先祖祭であり、「万世一系の国体」論と密接に結びついていました。

 明治政府にとって皇室祭祀の意義は、神聖天皇崇敬を鼓吹し、国民の統合をはかることでした。そこで注目したのが神社です。

 日本には皇室とゆかりの深い神社――その頂点が天皇の祖神 天照大神を祀る伊勢神宮です――以外にも無数の神社があり、その多くは土着的、あるいは神仏習合的な信仰の対象でした。政府はこれらを含めたすべての神社を官社と諸社に分け、伊勢神宮を頂点として序列化します。つまり、全国の神社を国家の祭祀機関として組織化しようとしたのです。また、皇室祭祀に合わせて祝祭日を制定し、国民が共に皇室祭祀を言祝(ことほ)ぐ行事を神社や小学校などのさまざまな場所で催しました。神職の養成は皇典講究所(國學院)と皇學館で行いました。「皇」という文字が入っていることからも分かるように、神聖天皇と皇室祭祀と国体論を尊ぶ神道を形成していきます。皇室祭祀や国体論と神社を結びつけたこのような神道のあり方を「国家神道」といいます。

 ここからは、国家神道と神聖天皇崇敬がどのようにして国民に広められていったのかを見ていきたいと思います。神社や祝祭日のシステムも重要ですが、もっと大きな役割を果たしたのは学校と軍隊でした。

教育勅語

 1872年(明治5年)、近代学校制度に関する基本法令(=学制)が発布され、全国にまず小学校が、つづいて中学校やその他の学校が設立されていきます。国家神道の普及に決定的な役割を果たしたのは、これらの学校でひんぱんに読み上げられ、また暗唱された「教育勅語」でした。

教学局編纂 『教育に関する勅語渙発五十年記念資料展覧会図録』 内閣印刷局、1941年。

 教育勅語――「勅語」とは天皇が直接国民に語りかける神聖な言葉という意味です――は、大きく3つの部分に分けて読むことができます。最初に、天皇は「皇祖皇宗」を引き継いで徳治を行ってきた神聖な存在であり、「臣民」は国家の創設以来、そんな天皇に仕えてきたということが示されます。つづいて、臣民が守るべき徳目と、築くべきよい社会関係が「親子」「兄弟」「夫婦」「朋友」に分けて説かれます。この部分は儒教的な伝統を継承するもので、現代の公民教育にもある程度通用するかもしれません。しかしその後には、危機的事態――戦争などが想定されます――が起きたときには義勇をもって「公」にまた「天壌無窮の皇運」に尽くすべきであるという国家神道的な規範が述べられます。そして最後に、以上の教えが先祖代々受け継がれてきた天皇と臣民の深い紐帯(ちゅうたい)に基づき、普遍的な価値をもつものであることが主張されます。教育勅語はこのように、ある程度の普遍性がある儒教的な徳目を、国体論や濃厚な天皇崇敬が囲むような構造になっているのです。

 この教育勅語が国民に説かれ、また国民自身によって読み上げられ、記憶されることによって、国家神道や神聖天皇崇敬の精神が国民一人ひとりの中に形成されていったと見ることができます。

招魂祭と軍人勅諭

 国家神道や神聖天皇崇敬と軍隊の関わりでまずポイントとなるのは「招魂祭(=天皇に忠誠を尽くして死んだ人びとの慰霊祭)」です。この招魂祭と同等の意義をもつものとして、後醍醐天皇に殉じた楠木正成を祀る「楠公祭(なんこうさい)」があります。招魂祭と楠公祭は、幕末から、尊王攘夷の志士たちによって、各地で行われるようになっていました。やがて、下関や京都東山に招魂社が造営され、1869年(明治2年)、天皇の勅命により、神戸には楠公を祀る「湊川神社」が、東京九段には靖国神社の前身である「東京招魂社」が造営されます。天皇崇敬による国家統合を進めようとしていた政府は、これによって、天皇に忠誠を尽くした戦没者の祭祀を国家と国軍が主導権を持って行う形を整えようとしたのです。

靖国神社

 天皇崇敬と軍隊の結びつきは、1882年(明治15年)に発布された「軍人勅諭」によって一層強化されます。教育勅語と同じく天皇からの言葉として出された軍人勅諭では、天皇が軍隊を直接統御することが明らかにされた後、軍人として守るべき5つの徳目(「忠節」「礼儀」「武勇」「信義」「質素」)が述べられています。

 この軍人勅諭が出された背景には「国民皆兵」の構想と、それに伴う徴兵令の実施がありました。戦うのは武士だけだった江戸時代までとは異なり、国民の誰もが兵士となりうる近代の軍隊において、組織をまとめ上げる精神的支柱が必要だったことは想像に難くありません。その際に用いられたのが、主君のために命を投げ出すという古来の武士の倫理観でした。このことはたとえば、5つの徳目の結びとなる「義は山嶽よりも重く、死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ。其操を破りて不覚を取り、汚名を浮くるなかれ」といった文から読み取ることができます。そしてこれが、その後の戦争において、天皇のためには命を惜しまないという思想へとつながっていきました。

国家神道は解体したか

 1945年10月に敗戦後の東京に設置されたGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、国家神道が日本を戦争に駆り立てたという理解の下、同12月、その解体を目的とする「神道指令」(「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」)を発しました。しかしこれによって、本当に国家神道が解体されたのかは疑問です。

 神道指令はたしかに神社を国家から切り離しましたが、他方で皇室祭祀と天皇崇敬への対処はあいまいなものでした。GHQが意図したのは国家と神社を切り離すという意味での「政教分離」であり、天皇の処遇については未確定な段階で皇室祭祀と神聖天皇崇敬についての対処は示さなかったのです。

 その結果、2019年に行われた皇位継承の「大嘗祭(だいじょうさい)」で明らかなように、数多くの皇室祭祀が21世紀のいまも続けられています。他方では「神社本庁」や「日本会議」など、戦前の祭政一致体制の方が日本の本来あるべき姿に近いのだと考える団体が、政界への大きな影響力を有しています。祭祀と国家のつながりは「政教分離」に深く関わるもので、決して過去のものではなく、極めて現代の問題なのです。