翻訳する言葉の力

 「歴史」という言葉を聞いて一般にイメージされるのは、過去から現在に至るひと続きの物語でしょう。日本では、映像にも描かれる英雄的な「日本人」をめぐる壮大なストーリーが、「歴史」の典型かもしれません。その多くは、今日の文明的な社会や今顧(かえり)みられるべき「日本的」精神性に連なるものとして、人物やその事績を描き出していることでしょう。こうして過去と現在の連続性を美化して物語る「歴史」を、支配層が作り上げる「神話」と批判し、歴史そのものを捉え直そうとした人物がいます。戦争とファシズムの時代を生き、第二次世界大戦のさなかに自死を遂げたユダヤ人の思想家、ヴァルター・ベンヤミン(1892–1940)です。では、ベンヤミンの考える歴史とはどのようなものなのでしょう。この問いに答えるためには、彼が言語をどのように考えていたかを顧みておく必要があります。それをつうじて、歴史が言葉で伝えられることも問うことができるでしょう。

 一般に言語は、情報を伝達するための記号、あるいは意思疎通の手段と解されています。人は自分が体験した物事やそれをめぐる感情を言葉で表わし、それを他人に伝えようとするわけですが、このときそれぞれの言葉は、絵文字のようなものを含め、何かを代理して表わすとされている記号と考えられているのです。しかし、言葉がそのような記号でしかないとすれば、沈黙のなかから発せられる一つひとつの言葉は、何も語っていないことになります。しかし、活字を追うなかで、あるいは人の話に耳を傾けるなかで、物事を言い当て、思いを伝える言葉に触れて、深く心を動かされることがあります。そのような事態は、言語に関する通念では捉えきれません。では、言葉がこの物事を、他ならぬこの人のことを言い表わすという出来事を、どのように考えればよいのでしょうか。そのような問いに向き合ったのが若い頃のベンヤミンです。彼はそのために聖書を参照しました。

 聖書は、世界が神の言葉で創造されたと語っています。「万物は言(ことば)によって成った」と「ヨハネによる福音書」には記されています。このことは信仰を越えて、世界が言葉によって成り立っていることを伝えてくれるはずです。言葉がなかったとすると、闇と渾沌だけがあり、生きる見通しを得ることができません。とはいえ、人間が世界に生きることを考える際には、人間が言葉を発する働きへも目を向ける必要があります。ベンヤミンは、第一次世界大戦のさなかに「言語一般および人間の言語について」という論文を執筆した際に、最初の人間アダムが、神が創った生き物たちの名を呼んだという「創世記」の記述に注目しています。このとき、他の事物の存在に応えながら、その名を呼ぶことを本分とする「人間の言語」が生まれたと論じているのです。

 神ならぬ人間は、他のものを創り出すことはできません。それがすでに存在しているのに、人は遭遇するのです。このことを肯定し、それに応答する瞬間に、人間の言語が名づけ、名を呼ぶものとして誕生します。それは究極的には、人や事物のそれぞれ特異な存在を、神へ向けて証言する言葉なのです。ベンヤミンは、生まれたばかりの子に親が名を授け、その名を呼ぶ場面を取り上げています。このとき親は、全身を真っ赤にして存在を伝えるのを受け止めながら、子の存在を肯定し、子と伝え合う回路を探っています。それとともに、わが子の存在が新たな世界の現実になっていくのです。ベンヤミンは、「コミュニケーション・ツール」として機能する以前に、このような肯定性と創造性において語り出される出来事が、言語そのものを形づくっていると考えたのです。

 もう一度幼子に接する場面に立ち返るなら、子が何かを伝えようとするのを、親は懸命に分節化しようとします。こうして赤子の言語を別の言語へ翻訳するわけですが、ベンヤミンによると、言葉を発するとは、そのまま翻訳することです。そこには、事物が沈黙において立ち現われるのを、別の言葉で言い表わすことも含まれます。それとともに物事が生き生きと語り出され、人間が生きる世界が分節されながら開かれていくのです。人間の言語は、万物照応のなかに絶えず新たに生まれ、世界の現実を成り立たせています。そして、このことを翻訳が貫いているというベンヤミンの洞察は、言語が根本的に、異質なもののあいだで語り交わされることを、そしてある種の「言語」を共有しない他者とのあいだにも、コミュニケーションの回路を開きうることを示しています。

「神話」によるファシズムに抗して

 このように、言語の本質が他の人や事物を名づける肯定性と創造性にあり、名づける言葉は翻訳とともに発せられると考えるベンヤミンの言語哲学の背景には、第一次世界大戦が各国の総力戦として戦われるなかで、国民言語と化した言語が、戦争遂行へ向けて国民を煽るプロパガンダの手段として動員されていたことに対する危機感がありました。「言語一般および人間の言語について」の後半部では、アダムとイヴが楽園から追放された後、さらには天に届くほどの塔をバベルに建てようとした人々の言語が、神の怒りによってばらばらにされた後の世界が描かれますが、そこでの言語の姿に、ベンヤミンが言語哲学を繰り広げようとする当時の近代的な言語の姿の寓意を見ることができるでしょう。それは「われわれ」のあいだの意思疎通に閉塞してしまっているのです。

 近代の歴史のなかで各地に生まれた国民国家は、その領内で支配的な言語の文法体系などを整え、これを教育課程に組み入れることによって、言語を国民統合の手段にしようとします。明治期の日本で「国語」が仕立て上げられる過程も、こうした国家の志向にもとづくものと言えるでしょう。こうして国民言語が作り上げられることによって、同じ言語を話す国民がいるという集合的な意識が醸成され、言語は同じ「われわれ」に語りかけられる情報伝達の手段と化してしまいます。ベンヤミンに言わせれば、言語はもはや、異質なものと応え合うなかに、何かを新たに語り出す言葉として生成する息吹を失ってしまったのです。19世紀には、こうして言語が「国民」のうちに閉ざされたことを前提としながら、「歴史」が国民統合の強化へ向けて物語られることになります。

 19世紀の後半には、実証的な歴史学が精神科学として発展することになりますが、それが史料を積み上げて過去の出来事を再構成し、ある「歴史」を物語るなかで、歴史家が時の権力者の立場に同一化していくことを、ベンヤミンは見抜いていました。そもそも史料自体、多くが当時支配的だった立場から記されていますし、それを蒐集(しゅうしゅう)して管理できるのは、時々の権力です。そのことを暗黙の前提とするなら、現在に至る「歴史」をひと続きに語りうる支配的な立場に身を置くことになります。そこから学問的な権威も伴って物語られる「歴史」を、やがて国民国家の側も、自己正当化のために、さらには自己の美化のために用いるようになります。こうして作られた国家の「正史」なるものが、誇りある「国民」の自覚へ向けて、学校などでも流布されることになります。

 そのようにして作られた「歴史」とは、基本的には「われわれ」の共同体の発展を、それを導いた英雄的な人物の功績を、現在へ連なるものとして物語るものです。そこには、打ち倒された反逆者の立場を汲んだり、理不尽に虐(しいた)げられた者の苦悶に耳を傾けたりする余地はありません。こうした死者の記憶を抑圧した上で、国民の「歴史」がひと続きのストーリーで物語られることになります。そしてこのことは、数々の「文化財」を顕彰することと一体になっています。ベンヤミンは、「文化財」なるものが、植民地支配下の略奪や強制労働を含む「野蛮の記録」でもあることを洞察していますが、同時に暴力の産物であることを覆い隠しながら、「文化財」を残した事績を称揚することによって、国民の「歴史」が、神話として物語られるに至ることも見据えていました。

 ベンヤミンが生きた時代には、この神話のプロパガンダが国民を戦争へ駆り立てていたのです。とりわけユダヤ人である彼が亡命を強いられることになる1930年代には、ファシズムが最先端の技術を動員して国民の神話を、美化しながらまき散らし、人々を一つの「われわれ」へと束ね上げようとしていました。ファシズムが台頭する1920年代から30年代は、写真や映画といった映像技術が目覚ましい進歩を遂げ、情報と娯楽双方のメディアを形成しながら社会に浸透した時期にあたります。とくに1933年に政権を掌握したナチスは、最新の映像技術を駆使して、ドイツ民族の神話に人々を陶酔させようとしていました。そのことを示す例としてしばしば挙げられるのが、リーフェンシュタールが監督して1934年に制作された記録映画『意志の勝利』です。

『意志の勝利』のポスター/1934年

 国民社会主義ドイツ労働者党のニュールンベルクでの党大会を記録したこの映画は、ヒトラーの演説や党員の青年の行進、それらの力強さに熱狂する群衆などを巧みに映し出すことによって、観客に自分も居合わせているかのような感覚を抱かせる魔力を含んでいます。ナチスは、このような映画を大衆に与えることで、「第三帝国」という偉大な作品の創造に参与しているかのような幻想を抱かせたのです。それを指導しているのが、あたかも芸術家のように映像に描かれるヒトラーというわけですが、彼がこうして最新の技術を利用する一方で、アヴァンギャルドな芸術を嫌悪していたことも知られています。ナチスは、これに民族の精神を荒廃させる「頽廃芸術」の烙印を押して抹殺しようとしたわけですが、そのためにも展覧会などによる大衆扇動が図られています。

 ベンヤミンは、こうしたナチスの映像技術を利用したファシズムの背後に、芸術家を「天才」として世界の創造者のように美化し、その作品を「永遠」のものと考える美学、すなわちドイツ観念論などに淵源を持つ、「伝統」と化した芸術観があることを見抜いていました。それゆえ彼は、1935年に最初の稿を書いた「技術的複製可能性の時代の芸術作品」という論文の冒頭で、そこで展開される芸術論において「天才」をはじめとする「伝統的」美学の概念はいっさい用いられないこと、さらにその議論はファシズムにはけっして利用されえないことを宣言しているのです。そのなかで彼は、ファシズムを乗り越える新たな芸術の可能性を、ナチスが利用した映画のうちに見て取ろうとしました。そのために撮影技術をはじめ、映画の制作の技術が詳しく検討されています。

 とくにベンヤミンが注目しているのが、映画がモンタージュ(=アングルなどの異なる複数のカットを組み合わせる技法)をつうじて作り上げられる編集の産物であることです。映画は、複数の視点を突き合わせる批評によって成り立っているうえ、批評を受けて作り替えられる可能性も含んでいます。さらに、レンズという機械の眼で撮られ、モンタージュによって編まれた映像は、衝撃とともに、肉眼で意識的に見ることのできない空間へ観る者を解き放つのです。このような映画を、異化効果を発揮するブレヒトの演劇と同様、没入による陶酔ではなく、覚醒と認識へ観客を導くものとベンヤミンは考えています。一つに束ねられることのない民衆が、近代の生産機構からの解放とともに生成する媒体になるところにも、彼は技術を介して創られる芸術作品の可能性を見ていたのです。