あなたは昔のアルバムを見ています。小学生の頃の自分がカメラ目線でポーズを決めています。当時の顔、髪型、お気に入りだった服。これが私であることに疑いの余地はありません。しかし、なぜそう言えるのでしょうか。写真の小学生と今の私とでは、顔も、髪の長さも本数も、身体の大きさも違います。にもかかわらず同じ私であるというのは、一体どういうことなのでしょうか。

 この問いに取り組む前に、まず「同じ」ということについて確認しておきましょう。

[例1]私はいつも同じ電車で会社に行く。
[例2]さっきキミと同じ服を着てる人がいたよ。
[例3]1万円も10万円も同じだ。

 [例1]の「同じ電車」というのは、ふつうに考えれば、同じ時刻に発車する電車か、同一の路線という意味で、ある一つの電車そのもののことではありません。[例2]の「同じ服」も同じで、それは「キミ」が着ている服そのものではなく、同じブランドの同じ種類の服といった意味でしょう。AとBが「同じ」だというためには、その「同じ」を保証する特徴や条件といったものが必要となります。このことは[例3]を見ると明らかです。1万円と10万円は同じではありません。しかしそれが新築マンションの購入予算だとしたらどうでしょうか。1万円と10万円は「新築マンションの予算」という条件において、(低すぎるという点で)「同じ」だと言えるわけです。

 もう一つのポイントは、AとBが「同じ」であるためには、AとBが異なっていなければならないということです。「1万円と1万円は同じだ」という言い方はふつうしません。「1万円」とひとこと言えば、それで事足りるでしょう。奇妙なことのように思えますが、「真の同じ」(A=A)は、もはや「同じ」ではないのです。

 改めて、冒頭の問いを見てみましょう。小学生の頃の「私」と今の「私」が「同じ」であることは、何によって保証されるのでしょうか。さっきも言った通りそれは、身体的なものではありえません。私たちの身体を構成する細胞は何年かでほとんど入れ替わるし、身体は何十年か経てば成長し、やがて衰弱していきます。そうなると、一番あてになりそうなのは記憶です。小学生の頃の記憶があるからこそ、写真の小学生が他ならぬ自分自身であることを確認できる。記憶が蓄積されているということが、「同じ自分」を保証してくれているというわけです。

 しかし、少し考えればわかることですが、人の記憶というものは実にあいまいです。私などは昨日のことでさえよく覚えていませんし、ずいぶん前のことになると自分に都合のいいように記憶を書き換えてさえいます。しかも、その書き換えたことさえ忘れている始末です。もっと身近な例でいえば、私たちは毎晩睡眠をとりますが、そのときの状態は記憶に残っていません。あるいは、深酒によって記憶をなくすという経験のある方も、きっと少なくはないでしょう。記憶とはこのように、あまり信用できるものではありません。そうなると、私が同じであることを保証するものは、身体的にも精神的にもないということになります。はたして私は、生まれてからずっと「同じ」私なのでしょうか。

 ウィトゲンシュタインは若い頃に書いた『論理哲学論考』の中で私について次のように言っています。

世界と生は一つだ。(5.621)
私は、私の世界である。(5.63)
主体は、世界に属していない。それは、世界の限界なのだ。(5.632)

 私は世界に一人しかいません。それは私と世界が一つであることを意味しています。私そのものは世界に決して登場しません。映画館で映画に没頭しているときのことを思いだしてみてください。スクリーンにはさまざまな登場人物や風景が映し出されますが、そこにこの私が現れることは、決してありません。私とはこの「スクリーン」であり、森羅万象を包括する「透明な背景」なのです(以後、「背景」としての私を、永井均さんのように<私>と記述します)。

 <私>がスクリーンだからといって、そこに登場する他人が映写機の光のような幻だとは言いません。他人はもちろんいるでしょう。しかしそれは映画の登場人物の一人であり、<私>と対等な存在ではありません。<私>と他人とは根源的に非対称なのです。

 デカルトは「われ思う、ゆえにわれあり」と言いました。もしもこの世界のすべてが夢だとしても、その背後にはそう疑っている「私の思考」がある。この世界で最も確実なものは「私」の身体でも「私」の感覚でもなく、「われ思う」というはたらきだということになります。しかし、ウィトゲンシュタインの言うように「私=世界」であり、その「私」が一人しかいない(「一人」とは言えないような背景な)のであれば、私の思考(=思考が私に属している)などということがはたして言えるのでしょうか。つまり、「われ思う」の「われ」はそもそも言う必要がないのではないでしょうか。

 雨がはげしく降っています。路面をたたく雨だれの音、つめたい湿気が一面にたちこめ、雨そのものにつつまれているようです。このようなとき、どこに<私>はいるのでしょうか。すべて(世界)は<雨そのもの>になっていて、<私>はどこにもいない。<雨がある>、いや、<それ>があるだけです。

 いや、そうではない。<私>がいるから雨を認識できるのであって、<私>がいなければまったくの無ではないか。そんな声が聞こえてきそうです。しかし、<私>がいることを誰が認識するのでしょうか。誰もいません。なんせそれは、「透明な背景」なのですから。私たちの視野に<眼そのもの>が登場しないように、世界に<私>は決して登場しないのです。

 もちろん<私>は必要です。世界を開かなければならない。もろもろの現象は<私>というスクリーンによって見えるのだから。しかしそれは<私>が見ているのではなく、<私>の中にその現象が現れているだけ。そこにはもう<私>はなく、<そう>見えるだけなのです。

 このように考えると、過去の<私>と今の<私>が「同じ」かどうかという問いには、そもそも答えられないということに気づきます。<私>とは世界のはじまりであり、世界そのものだからです。「私=世界」が一つしかない以上、それは「同じ」以前の何かとしか言うことができないのです。つまり、「同じ」の必要条件である複数性をもっていないのです。

※本稿は「『私』とはなにか(1)私と世界―『粗忽長屋』」及び「『私』とはなにか(2)二人の私―『粗忽長屋』」中村昇著『落語―哲学』(亜紀書房、2018年)の内容を、トイビトのインタビューへの応答を基に再構成したものです。