いまから30年以上前、たまたま訪れた滋賀県の農村で両墓制と出会い、驚きました。近畿地方を中心に分布する両墓制は、遺体を埋葬する村外の「埋め墓」と、参拝のみをする村内の「詣り墓」の二つから成り立ちます。中国北方漢民族の文化で育った私には、見たことのない墓の形態でした。どうしてこの慣習があるのか、中国漢族(広い国なので、研究対象を漢族中心に絞っています)の葬送慣習とどこが違い、どうして違うのか、そこからわたしの墓に関わる研究が始まりました。そして30年以上研究を続け、その間に墓に関する博士論文を2本執筆し、中国と日本で博士学位を二つ取得しました。

 日本も漢族も先祖を大事にし、祖先祭祀をきちんと行う地域ですが、日本では、個々人としての死者の供養は13回忌や33回忌の年忌法要で切り上げられ、先祖霊と合祀されます。中国にはこのような弔い上げの習俗がなく、個々人の祖先への墓参りと供養が永遠に続けられます。しかし実際に長年の調査で分かったのは、「あいまいな永遠」です。自分の覚えている世代まで(普通、3~5代の先祖までさかのぼります)墓参りするという事例が多いのです。墓参りされない、手入れされないと、墓は歳月と共に次第に地中に沈み埋まっていきます。忘れられた墓はそのように自然に消えてしまうことで個人としての墓参りがされなくなるのです。

 建前上、永遠に供養し続けなければならないのは、霊魂と骨との関係に関する観念、「霊魂観」に起因していると言えます。漢族では霊魂と骨がずっと一緒に存在すると考えられ、風水観念に加え、子孫は墓を人に触れさせず「永遠的に守る」義務を持っています。北京の霊園には、コインロッカーのように遺骨を収納する墓があります。そこには死者の遺骨が収納され、大理石の扉には顔写真が入っています。人々はよく受験や就活などをする前に墓参りをしたり、後日、入学許可証や卒業証書のコピーを扉に貼って報告したりします。ここには、霊魂が遺骨に付いており、祖先は墓に「住んでいる」という漢族の霊魂観念・他界観念が表れています。

霊園の卒業報告

 その一方、日本では弔い上げによって霊魂と骨が分離します。分離した個人としての霊魂は集団性の祖霊へと移行するので、弔い上げが終わったら、火葬の遺骨を収納する墓では、遺骨を骨壺から取り出して墓室内の隙間に入れておくというやり方も存在します。これが調査で知った一般的な単墓制のあり方でした。このようにして墓室に骨壺の置けるスペースを確保し、一つの墓を代々使い続けたのです。

 中国では風水の考えに基づき、墓参りの際においしい食べ物を供えたり、あの世で使えるお金(冥鈔)を燃やしたり、「車」や「家」など紙製の豪華品を供えたりします。墓に入っている祖先の風水環境がよくなると、子孫たちの生活状況もよくなると考えるのです。反対に先祖供養をおこたると風水が悪くなり、祟りがあるとの考えも存在します。病気やケガをしたり、火事になったり、事業に失敗したりする。先祖を怒らせると子孫に悪影響があるわけです。このように、漢族の墓参りには互恵性が見られます。

 日本にも現世利益のために墓参りをする風潮はありますが、中国ほど強くはありません。墓参りの目的は、むしろ純粋に死者の成仏や供養を願うという要素が強いように思います。日本では、墓そのものよりも遺骨を大事にするように見受けられます。漢族も日本も祖先祭祀を大事にしますが、弔い上げのあるなしは、霊魂観や祖先観の大きな違いに起因します。

 日本と中国の中間に位置する沖縄は、琉球王国の時代から風水の影響を強く受け、シーミー(清明祭)のときには門中墓の前に一族が集まり、食べたり躍ったりして賑やかに過ごします。祖先と子孫が楽しんで過ごす一時です。これは福建省から伝わった文化だと言われていますが、沖縄では先祖に何かしてもらおうという意識はそれほど強くありません。墓の庭で子どもが自由に遊んで良いのも、先祖に怒られると怖いという意識がそこまで強くないためです。

沖縄の亀の甲の墓

 福建省の清明節は、始祖に当たる祖先の墓へは、数十人の一族代表の男たちが墓参りをし、墓庭で食事もします。しかし一般的には、自分の一族の先祖の墓に男2~3人で祭祀用品と食品などを天秤棒で担いでお参りします。ただし供え物は、墓の数だけ食器ごと持って行くと調査で気づきました。3つの墓なら3セット分、5つの墓に参るなら供え物の食事を5セット分運びます。墓参りの供え物を使い回さないのは、「それぞれの墓に住んでいる祖先に、その祖先のために作った料理を供えないと失礼」と地元の人々は思っているからです。これも「祖先は墓に住んでいる」、「墓参り祭祀をするのは個々の祖先」という漢族の祖先観、他界観の表れの一つです。

福建省の亀の甲の墓

 現在の中国では、既有霊園の墓の使用管理に注力することが大事だと考えています。墓を大きく作らず、土地を多く使わず、サービスで勝負するのが肝心です。土地の循環使用を考慮したり祭祀に関するサービス項目を増やしたりすれば良いのです。納骨空間は小さくする代わりにさまざまなデザインの墓石をつくって個性を示したり、故人の一生の紹介や座右の銘を示すのも一案ですし、樹木葬や芝生葬も多様なサービスを付けて(遺族の心を癒すのが目的)提唱、普及すべきです。「あいまいな永久祭祀」の特徴を生かし、数世代以上の墓の対応を真剣に考える必要があるでしょう。すでにインターネット上の仮想霊園での墓参りやネットで死者を偲ぶなど、インターネットの活用が目立っており、実際の霊園では墓掃除やお花供養の代行サービスもあり、多様なサービスをネットと提携させていく社会的な需要があるでしょう。

 現代の日本社会は伝承形態が変化しています。口頭伝承→文字伝承→ネット伝承という変遷があります。ネット伝承で育った世代は、口頭伝承になかなか慣れません。伝統を認知させるため、もっとネットを活用して良いように思います。

 また、超高齢社会となった日本では、霊園の土地使用問題が大きな課題となっており、墓地の簡略化にも工夫が必要です。自然環境を考慮すれば、海への散骨よりも自然に帰る樹木葬・芝生葬の方が理想的かもしれません。直葬ブームには葬儀業者の経営が気がかりですが、小さな空間を作り、荼毘に付す直前の10分でも読経したり、故人が好きだった音楽をかけたりするなどオリジナリティーに富むサービスを提供するのは一つの方向性だと思います。簡略化とネット化を進めつつ、故人への感謝や偲ぶ気持ちを表せられるようなサービスを開拓するのは、今の時代に必要ではないでしょうか。

 「怖い」という先入観を持たれがちな墓や葬儀も、問題意識を抱えて訪ねてみると、新たな発見に満ちています。葬儀に関する種々の行為と墓の色や形、大きさ、スタイル、立地などは、その国や地域の文化を物語っており、自文化に思いを馳せることにつながります。私は安易な比較研究を提唱しません。自文化と異文化を比較するためには、まず自文化について深く知る必要があるのです。その上で比較することは、単なる表象の対比に留まることではありません。異文化という「鏡」の前に立って、自文化を立体的に見られるように研究分析することなのです。

構成:辻信行