学ぶこと と 遊ぶこと

石黒 広昭

 何かを学ぶ、というのはどういうことでしょうか。文字を習う、九九を覚える、歴史の年号や科学の法則を暗記する……。一般的な学びのイメージは人を容器」のようなものに見立て、その中にひとつひとつ知識を詰め込んでいく、というものではないでしょうか。容器」に入れるべき知識は大人」によってあらかじめ選別され、ちゃんと入っているかどうかを時折テストで確認される。それを上手にこなした子はいい学校」に行き、いい会社」に入って、いい人生」を送ることができる。だから、しっかりと学ばなければならない、というわけです。

 発達心理学から見た学びは、これとはかなり異なります。それは、ひとことで言うなら、ひとりひとりが世界に意味を構成することです。私たちは生まれた瞬間から、必ず何かに接触して生きています。その何か」と自分との間に意味=つながり」を構成していくこと、それが学びです。お母さんに抱っこされると嬉しい、ハイハイする床がつめたい、お日さまがまぶしい、花からはいい匂いがする、土は床よりもやわらかい……。そのように考えると、学びの機会がない場所というのは、世界中のどこにもありません。子どもたちはいい学校」やいい会社」のために学ぶのだと、目標に向かって仕方なくするものが学びだと思っているかもしれません。しかし、そうではなくて、むしろ私たちはどこにいても、どんな時でも、学んでしまう」存在なのです。

 学びがこのようなものだということを、実は私たちは誰でもよく知っています。幼い頃、畳の縁を道路」にして、おもちゃの車を走らせたことはありませんか。泥でつくった団子を葉っぱの皿」にのせて、ままごとをしたことはないでしょうか? 私たちが、誰に教えられるでもなく、このようなごっご遊び」をするようになるのは、私たちひとりひとりに象徴機能」が備わっているためです。象徴機能とは、大雑把に言うと、ある物畳の縁)を別のもの道路)に見立てる能力のことで、これなしには言語は理解できません。これによって、私たちは新しい意味を創り出すことができます。人間にもしも象徴機能がなければ、鳥のように」空を飛ぶ飛行機も、人のように」考える人工知能も、そもそも、鳥」や人」といった文字さえもが生まれていないでしょう。遊びは真に新たな意味を作ったり、試したりする場なのです。これを学びといわずして何が学びになるのでしょうか。このように、学びと遊びとは元々ひとつのものであり、かつ、それは人間にとっては本能」とよんでも良いほど、本質的な営みなのです。

 ではなぜ、このふたつは分離してしまったのでしょうか。現代の日本の学校教育では、子どもたちは年齢ごとに学ぶべきこと」を設定され、国に決められた教科書に沿って、計画的かつ効率的に学び」が進められていきます。本来であれば子どもたち自身が自ら構成し、獲得していくはずの意味」が、標準化された知識」、既存の正解」として、外から一方的に与えられるのです。これでは多くの子どもが、学びは将来の目標達成のためには大切だけど楽しくないもの、遊びは楽しいけど無意味なものといった認識を持ってしまうのも無理はありません。この誤解は絶望的でさえあります。遊ぶことこそが世界を自分にとって意味あるものとして知ることであり、知の構築なのです。だから、しっかりと遊ぶことは実は楽なものではありません。むしろ時には自分を追い詰め、苦しめることさえあるでしょう。科学者が真理を追求して実験を繰り返す時、絵描きがキャンバスに向かって頭を掻きむしる時、その遊び」は痛みや悲しみさえ伴うものとなるでしょう。しかし、そうした過程こそが人生の素晴らしさを教えてくれるものではないでしょうか。

 イタリアのレッジョ・エミリアという都市では、この学び=遊び」と同じような考え方に基づいた幼児教育が行われています。そこでは、まさに、子どもは世界と接することで、世界、他者、そして自分を知っていくと考えます。たとえば、海が青いのは空の色が映っているからだ、という発見」をした子がいるとします。大人はそれを否定するのではなく、じゃあ、くもりの日はどうかな?」と言って、いっしょに海を見に行く。そこでこの子は何かに気づくはずです。自然の中にある事実を知るのです。そして、新たな意味を構成しようとするのです。

 世界に意味を見つける、構成するそこではそれを探索」と呼びます)のは、どの子にも自然に起こることです。大人の役割はそれを自分が信じる正解」に導くことではなく、その子がいま世界をどのように見ているのか、どんな意味を創り出しているのかを大人の方こそが学び、その子の発達のための環境を準備することです。それは既存の答えを教えるよりもはるかに大変で、何倍も時間がかかることです。しかし、子どもたちにそのような学び=遊び」を保障するのは、その子らの人生を尊重することであり、同時に、その子らを自らの意志を持った市民」に育てることだとレッジョ・エミリアでは考えられているのです。

 日本のこどもはよく先生にそれを勉強することにどんな意味があるんですか」という質問をします。私もたまに学生からどの本を読んでおけばいいですか」と聞かれることがあります。しかし、学びが、これまで述べてきたように、ひとりひとりが世界に意味を見いだす、作り上げていくことである以上、このような質問に答えることはできないでしょう。その勉強やその本にどんな意味があるのか」を知っているのは、それを学び終えた未来の自分だけだからです。私たちは既存の意味に捉われることなく、常に新しい意味を創り出すことができる、いや、創り出さずにはいられないのです。それによって私たちは、この世を生きることに意義を見いだし、唯一無二の人生を生きることができるのです。結果を予期しない挑戦、それが学ぶことであり、遊ぶことです。幼い時に誰でももっている、そうした探究心がいつまでも、そして、誰に対しても大切にされる社会、それが私たちには必要です。挑戦が避けられる社会は安心や信頼がない社会です。失敗を許さない社会、変更をよしとしない社会、それでは遊ぶことも、学ぶことも出来なくなります。今までないモノやコトを想像する力、それが遊び=学び」の中で培われます。それを通して、真に楽しむ自分に気づき、自らを称えながら生きていくのです。

いしぐろ ひろあき 石黒 広昭
立教大学文学部 教授

心理学者。立教大学文学部教授。ヴィゴツキー学派の精神発達理論をベースに、人間の発達と学習の過程を研究。言語、文化、人工物、遊び、授業、放課後活動、移民、保育、教育、演劇などに関する著作がある。国内外で言語的文化的多様性を生きる子どもたちに対するワークショップを実施している。