世界の人々は、日々どんな夢を見ているのでしょうか。夢にも文化の差はあるのでしょうか。
ユング心理学では、夢にはその人の心の状態や、日中は意識していない無意識の内容が映し出されると考えられてきました。夢はすぐに忘れてしまいがちですが、ときに強く印象に残ることもあります。近年の神経科学の研究でも、セルフイメージや他者との関係を考える脳の働きと夢との関連が指摘され、夢とこころのつながりが改めて注目されています。
私たちの研究は、ドイツと日本の心理療法で報告された夢を比較するという試みから始まりました。全体の傾向として、ドイツ人は、夢の「私」がどこかへ向かって動いていく、主体的・アクティブに振る舞うケースが目立つのに対して、日本人は、夢の「私」が受身的に課題に向き合うケースが多いことがわかりました。
この調査の夢見手(夢を見る人)は、心理療法を受けている方たちです。つまり、心が回復していく過程で見た夢になります。ドイツと日本の文化差は、心理療法が終了する頃の夢にもはっきりと現れました。ドイツの事例では、一人でやっていける自己イメージの再生と共にカウンセリングが終了していくのに対し、日本では、他者とのつながりのイメージが夢に現れることがそのサインになる、といった違いです。
こうした文化差が生じるのは、日本人の自己形成過程が、欧米的な自立や“個を確立する”というものとは異なるプロセスを辿るためと考えられます。日本人の夢の傾向は、他者との関係性の中で幸福感を得ていくという、日本人のあり方ともつながるように思われます。
夢の中の「私」もまた、思考する主体性を持つと考えると、文化的背景の違いも、夢に現れる可能性があります。このコラムでは、ドイツと日本だけでなく、欧米および東アジア圏での調査から得られた各国の夢の特徴を手がかりに、夢に現われる文化の違い、そしてそこから見えてくる日本人のこころについて考えてみたいと思います。
アメリカ人の夢
アメリカ人の夢の特徴は、「成功する夢」の多さです。夢の中で自らアクティブに行動し、周囲から称賛を受ける。そうしたポジティブで達成志向のテーマが、数多く見られました。同時に、何らかの脅威に立ち向かう対決的な構造もはっきりと表れています。
例えば、アメリカでは、大統領になる夢が多く見られています。夢の「私」は、強い意志と行動力を持ち、状況を動かしていきます。日中の生活でも、周囲に影響を与え、環境をコントロールすることが、アメリカ人にとって自己肯定感や幸福感につながる、という社会心理学の知見がありますが、夢の傾向もそうした文化的特徴と重なるように思われます。
その主体性の強さは、明晰夢のあり方にも表れます。アメリカでは、夢の中で「これは夢だ」と気づき、それをコントロールしようとする研究が盛んです。一方、日本では、夢だと気づいても、それを自在に操れる人は多くありません。この違いにも、自我のあり方の差が垣間見えます。
また、夢の語り方にも対照的な傾向があります。アメリカ人は夢を詳細に記述し、自分の意志や行為を明確に意識しています。それに対して日本人の夢は、結末がはっきりしなかったり、「私」の存在がどこか曖昧であったりするケースが目立ちます。死の危機に直面しても、そこから幽体離脱するように自分を外から眺める、といった例が少なくありません。
日本人の夢の特徴は、「自分が登場しない、出来事を見ているだけの夢」です。これらは「私」は登場しないけれど、他の人がしていることを見て、そこから気づきを得ているという夢の原型です。自分の存在感が消えているような感覚が、日本人には強いとも言えます。そこでは自己の輪郭は薄れていますが、友好的な他者やつながりのイメージもしばしば現れます。他者との関係の中で自己が形づくられていく――そうした日本人のあり方が、夢にも映し出されているのかもしれません。
中国人の夢
中国人は試験の夢をよく見ます。日本人は試験そのものというより、「試験が近くて焦っている」といった夢が多いのですが、中国人の夢では、試験は「受ける直前の不安」よりも、「受けたあとにどう評価されるか」が重要なテーマになります。そこでは、試験は個人の出来事というより、家族や社会との関係の中で意味を持つ出来事として描かれています。
家族が登場する夢が多いのも中国の特徴です。家族みんなで餃子を食べて楽しかった夢など、家族一体というイメージが見られます。試験と家族は同時に現れることも多く、大学受験のテストでいい成績を取ったので、家族みんなが私を自慢していた、などがその例です。
現代の中国の教育では、独自性や個の確立が重視される一方で、古来の儒教的な協調性も変わらず求められています。試験という個人の達成をめぐる夢と、家族とのつながりを描く夢。その両方が多く見られるのは、そうした価値観の併存を映しているのかもしれません。
また、中国では、社会的な期待を担う理想の自分に変わっている夢も見られています。上場企業のマネージャーになっていた、といったように、理想の「私」がいきなり現れるのです。アメリカ人の夢のように、努力を積み重ねてそこに到達するという物語よりも、「気づいたらそうなっていた」というかたちで描かれることが多い傾向にあります。そこでは、変化の過程よりも、到達した状態そのものが強く印象づけられています。
中国人の夢には日本人との共通性も見られます。汽車の中で乗客と世間話をしていたり、高校時代の同級生と一緒に帰宅するといった、穏やかな日常の夢が多く語られているのです。中国と日本では、特別な成功や劇的な出来事ではなく、誰かと並んでいる時間そのものが印象的な夢として語られる傾向があります。自己は、周囲との関係の中でかたちづくられていく――そうした感覚が、どこか共通しているのかもしれません。
さらに、中国では自然や風景が中心となる夢も頻繁に見られています。小雨が屋根を叩く音、揺れる柳、空を飛ぶ燕。ただその情景を眺めているだけの夢です。こうした夢にもまた日本と共通するものがあり、それは、自然の中に身を置いて何かを見つめている感覚です。中国・日本ともに、自然がこころの回復に深く関わることは、臨床の現場でもしばしば語られてきました。夢に現れる風景の奥には、どこか通い合う感覚があるのかもしれません。
イタリア人の夢
イタリア人の夢には、欧米らしい、比較的強い自我の特徴が見られます。明確な脅威に直面し、それに積極的に対処しようとするといった姿勢です。ただし、社会的成功を目指す傾向の強いアメリカ人や、目的地への到達が強調されがちなドイツ人の夢とはやや異なり、イタリア人の夢では他者との関係が重要な位置を占めています。
日常生活においても、他者との関係を重視し、協調性が高いという点では、中国や日本と通じる部分があります。しかしイタリア人の場合、他者を過度に気にして思い悩むということは少なく、相手の反応をそれほど恐れずに積極的に関わろうとする姿勢が見られます。その違いは、夢の中の人間関係の描かれ方にも映し出されています。
例えば、イタリア人への調査では、亡くなった祖母が家の外で他のおばあさんたちと座り、遠くから「私」を見て微笑んでいるという夢が報告されています。「私」が近づくと、「すべてうまくいくから心配しなくていい」と語りかけてくれる。そこでは自他の境界が明確で、両者の関係は動きのあるかたちで展開しています。
一方、日本人の夢では、亡くなった祖母となぜか一緒に電車に乗っており、ふたりでそのまま揺られているといった場面が語られます。積極的な交流や励ましがあるというより、ただ時間・場を共有している。自他の境界はやや曖昧で、どこか溶け合うような共存の感覚が漂っています。
もっとも、イタリア人の夢も常に能動的というわけではありません。友好的な他者から情緒的に働きかけられたり、出来事をそのまま受け入れている夢も少なくありません。亡くなった友人の部屋にただ佇んでいる夢のように、静かな受容が夢見手の印象に残る例もあります。
このようにイタリア人の夢には、脅威に立ち向かう強い自我と、出来事を受け入れる受容性の両面が共存しています。他者との関係の中で自立していくというテーマが、そこから浮かび上がってきます。
日本や中国では、自然と一体になっている感覚や、誰かとなんとなくいっしょにいる夢が大人になっても続く傾向が見られます。それに対してイタリア人の夢では、他者とのつながりを基盤にしながらも、個としての輪郭がはっきりと保たれています。
イタリアと比べると、日本の夢では自分も他者も主体が強く前に出ることは少なく、「そばにいる」という穏やかな関わり方が目立ちます。積極的でも消極的でもなく、ただそこにいる。そうした曖昧なつながりの中で、他者に触れていること自体が意味を持っているようにも思われます。それが、日本人のこころのあり方の一つの特徴なのかもしれません。

インド人の夢
インド人の夢では、夢の「私」は、はっきりとした意志で状況を切り開いていくわけでもなく、他者と一体化するわけでもありません。むしろ、出来事や脅威にいつの間にか巻き込まれていくような構図が目立ちます。一般にインドというと、独立性や主体性の強さが想起されることもありますが、夢の中には、他者や状況に対する不安や警戒感がどこか静かに漂っているのです。
例えば、父方と母方の祖父が並んで食事をしている場面を、少し離れたところから眺めているという夢があります。家族が登場していても、そこに温かな一体感が生まれるわけではなく、夢の「私」は参加せずに見ているだけです。家族の存在がつながりや安心感に結びつかない点で、中国や日本の夢とはやや異なる印象を受けます。
物語性の強い夢が多いことも特徴として挙げられます。インド人の夢は比較的長く、出来事が連続しながら展開していく傾向があります。さらに、幽霊をはじめとする象徴的な存在が登場する夢も目立ちます。そこには、目に見えない力や象徴の世界に対する親近性が感じられます。
こうした特徴を総合すると、インド人の夢は、能動的に世界をコントロールする型とも、関係の中で自己を形づくる型とも異なる、出来事や象徴的世界に身を委ねながら展開する「第三の型」として位置づけられるのかもしれません。
台湾人の夢
台湾人の夢には、夢の「私」の存在感がやや薄く、輪郭が曖昧であるという特徴が見られます。この点は、日本人の夢とかなり近い印象があります。自己が強く前に出るというよりも、場の中に溶け込んでいる感覚が強いのです。
例えば、みんなでバスを待っていたのに、バスが行ってしまい、みんなで追いかける。ところがバスが戻ってきたので、あわててまたみんなで引き返す、といった夢があります。ここでは個人が単独で動くというより、集団の一部として一斉に動いています。主体は“私”というより“みんな”にあります。
日本でもバスを待つ夢はよく見られますが、仮に乗り遅れても、必死に追いかけるというよりは、「次のバスが来て、結果的に乗れた」というような展開が多い印象があります。そこには、状況に身を委ねる受容的な態度がうかがえます。
それに対して台湾人の夢では、自己の輪郭は曖昧でありながらも、集団として一斉に動く力があります。個として突出するわけではないけれど、場のエネルギーに乗って主体的に動く。そうした集団的なアクティブさが感じられます。
また、対人関係に対する過度な不安や深刻な葛藤を描く夢は比較的少なく、全体としては明るく軽やかな印象を受けます。自己は強く主張しないが、集団の中で自然に動き、過度に思い悩まない。その点で台湾の夢は、日本とも中国とも微妙に異なる自他のバランスを持っているように思われます。
おわりに
こうして各国の夢と見比べていくと、日本人の夢には夢見手のこころが、「私」ではなく、登場人物や風景の中に静かに映り込んでいるように感じられます。そこには、他者とのつながりの中で幸福感を見出していくあり方もうかがえます。
ここから想起されるのが、河合隼雄のいう「自然(じねん)」という概念です。主体が意図した行為ではなく、主体を離れたところで起きる出来事が、思いがけずこころの転機となる。心理療法の現場でも、そのような回復のプロセスはしばしば語られてきました。自ら行動し、目標に到達することを重んじる欧米的モデルとは、少し異なる方向性です。
夢の国際比較は、単に文化の表層的な違いを示すものではありません。そこからは、各国のこころの課題や回復プロセス、さらには幸福感のあり方を見つめ直す視点が立ち上がってきます。夢は個人的な体験でありながら、同時に文化の深層を映し出す鏡でもあるのかもしれません。
(構成:辻信行)
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※本稿は以下の論考の調査に基づいています。
【ドイツの調査】
Roesler, C., Konakawa,H., Tanaka, Y. (2021). Differences in dream content and structure between Japanese and Western dreams. International Journal of Dream Research, 14 (2), 195-201.
【アメリカの調査】
Konakawa, H., Kawai, T., Tanaka, Y., Hatanaka, C., Bowen, K., Koh, A. (2023). Examining the association between cultural self-construal and dream structures in the United States and Japan. Frontiers in Psychology, 14.
【中国の調査】
Konakawa, H., Kawai, T., Tanaka, Y., Hatanaka, C., Li,Q., Koh, A. (2025). Examining the Association between Cultural Self-Construal and Dream Structures in China, Japan, and the U.S. Frontiers in Psychology, 16.


