トイビト運営者
暇さえあれば開いていたYahoo!などのネットニュースを、最近見ないようにしています。ちょっとした「デジタルデトックス」です。仮にもWebメディアを運営する者としてどうなんだという気もしないではないですが、いつも似たような記事ばかり読んでいることに気づいたので、電車の中では初心に戻って(?)本を読むことにしました。哲学の本だったりすると乗車中に1ページも進まないこともざらですが、以前よりはるかに充実感があります。
ネットニュースの特徴として、一本の記事の「短さ」を挙げることができます。聞くところでは、一駅分の所要時間である3~5分程度で読み切れる文字量を目安にしているそうです。見出しにつられてクリックしたところ、本文の短さに拍子抜けしたという人も多いのではないでしょうか。YouTube等の動画も短いものが好まれる傾向にあり、動画を最後まで視聴する人の割合は2~3分のもので4割、1時間を超えるものだと1割にも満たないという調査結果がありました。若者が映画を倍速で見るのも、同じような心理によるものでしょう。
こうした事象の根底に、現代人のコスパ・タイパ意識を見るのは難しいことではありません。得られる快楽や満足度が同じであるなら、それに費やすお金や時間は少なければ少ないほどいいというわけです。しかし私はこの種の理屈に、どうしても違和感を覚えてしまいます。お金の方はまだしも、満足度という感情と交換される(つまりは感情と切り離された)時間というものがどうにも腑に落ちないのです。
時間とは何かというのは果てしない広がりを持った問いですが、人間(生物)の視座に言うならばそれは「生きている」ということに他なりません。世界中の時計が今いっせいに止まったとしても私の心臓は動いているでしょうし、地球が自転を止めたところで、私がやがて死ぬことにも変わりはありません。時間がいのちそのものであるなら、それ自身が生の一部である感情とどうして交換できるのでしょうか。今際(いまわ)の際に人生を振り返り、満足して逝くことが一つの理想だとしても、一生分の満足感を得られるなら今死んでもいいという人は多くないでしょう。
そもそものボタンの掛け違いは、生やいのちという自分自身にさえ不可知なものを、計測可能な物理量である時間に転化(矮小化)させたことにあるのかもしれません。それによって個々の生が社会化され共同で活動できるようになったわけですが、同時にそれはいのちから切り離され、各個人の「所有物」とみなされるようになってしまった。そこにTime is money の「公式」をあてはまれば、稼ぐために生きるという資本主義的人生観が導かれるわけです。
コスパやタイパの発想に欠けているのは、未知あるいは不可知なものへのまなざしではないかと思います。いかに安く短時間でやるかという考えは、その行為の意味(それをやった結果何が得られるのか)を事前に知っていることが前提となります。得られるものと失うもの(お金や時間)を見比べてトクだと思えばやるし、そうでなければやらない。しかしこの「原理」は、何にでも当てはまるわけではありません。その最たるものが学びです。
学びという言葉は「まねび」すなわち真似るから来ているといいます。たとえば幼児が言葉を話すようになるのは親が話しているのを「まねぶ」のであり、言葉の意味を最初から理解しているわけではないのは明らかです。それを踏まえるなら、学びとは(他者を参照しながら)私自身の世界観や価値観を作り直すことであり、意味はその新たな秩序の中で事後的に確認されるものだといえるのではないでしょうか。つまり学びによって何が得られるのかを、その学び以前に知ることはできないのです。
コスパ・タイパを筆頭に、この社会ではあらゆる事柄が交換を基準に語られているように感じます。より多くのものやお金と交換できるものに価値があり、逆に何とも交換できないものは無価値であると。世界の市場化とは正にこの状態のことをいうのでしょう。しかし、いやだからこそ、その論理が適用できない領域があることに、そしてそれこそが私たちの生の基盤であることに、今一度目を向ける必要があるのではないでしょうか。全世界全宇宙にどれほどの物質や生命体が存在しようとも、いまこの瞬間にこの私が生きているという事実は、何とも交換できないのですから。
2024.12.05