自由と距離の社会学後編】

奥村 隆
interview #008
人は互いにわかり合うことができる。生まれた場所や育った環境は違っても、いつかは同じ」人間として、ひとつの理想のもとに身を寄せ合うことができる。良い社会」の前提としてこう考えることは、ごく自然なことのように思います。しかし、社会学から見ると、これは必ずしも自明ではないようです。社会、コミュニケーション、そしてアイデンティティの様々なあり方について、社会学者の奥村隆先生にお聞きしました。
<前編から読む
  1. 貨幣と仮面
  2. レーベンとの糸
  3. 接続するためだけのコミュニケーション
  4. 自由」から自由になる

貨幣と仮面

 コミュニケーションというと多くの場合は、近づけば近づくほど、結びつけば結びつくほどいいんだっていう感じを持つと思うんですけど、ジンメルの言うように、結びつくことによって逆に決定的な亀裂が生じてしまうということもあると思うんです。反対に、分離しているからこそ、距離を取るからこそ、結合することができる場合もある。都市のかすかな嫌悪は、逆に人を結びつけている。距離を取るということが、普通なら結びつかない人同士を結びつかせることができるんだと、ジンメルは考えていたように思います。

――違う人同士であっても、距離をとることによって、決定的な分裂やそこから生じる暴力を避けることができると。

 その考えはジンメルの貨幣論からも窺うことができます。

――貨幣、ですか?

 貨幣というものがあることで、たとえばある本をその著者に会わなくても手に入れることができる。もしも貨幣がなくて物々交換だったら、本を手に入れるために直接会うことでこんな人が書いたのか」といった、余計なことまで知ってしまうことになりますよね。この人のこと嫌いだから読まない、逆に、こいつにはこの本渡さないみたいなことも起こりうる。

 でも、貨幣で取引すれば、商品はつくり手の人格とは切り離される。たとえばデザインした洋服がかわいいとか、育てた野菜がおいしいといったように、つくった人の人格とは関係なく結びつくことができる。貨幣という仲立ちがあるから、テーブルが間にあるのと同じように、距離をとって、全然違う人同士でも結びつくことができるわけです。

 これも一般には、人格と人格が結びつくのが一番いいと考えると思うんですけど、そうすると結びつき得る人の範囲がものすごく狭まってしまう。人格と人格を結びつけようとすると、知れば知るほど嫌悪してしまうということも起こる。貨幣による結びつき、それはすごく淡い関係ですけど、淡い関係だからこそ多くの人を結びつけ、しかも、結びつくことによる嫌悪や決定的な亀裂を防ぐことができる。

――なるほど。

 ジンメルは秘密」についても言及しています。相手のことを知らないということが、人と人を結びつける。私たちはお互いを知らないからこそ一緒にいられる。あるいは、知らないからこそ魅力的になる。相手のことを全部知ってしまったら、多分もう一緒にはいられない。こんな嫌なところがあるんだとか、なんだこの人この程度の人だったのかって。

 その例としてジンメルは社交」をとりあげています。楽しいおしゃべりをしようというときに、その人の持っている深刻な悩みとか、財産がある、こんな地位にいる、仕事ができるといった自慢なんかが入ってくると社交は台無しになってしまう。だから人々は、個々の人格は取っておいて、お互いにただの人間として、もしかしたら仮面を付けて、おしゃべりを楽しむ。そのときに人は、違うもの同士として一緒にいられると。

――社交で仮面をつけるのはそういう理由だったんですね。その人の属性というか、外見や地位といったアイデンティティに関わるようなものを隠して、ただの出席者同士として交流する。

 彼は平等であるかのよう」なお芝居の民主主義」という言い方をしていますけど、たとえフィクションであっても、そこでは違う人同士が関係を結び、対等に社会をつくっていくことできる。そこには自由もあるし、個性もある。そういう社会の姿を想像するわけです。

 フランス革命が目指したようにみんなが一つになるべきだとか、人と人の距離は近い方がいいんだっていうのは、わりと普通の考え方だと思うんです。それに対してジンメルは、むしろ距離をとり、関係が希薄になるからこそできることがあると考えた。逆にそっちの方が、一人ひとり違ったままで、一つの社会をつくることができる。差異を持ったまま一緒にいられるというところに、より自由な社会の姿を見ていたんじゃないかと思います。

おくむら たかし 奥村 隆
関西学院大学社会学部 教授

関西学院大学社会学部教授。コミュニケーションの社会学/自己と他者の社会学、文化の社会学、社会学理論。私と他者はどのようにかかわっているのか、社会学は社会のなかでどんな謎と格闘してきたのかを問うことを通して、社会学という学問の言葉を一度まっさらにして、自分の頭で考えるための道具に鍛え直したいと考えている。最近は、日本の社会学がなにを問い、なにを明らかにしてきたかをとらえ返す仕事をしている。