――まずは社会の定義といいますか、社会の条件、ひとことで言っちゃうと社会とは何かってことなんですけど。どういうものが社会で、どういうものは社会じゃないのか。たとえばで言うと、家族は社会なのかどうか、といったあたりから教えていただけますか。

 社会の条件、ですか。難しい、いきなり難しいです。

――大雑把な質問ですいません。

 どうしようかな。いまここは、社会ですかね。

――なるほど、この場は社会なんですね。

 僕自身は社会が苦手で、人も苦手で、ぜんぜん駄目なんですけども。駄目だから社会学をやることになったんです。

――そうだったんですね。

 たとえばこうやって初めての人と会ってお話をするっていうのも、大人になれば普通はやり方というか作法を身に付けて、ある程度は考えずにできるようになっていくと思うんですけど、僕自身は考えないとできないところがいっぱいあって。人と関わるっていうのはどんなふうにして成り立つんだろう、みたいなことをずっと考えてきたところがあります。

 今日加藤さん(編注:質問者のこと)と初めてお会いして、たぶん共通の何かがあって、きっと分かりあえるところがあるだろうと思うからご一緒してるわけです。でも同時に、お互いに得体が知れないというか、会ったばかりですし、何を考えているのかも分からない。言葉では何か言ってみても、それとは全然違うことを思っているかもしれない。というより、普通はそういうことの方が多いですよね。他者ってそういう得体の知れない存在、いってみれば怪物みたいなものだと思うんです。

 社会とは何かってところに話を戻しますと、そういった他者とのかかわりが全然ないものは社会と呼べないんじゃないかって、僕は思っています。

――得体のしれない他者とのかかわりこそが社会だと。

 たとえば、お母さんが赤ちゃんを抱っこしている。赤ちゃんはお母さんに全面的に頼っているし、お母さんも赤ちゃんを自分のことのように思っている。そこには多分、社会はないと思うんですね。お互いの距離がゼロでシンクロし合っている。そういうことって、人と人が一緒にいると本当に時々あると思うんですけど、それは社会ではない。

 人間だから共通のところはあるけど、僕と加藤さんは絶対に違う。でも、その違う人同士が、こうやって一つの空間をつくっている。お互いの得体の知れなさ、分からなさ、接近不可能性、そういうものを持ち合った人同士が一緒にいる。それを社会と呼ぶんじゃないかって思うんですね。

 距離があるかないかといいますか。お母さんと赤ちゃんが一緒にいるときの距離ゼロの幸せは、この場にはないですよね。ただ、こういうふうに距離があるから、私たちはお互いに違うんだけど話ができるというところがある。こうやって間にテーブルがあるから、違うけど一緒にいられる。それで話しているうちに、ここ似てるなとか、ここ違うなってことが言い合える。

 自分とは根本的に違う他者、接近不可能で、理解不可能な「怪物」。そういう側面は家族でも間違いなくあると思うんです。赤ちゃんの時はお母さんと一体だった子どもも、成長すると得体の知れないところが出てくる。あるいは、長い間連れ添ってる夫婦でも、お互いに「え、こんな人だったんだ」みたいなことがある。そういうのがあるから、しんどかったりもするけど、面白い。そういう異質さというか、私とあなたとは違うんだけど一緒にいる、あるいは、違うから一緒にいる。そういうのが社会なんじゃないかって思います。