19世紀後半から20世紀初頭のドイツを生きた社会学者・経済学者マックス・ヴェーバー(1864-1920)。ヴェーバーといえばこの後紹介する資本主義の起源論の他にも、支配の三類型(伝統的支配、カリスマ的支配、合法的支配)や官僚制論などが有名ですが、かれがなぜこうした問題を取り上げたのかということについては、あまり知られていないように思います。社会学の基礎を築き、今なお新たな発見をもたらす多くの著作を残した「知の巨人」は、その人生において何を追い求めていたのでしょうか。

 マックス・ヴェーバーの人生は、ドイツという国の存在を抜きにして語ることはできません。かれの思想の背後にはしばしば、いかにしてドイツを強大で名誉ある国にするかという問題意識がありました。ヴェーバーの生誕から遡ること4年、「鉄血宰相」と呼ばれたオットー・フォン・ビスマルク(1815-1898)の率いるプロイセンが独仏戦争(普仏戦争)でフランスを破り、プロイセン国王をドイツ皇帝とする連邦国家「ドイツ帝国」が建国されました。ことがここに至るまでには、いささか込み入ったいきさつがあります。

 ドイツ帝国の基になったのは1815年に発足した「ドイツ連邦」であり、それをさらに遡ると962年に生まれた「神聖ローマ帝国」に行き着きます。この神聖ローマ帝国はローマ皇帝を君主とするゆるやかなまとまりで、皇帝はカトリック教会全体の指導者であるローマ教皇と欧州世界の権威を二分していました。ちなみに「ドイツ」という言葉の基になったのは「民衆的」という意味の中世のラテン語です。これには、当時文明的とされていたラテン語ではなく「ゲルマン系の民衆語を話している連中」といった、ネガティブともとれるニュアンスが含まれていました。そのため、当初はイタリアなど帝国外の人びとだけが使う呼称でしたが、時間の経過とともにネガティブなニュアンスが消え、自分たちでもドイツと名乗るようになったようです。

 それはともかく、領土の拡大・縮小やカトリック対プロテスタントの戦争、フランスやスウェーデンの帝国政治への介入等がありながらも存続していた神聖ローマ帝国は、1806年、ナポレオンの率いるフランス軍の侵略を受けて崩壊し、800年を越える歴史に終止符が打たれました。このことがドイツの人びとに与えた衝撃の大きさは計り知ることができません。

 その後、神聖ローマ帝国を構成していた諸国は1815年にオーストリアを議長国とする連合体「ドイツ連邦」として再びまとまりますが、やがて新興国プロイセンとオーストリアとの対立が深まり、1866年にはドイツ諸国を二分するドイツ戦争(普墺(ふおう)戦争)が勃発します。この戦争に勝利したプロイセンが、ドイツの枠組みからオーストリアを追い出し、ドイツ国家統一の主導権を手中にすると、プロイセンの台頭をよく思わないフランスは、ルクセンブルクをフランス領とすることを要求します。プロイセンはこれを拒否。両国間の緊張が高まり、スペインの王位継承問題のこじれが決定打となって、先述した独仏戦争へと突入していったのでした。1871年、ドイツ皇帝がヴェルサイユ宮殿で即位宣言をしたのは、フランスの長年の侵略に対するドイツ諸国の意趣返しだったのでしょう。

 こうした歴史を経て生まれたドイツ国民国家を肯定し、自己自身と同一化してその発展の方途を描こうとしたのが、マックス・ヴェーバーその人だったのです。 

信仰と主体性

 ドイツをより強大で名誉ある国家へと鍛え上げる。そのために必要なのは国民一人ひとりの主体性だ、とヴェーバーは考えました。そこでかれが目をつけたのは、「禁欲的プロテスタンティズム」です。

 聖書と共に、教会を通じて受け継がれてきた儀式や戒律を重んじるカトリックにおいて、禁欲生活とは特別に覚悟を決めた者が教会の中の修道院で送るものでした。欲にまみれた世俗社会から離れることこそが禁欲だったのです。これに対して聖書を絶対的なものとし、信仰を神との契約として捉えるプロテスタントでは、信徒は日々の行いによって自らの信仰心を証明しなければなりません。つまり、プロテスタントの信徒は修道院の中ではなく、世俗社会で自らの意志によって禁欲生活を送らなければならない。それによって主体性が涵養されるのだ、とヴェーバーは考えました。

 しかしヴェーバーは、プロテスタントでありさえすればいいと思っていたわけではありません。かれは、あくまでも個人がそれを主体的に選択する必要があると考えていました。生まれた家がたまたまプロテスタントの教会に属していた――ヴェーバー自身がそうでした――というだけでは、多くの場合、その教義を深く理解することも、進んで実践することもありません。この辺の事情は、日本人の多くがいずれかの仏教の宗派に属していながら、日常でそれを意識することはほぼないのと同じでしょう。

 こうした状況に際して、ヴェーバーはアメリカ社会に特徴的な「ゼクテ」に注目します。ゼクテとは自らの意志によって教義と向き合う「卓越した信仰者の集団」のことで、ヴェーバーはこのゼクテを大衆救済の装置としての教会と対置し、ここにこそドイツ国民が模範とすべき倫理があると考えたのです。こうしたある種のエリート主義は、ヴェーバーの思想における一つの特徴だと言うことができます。

資本主義の起源

 では、「禁欲的プロテスタンティズム」とは、具体的にどのようなものなのでしょうか。最も重要な位置を占めるのは労働です。そしてこのことが資本主義の起源になったとヴェーバーは主張しています。その当否はともかくとして、まずはかれの議論を見ていきましょう。

 プロテスタントの宗派の一つであるカルヴァン派には、最後の審判において救われるものは予め決められているという思想があります。これを「予定説」と言います。しかし、誰が救われる「予定」となっているのかを信徒は知ることができません。また、カトリックには罪を犯した者が聖職者に懺悔し、罰を受けることで赦される「告解」や、かつては、大金を積んでこれを買えば天国に行ける「贖宥状」――ルターがこれに抗議したことから宗教改革がはじまったのでした――といったものがありましたが、プロテスタントには当然そのようなものはありません。すると信徒たちには「自分は救われるのだろうか」という不安が募り、救われる側にいると信じたい一心で労働に精を出す。それが活発な経済活動へとつながっていった。つまり禁欲的プロテスタンティズムにおいては、経済的な成功が「救いの確証」として位置づけられていたのだ、とヴェーバーは主張したのです。もしヴェーバーの言う通りだとすると、資本主義は金儲けの手段などではなく、禁欲的な宗教的実践の結果として生まれてきたということになります。

 しかし、はたして本当にそうでしょうか。ヴェーバーの著作を読む限り、かれの議論はプロテスタントの商人や職人が実際に何を考えていたかではなく、神学者や宗教者の神学思想を分析し、それが信徒の意識と同じだった、少なくとも近接していたということを前提としているように思われます。しかし、宗教的エリートの思想と一般の信徒の意識を単純に等置してよいものでしょうか。仮に神学者が「労働は禁欲的な行ないである」と説いていたとしても、商人や職人がその言葉を受け入れ、日々の商売を自らの信仰心の発露として見ていたとは限りません。

 これと同じような立場からヴェーバーに反論したのはカトリックの経済学者ルヨ・ブレンターノ(1844-1931)です――ブレンターノは、資本主義は中世のイタリアで始まったと主張しています――。かれによると、プロテスタントが経済活動に熱心なのは世俗内禁欲をしているわけではなく、単に信仰を忘れて世俗化してしまったからだ。カトリックが経済活動に没頭できないのは神への引け目を感じるからであり――キリスト教には富を貯め込むことは罪だとする考えがあります――、つまるところプロテスタンティズムとは脱宗教化の前段階なのだ、と。

 これについては、日本に渡来したプロテスタントの行動もひとつの参考になるかもしれません。フランシスコ・ザビエルをはじめ、最初に日本にやって来たのはカトリックの宣教師たちです。かれらには布教への強い意志があり、キリスト教が禁教になった後も、命をかけてイエスの教えを広めようとする宣教師が後を絶ちませんでした。これに対し、秀吉の死後にやってきたイギリス人やオランダ人というプロテスタントの信徒は、もっぱら商売が目的で、布教の意志はほとんどと言っていいほど見られません。その結果、かれらは鎖国下においても一定の交易を許されることになったのです。

 資本主義の起源論はヴェーバーとブレンターノにヴェルナー・ゾンバルト(1863-1941)――資本主義の起源はユダヤ人にあると主張――も加わって三つ巴の論争へと発展しました。営利活動への邁進を禁欲的プロテスタンティズムの心理的帰結として見たヴェーバーですが、同時に、いまや資本主義は自己目的化し、信仰心とは無縁な「鋼鉄の硬い殻」となって、人間を機械化させる空虚な社会をつくり上げつつあるのかもしれない、との見通しを示しています。

ヴェーバーとヒトラー

 冒頭で述べた通り、ヴェーバーの思想や理論の背景にはいつも、ドイツをより強大で名誉ある国家へと鍛え上げなければならないという問題意識がありました。もしもドイツが他国に脅かされるようなことがあれば戦争も厭(いと)わない。というより、ヴェーバーには戦争を、主体と主体との闘争として、美化して見ている面がありました。――ヴェーバーには騎兵に対する無邪気ともいえる憧れがあり、親戚の青年が第一次大戦に従軍すると聞いたときには騎兵を志願するようしきりに勧めています――。

 また、ヴェーバーは卓越した人間、磨かれた人間に強い興味を示し、ダーウィンの自然淘汰説を人間社会に適用しようとする「社会ダーウィニズム」に依拠して、低レベルな外来者は排除すべきだと主張しました。こうしたヴェーバーの姿勢にはヒトラーと共通するものがあり、特にかれの語った「指導者民主主義」――民主主義でリーダーを選び、そのリーダーの政策には文句を言わずに従う――と、ヒトラーの「ゲルマン的民主主義」は驚くほど酷似しています。ヴェーバーがもう少し長く生きていたら、特定の政策などではヒトラーを支持していた可能性は否定できません。

 主体性を何よりも重視し、今よりも強く、高貴になることをドイツにも自分自身にも求めたヴェーバーでしたが、そうした生き方にはやはり無理があるのか、体をこわし、若いうちに大学での仕事はつづけられなくなっていました。疲労がたまると、かれはカトリック圏の美しい教会や文物を鑑賞して心身を癒し、また妻のいる身でありながら教え子の女性に甘えることもあったようです。かれ自身が生涯を通じて、禁欲的プロテスタンティズムを貫いたというわけではありません。

 「知の巨人」と称され、ナチスに転落する前の古き良きドイツの象徴とされるマックス・ヴェーバー。そんなかれにもヒトラーとの連続性があったことは、ヴェーバーの研究業績を理解するためにも、押さえておくべきではないかと思います。ただそのことをもって、かれの人生を総体として評価するべきだとは思いませんし、かれの遺作は依然として知的刺激に満ちたものであると思っています。この時代の人間で、ヒトラーとの思想的連続性があるのは特異なことではないですから。私が危惧するのは、現代知識人のあいだで流行する国民国家批判、西洋近代批判、合理主義批判を、一世紀も前のヴェーバーに過剰に投影するという流儀です。ヴェーバーは近代の人物であって、現代の人物ではありません。


※本稿は『マックス・ヴェーバー――主体的人間の悲喜劇』(岩波書店)の内容を下地として、トイビトのインタビューへの応答をもとに再構成したものです。