新型コロナウイルスの終息が見通せない中、リスクとどう向き合っていくかを考える必要性が高まっています。私たちは生きているかぎり、リスクをゼロにすることはできません。このリスクについての科学的な知見を広く一般に伝えるのが、リスクコミュニケーションと呼ばれる分野です。伝える相手によって表現を変え、リスクをしっかりと理解してもらう重要な役割を担っていますが、日本ではあまり知られていないかもしれません。このコラムでは、リスクコミュニケーションとは何か、そしてリスクとどう向き合うべきなのかについてお話しようと思います。

 リスクコミュニケーションとは、文字通りリスクに関する情報を伝達することです。今あるリスクがどういうものなのか、今後どういった影響がありえるのかといった専門家の知見をわかりやすく翻訳して一般の方に伝えます。たとえば今回のコロナ禍では、専門家の発信する、新型コロナウイルスとはどんなウイルスなのか、感染するとどうなるのか、社会全体や経済活動にはどんな影響が出るのか、その影響を最小限に抑えるにはどのような選択肢があるのか、といった情報をわかりやすく伝えています。専門家と一般市民、つまり情報を持っている側と持っていない側の間には大きな溝があるため、その橋渡しをするものと理解してもらうといいかもしれません。

 ただし、リスクコミュニケーションの目的は市民に正しくリスクを理解してもらうことであり、「こういうリスクがあるからこうしなさい」と、選択を強制することではありません。リスクを提示し、どう判断するかは市民に委ねる、というのが大前提です。

 リスクを考慮する上でよく問題になるのが「リスクのトレードオフ」です。これは一つのリスクを回避することによって新たに別のリスクが生じることで、たとえば、車に乗ると交通事故に遭って死ぬかもしれない、だからといって歩いていくと大切な会議に遅れてしまう、といったような状況のことです。このようなときにリスクコミュニケーターは、日本における交通事故の発生件数や、その内の何%が死亡事故なのかといった情報を提示します。それによって、「車に乗る」というリスクをとるのかどうかを当事者に判断してもらうのです。このように、判断を下すために必要な情報をいかにわかりやすく伝えられるかが、リスクコミュニケーションにおいて最も重要な点だといえるでしょう。

 しかし日本では「情報ではなく、どうすればいいのかを指示してほしい」という人が多いのも事実です。今回の新型コロナウイルス対策で「8割おじさん」と呼ばれた西浦博教授は「強制はしないけれどなるべく外出を控えよう」というような言い方をした結果、SNSなどで「もっとはっきり言うべきだ」といった批判があがっていましたが、リスクコミュニケーターの立場からするとこれは間違いです。前述した通り、情報を受け取った後の判断は本来各自がすべきなのです。この前提が市民の間で共有されていない現状に、リスクコミュニケーションの専門家はとても歯がゆい思いをしています。

リスク=危険?

 日本でリスクコミュニケーションが根付かない理由のひとつとして、子どものころから「正解は一つで、こう答えないと駄目」と教えられる学校教育の問題があると考えられます。先生に言われたことをそのままやるという教育では、リスクを理解して自分で判断するという姿勢は身につきません。また、そもそも日本では「リスク=危険」という認識が流布していますが、リスクは単に危険というだけではありません。

 「リスク」という言葉は、大航海時代に誕生したという説があります。コロンブスが海の向こうにある「黄金の国」を目指していた時代です。当時のヨーロッパでは、地球は平らで、海の向こうには怪物がいると信じられていました。「行くと死ぬかもしれない。でも、黄金が手に入るかもしれない」という状況が「リスクを冒す」ということだったのです。つまり、単に危険だというのではなく、その先には何かしらのメリットがある。それを踏まえた上でどちらを選ぶか、という話なのですが、日本人が抱く「リスク」のイメージには、このメリットの存在が抜け落ちているように感じます。そのことが、リスクをとることのできない日本人が多い理由なのかもしれません。

 リスクに関わる日本の問題として、もう一つ、リスクコミュニケーションの専門家が軽視されているという状況が挙げられます。リスクコミュニケーションの専門家は、原発事故やコロナ禍といった有事のときには駆り出されるのですが、平時においては「役に立たない」と言われて雇用先がなく、結果として専門家が育たないという問題を抱えています。理解するだけでも専門知識を必要とする学術的な情報を、内容を変えることなくわかりやすく加工し、さらに相手に合わせて表現を変えて伝えることは非常に高度な技術です。にもかかわらず、それがなおざりにされている現状は残念というほかありません。東日本大震災の原発事故では放射能という目に見えない脅威の中、専門家でも判断が難しい局面においてリスクコミュニケーションをしている人たちの中には、心ない非難を浴びせられて心を病む人もいました。非常に憂慮すべきことです。

 リスクは決して特別なものではありません。意識しているか否かにかかわらず、だれもが日々、何らかのリスクを負って生活しています。特に、先の見えないいまだからこそ、私たちにはリスクとその先にあるメリットの両方をきちんと理解し、自らの判断によって行動することが求められているのではないでしょうか。民主主義において、どう生きるかを決めるのは、なんといっても自分自身なのですから。


構成:富永玲奈