「しかたなかったと言うてはいかんのです」

 国葬にされた連合艦隊司令長官・山本五十六(1884~1943)。その死の前後から、巷ではこんな替え歌が口ずさまれるようになりました。

 負けて来るぞと 勇ましく
 誓つて故郷(くに)を 出たからは
 手柄たてずに 生きようや
 退却ラッパ 聴くたびに
 スタコラサッサと 逃げてくる

 オリジナル曲である「露営の歌」と正反対の厭戦的な歌詞になっています。すでに庶民たちの間には、口には出さずとも、勇ましい大本営発表の内容を疑う心情が芽生えていました。山本五十六の国葬から79年。元首相の安倍晋三(1954~2022)の国葬が強行されようとしているいま、当時の静かな厭世感には、共感できるものがあります。

 これまで、日本人の他界観や死生観を研究してきた私が、戦争のことを調べてみようと思い立ったのは、昨年(2021年)夏のことでした。ウクライナも台湾周辺も、いまほどきな臭くなかった昨夏、『しかたなかったと言うてはいかんのです』(NHK名古屋放送局・大阪放送局制作)という一本のテレビドラマが放送されました。アジア太平洋戦争末の1945年、九州大学で実際に起きた米軍捕虜8名の生体解剖事件をもとにしたドラマです。興味深い内容でしたが、私には内容以上にタイトルがやたらと胸に響きました。『しかたなかったと言うてはいかんのです』。

 私は子どもの頃、戦死した身内がいると祖父母から聞きました。それは私にとって、祖母の叔父、正確に言えば母方の曾祖母の弟(曾祖叔父/そうそしゅくふ)にあたります。彼がどのような人物で、どのような戦争体験をしたのか、詳しいことを聞いた覚えはありません。現在、私の祖父は90歳を超え、祖母は認知症の症状が少しずつ進行しています。このままではそう遠くない将来、聞いておけば良かったと後悔する日がやってくることでしょう。「しかたなかったと言うてはいかんのです」という言葉に背中を押され、私は戦死した身内について、調べてみることにしました。

親類による話

 まず祖父母の暮らす家に電話をかけました。酷暑にしては元気な声の祖父・雨池勇(1931~)は、戦死した身内の名前が、木下市郎(以下、市郎)であると教えてくれました。勇にとって義理の叔父にあたる人物です。富山に生まれた市郎は、慶応義塾大学入学に伴って上京し、在学中に学徒出陣します。しかし戦争反対の立場で軍部に反抗的だったため、激戦地のビルマ戦線へ送られました。敗戦後、送られてきた骨壺の中には、白い砂が少しだけ入っていたといいます。勇は自分が知っている情報は不確かだということで(実際にそうでした)、祖母に受話器を渡しました。

 市郎の姪にあたる祖母・雨池昌子(1933~)の記憶は曖昧で、客観的な事実よりも、自身の体験にもとづく断片的な記憶に終始していました。市郎は当時昌子たちが暮らしていた家にやって来たことはなく、市郎の兄・木下友治(1915~1999)のように、家の中庭で一緒に池の鯉を見たという記憶もありません。昌子の母・木下梅子(1913~2010)からは、市郎がまじめでおとなしい人だったと聞いています。その一方、兄の友治は社交的でよく喋り、無事に戦争から復員したので、そちらとの思い出はいろいろあると語ります。

 祖父母への電話から、市郎についてほんの少しだけ情報を得ることができました。しかし、これだけではよく分かりません。祖父の勇の証言が事実なら、なぜ市郎はそこまで戦争に反対したのでしょう。なぜ自らの命の危険を顧みず、軍部に反抗したのでしょう。

 調査を進めていくうちに、たった一人の戦死した青年から見えてくることの大きさに驚きました。それは市郎が特殊だったからではありません。むしろ普通だったからです。

見えてきた事実

 私は親類への聞き取りと並行して、これまで心理的に避けてきた靖国神社にコンタクトを取ってみることにしました。戦死者を神として祀り、A級戦犯をも合祀する靖国神社のスタンスに私は反感を抱いています。しかし靖国神社には、ここで祀られている戦死者の基本情報を遺族に開示する「御祭神調査」というシステムがあります。市郎の情報を得ることができるならと電話してみました。市郎の名前と本籍の都道府県、遺族代表者の名前(市郎の場合、母の木下むら)などを告げると、祭神として登録されているといいます。3日ほどで、手元に書類が届きました。

靖国神社の「御祭神調査」

 ここに記載されている情報は以下の通りです。

 1、階級・陸軍曹長
 2、所属部隊・戦車第一師団司令部
 3、死歿年月日・昭和19年7月31日(戦死)
 4、死歿場所・バシー海峡
 5、死歿時本籍地・富山県
 6、合祀年月日・昭和32年4月21日

 祖父の勇から聞いた情報と食い違っている項目が散見されます。陸軍曹長とは、旧日本陸軍で下士官の最上位にあたり、軍曹の上、准尉の下に位置します。所属していた部隊は、戦車第一師団の司令部ということです。戦死したのもビルマではなく、台湾とフィリピンの間に位置するバシー海峡になっています。靖国神社によると、上記情報の出典は各都道府県に保管されている「旧陸軍から引き継いだ資料」であるといいます。そこで次に、市郎の本籍地である富山県に問い合わせてみました。

 富山県の厚生部厚生企画課恩給援護・保護係によると、軍歴資料(旧陸軍)の提供を受けるためには、申請者と市郎との続柄が分かる戸籍資料が必要です。そこで申請者を祖母にして、祖母と市郎との関係性が分かる戸籍謄本を取り寄せました。その上で、祖母の身分証明書と一緒に申請書類を送りました。一週間ほどで届いた「戦没者カード」は、以下の通りです。

戦没者カード

 靖国の資料と比較して新しく分かったこととして、死没場所の緯度経度があります。これによって、死没時に乗船していた船が特定できるかもしれません。また、旭日勲7等を叙勲されたことも判明しました。旭日勲7等はしばしば戦死した兵士に叙勲されるものですから、市郎も例に漏れずということでしょう。

 さらに詳しい軍歴を知りたかったのですが、あいにく富山県では軍籍が大量に失われており(これは富山県に限ったことではありません。詳しい経緯は近藤貴明による一連の研究「終戦前後における陸軍兵籍簿滅失の原因とその類型化」『立命館平和研究』(17)、2016年などが明らかにしています)、これ以上のものは富山県には存在せず、そうである以上、厚生労働省にも存在しないということでした。

俺は死なないだろう

 そうこうしているうちに、祖母・昌子の妹である澤田怜子(1935~)が、重要な手紙を送ってくれました。怜子が、市郎の兄・友治から1996年に受け取った手紙です。市郎について、次のように書かれています。

 母が死亡した後(編注:1976年)、遅きに失したが、私は新聞に弟の動静依頼投稿(編注:戦死者の情報提供を呼び掛ける投稿)を、朝日、毎日、読売に出した。九州~山形に亘り、返信が来た。その中に佐賀の人が上京の折、小平(編注:友治の自宅)へ来てくれたり、そして又、小杉町の大沢円定氏が便りをくれたり。(中略)でも、大澤円定氏の便り「19年1月頃の木下軍曹(編注:市郎のこと)はよく知っているが、急に見えなくなった。」すべて頼りない内容ばかり。
(注)戦況の資料によると…。(編注:この(注)は、友治が記しています)
 南方の戦況日増しに悪化、昭和19年2月末第31軍の創設発令。5師団、7ヶ旅団を左の島々へ転進させた。即ち、サイパン、グアム、トラック、パラオ、硫黄島、その他テニアン、ペリリュー島へ。(すべて全滅です)
 弟はその内のどこかへ転出したはず。昭和19年末、私は弟からハガキを貰った。「俺は死なないだろう」とね。別に転出命令を受けたとか何とか一切記入なし。でも読んだ私「南へ出るな…」と解釈したものです。
――友治から怜子への手紙(1996年10月6日消印)

 この手紙によれば、友治は1976年以降、市郎の消息について新聞各紙で尋ねています。全国から返信が寄せられたものの、市郎の最期について直接知る人からの連絡はなかったようです。友治は戦後に刊行された資料を用い、市郎の南方移転を推測しています。戦車第1師団の拠点は満州でしたので、南方の戦局の悪化に伴い、移転の命令を受けたのだと。それにしても「俺は死なないだろう」という一言から、「南へ出るな…」と直感したというのは、どういうことでしょう。比較的安全な満州に留まるという意味ではなく、南方へ行けという命令が下された後で、「俺は死なないだろう」と書いていて、それを友治が感じ取ったのだとしたら…。兄弟ならではの勘の鋭さが働いたということでしょうか。

 だんだんと市郎についての情報が集まってきました。市郎には子どもがおらず、兄弟たちも他界していますが、市郎の消息を懸命になって探した兄・友治の息子が健在です。私は怜子に仲介してもらい、友治の長男の一郎(1948~)に連絡を取ってみることにしました。

 一郎は、かなりの遠縁にあたる私が市郎について調べていることに驚いているようでした。しかし、自身の「一郎」という名前は、「市郎」からとって友治が付けたのだと教えてくれました。友治は、1943年にハルビンで撮影された市郎の写真を拡大コピーして額に飾り、大切に眺めていたといいます。その写真の裏には、市郎の軍歴が書かれているのだそうです。また、数年前にアルバムの整理をしていたところ、市郎の写真が複数枚見つかりました。私はさっそく、そのアルバムを見せてもらうことにしました。

 西東京にあるホテルのロビーで、一郎は稲架掛けと農村の絵が施された美しい布張りのアルバムを取り出しました。表紙をめくると、魚津大火についての説明が記されています。1956年9月10日に魚津市で発生した大火事によって、市郎の実家は全焼してしまいます。その際、友治がなんとか持ち出した押し入れの3箱の一つに、このアルバムが入っていたのです。市郎が戦地から家族に送った手紙も、この魚津大火ですべて焼失してしまったということでした。

 アルバムのページをめくっていくと、戦前に市郎が家族と一緒に撮った写真、中学から高校時代にかけての写真、そして戦地で撮った写真が続々と出てきました。これらの写真の周囲には、友治の小さな文字で説明が書かれています。次章ではそこから知り得た情報と、私が文献で調べた情報とを総合化し、市郎に迫ってみることとします。