セクシュアリティとは、性に関するさまざまな事柄を指す広範な意味合いを持つ言葉です。かつては「性欲」や「性現象」と訳されることがありました。また、社会的な性別や性役割を意味するジェンダーとの対比においては、性的指向つまりセクシュアルオリエンテーションとほぼ同義で使用されることもあります。つまり、ジェンダーは社会における性分業や女性差別に関わるものとして、いっぽうのセクシュアリティはセックス(性行為)に関わるものとして理解される傾向があるようです。

 しかし、ジェンダーがもっとも意識されるのは、実は異性愛でのセックスの場面です。ベッドの上で男性は男性らしく、女性は女性らしくふるまう。男性は相手の女性が求めている男性らしさを演じ、女性も同じように、相手の男性が期待している女性らしさを演じます。もちろん、セックスのすべてが世の中のジェンダー規範に沿っているわけでありません。それは同性愛があることを考えればすぐにわかることでもあります。様々な可能性があるのがセックスの面白いところ。ただし、ジェンダーが一番重視されるのは異性愛におけるセックスだということは強調しておきたいと思います。

 また、一般に文化的、社会的な性差とされることがら、たとえば服装、ことば遣いやしぐさは、すでに男性や女性とのセックスを予感しているということも付け加えておきましょう。いやいや、お化粧は女性の「身だしなみ」だし、服装はオシャレを楽しみたいからでセックスのためじゃない、という反論が聞こえてきそうです。でも歯を磨くのと、お化粧するのとは違います。前者にジェンダーは(たぶん)関係ないですが、後者は関係します。男女差のある「身だしなみ」はすべてセックスに関係するというのが私の考えです。

 ここから次の問いが生じます。どうして人間だけにジェンダーが存在するのか? という問いです。答えは、人間にとってセックスがいついかなる時に生じてもおかしくないことがらになっているから。

 わかりやすく説明しましょう。現代の人類には発情期がありません。ですから逆にいつでもセックスできるし、いつでもアピールをする必要もある。現代社会においてお化粧は、発情期を失った女性たちによる手の込んだ性的魅力の発現であり、それはお猿の真っ赤なお尻と同じ役割を果たしているといえます。発情期を失って以来、人類は性的魅力についての文化を獲得しました。そのひとつの表れがお化粧なのです。この性的魅力についての文化が、ジェンダーが発生した要因になっているのではないか。換言すれば、ジェンダーが生じたのは、人類が発情期を失ったからではないかと言えるのです。

 このように考えると、セクシュアリティを研究することの重要性がお分かりだと思います。ジェンダーの核にあるのがセックスなのです。とはいえ、私たちがジェンダーと考えることがらすべてがセックスに繋がると考えるのは、明らかに間違いで極論です。

 性的魅力の発現としてのジェンダーは、ある時点で社会的な体制と密接に結びつくことになりました。ジェンダーはセックスというより男性中心の社会体制を正当化することになった。ですから、ジェンダーを性分業や女性差別との関係で論じることは間違っているわけではありません。しかし、そこからセクシュアリティを排除することはできないのです。

 発情期の消滅によって人類のセックスは、時期にも年齢にも関係ない時間を超えた活動となっただけでなく、生殖からも解放されました。人類は、セックスを純粋に楽しめるようになったのです。その結果、性器の結合にこだわらない、創意工夫のできる「セックス」が可能となります。

 また、生殖から解放されたセックスはいつからセックスが始まるのかさえも曖昧にしてしまいます。「身だしなみ」がセックスにつながると考えれば、あなたが朝起きて今日着る服を選ぶ時からすでにセックスは始まっています。つまり、私たちは、いつでもどこでも誰とでもセックスが可能となった人類特有の臨戦体制としてのジェンダー体制に組み入れられているのです。

 もちろん、この体制を「脱ける」ことも可能です。しかし、もはや「身だしなみ」となったジェンダー体制から脱けだすのはなかなか勇気のいることです。反対にいつまでもジェンダー体制を楽しむこともできます。閉経後もセックスを楽しむ女性たちの存在こそ、人類の性が生殖から解放されていることの最大の証拠と言えるでしょう。

 セックスという言葉は、どうしても具体的な性行為を想起させます。これに対しセクシュアリティは、人間の性の曖昧さを示すという点でより適切と言えるでしょう。私たちは、好むと好まざるとも臨戦体制に組み込まれていて、つねにセクシュアリティすなわち性的指向が問われているのです。

 しかも、冒頭の指摘に戻ると、生殖から解放された一見何でもありのはずのベッドの上でこそ男らしさや女らしさが改めて問われます。男も女も羽目を外してすべてをさらけ出せ、動物になれというメッセージと、その真逆の社会的要請が交錯するのがセックスなのです。こんなに矛盾に満ちた活動は他にはないのではないでしょうか。そこにこそセクシュアリティ研究の面白さがあるのです。

 さてセクシュアリティに関する研究には、精神分析や生理学、性科学といった領域での研究があります。私は文化人類学におけるセクシュアリティ研究を行っていますが、その点について少し説明したいと思います。

 文化人類学は、フィールドワークという方法に基づいて異文化を研究する学問です。多くの文化人類学者は一年以上の長期にわたって一つの地域に滞在し、そこで見聞したことをもとに異文化理解を目指します。加えて私たちが当たり前と考えているようなことがらを相対化するという視点が求められています。絶対視あるいは自明視していたことがらについて省みる機会を用意することもまた重要な使命なのです。

 では、セクシュアリティの文化人類学というのはどんな学問になるのでしょうか。先の定義に従えば、フィールドワークに基づく異文化のセクシュアリティ研究ということになります。セクシュアリティは狭義のセックスだけを意味するわけではありませんから、セクシュアリティをフィールドワークすることはそれほど難しい問題ではないかもしれません。セックスそのものについては、実体験の伴わない聞き取りでもいいわけです。しかし、異文化でのセクシュアリティ研究を通じて、私たちに自明のセクシュアリティを撹乱するという目的はどうでしょう。私たちは異文化のセックスについて知ることで私たち自身のセックスを深く省みるようなことになるのでしょうか。私には疑問です。彼らのセックスが奇妙であればあるほど理解の道を閉ざすことになりかねないからです。「この人たちは変態だ」という否定的なイメージを生んでしまっては、相対化どころか異文化理解も危うくなるのです。

 このため、私はセクシュアリティについては意図的に日本を取り上げています。こうすることで、異性愛の男性性に揺さぶりをかけることが可能になると信じています。拙著『癒しとイヤラシ エロスの文化人類学』(筑摩書房)で、AV、オーガズム、風俗ルポ、男性性器が登場するお祭りを取り上げました。他にも売春、秘宝館、精力剤、緊縛、盗撮などについて研究をしています。セクシュアリティはすぐそこにあって遠くにあります。それに向き合うのは学問的にもきわめて困難であり、また自身の思い込みが試されるという意味でもチャレンジなのです。

協力:濱野ちひろ