アイヌ民族は北海道島を中心に、日本列島北部で古くから暮らしを営んできた先住民族です。「アイヌモシリ(*)」とは「アイヌの住む大地」という意味ですが、そもそも「アイヌ=aynu」とは人間を意味し、それに対置される存在として、動植物、山や川や海、太陽と月、火や水、道具類等に宿る霊としての「カムイ=kamuy」があります。アイヌの人びとは食料となる熊や鹿にしても、伝統的な衣類「アットゥシ=attus」の素材となる樹皮にしても、すべてはカムイの世界(=カムイモシリ)からの「贈りもの」であると考えます。「天から与えられたものにムダなものは一つもない」というアイヌの世界観には、人びとが暮らす世界とカムイの世界とのつながり、自分たちはその循環の中を生きているという思想が反映されています。

 アイヌの世界観は、熊の送り儀礼としても知られている「イ・オマン・テ=i-oman-te(霊送り)」にも示されています。熊(kim-unkamuy)の姿となって自分たちの前に現れてくれた神さまを、遊びやご馳走でもてなした上で、その肉と毛皮をいただく。それによって熊は死ぬことになりますが、そこに宿っていた霊は人間たちにこれだけもてなされたという記憶と共に神の国へと帰り、それが次の機会にカムイから「贈りもの」として帰ってきます。この「イ・オマン・テ」という送り儀礼も、目に見えるものだけからは、熊を殺して肉と毛皮をいただく行為にしか見えませんが、そこにはアイヌとカムイとの契約と循環の思想が息づいています。

 アイヌの熊の霊送りは「仔熊飼育型の熊送り」と呼ばれます。熊は冬眠の巣ごもり中に出産をしますが、その母熊を仕留めた後、仔熊は村に連れ帰って大切に育てます。江戸時代に書かれた書物には、人間の母乳で育てることもあったことが記されています。そのように一年ほど育てられた仔熊は、檻から出され、綺麗に着飾り、人びとの歌や踊りとともに「遊ばれた」後に花矢という特別な矢で射られて、カムイの世界へと送られるのです。熊を自然界からの贈りものとして儀式の対象にする事例は、シベリアのハンティ族やスカンジナビアのサーミなど、ユーラシアの北部で広く見られます。しかし、仔熊飼育型の熊送りは、世界でもアイヌやサハリンのニヴフ、アムール下流の埋蔵文化ネギダールやウルチなど、ごく限られた先住民族にしか見られません。

 では、こうした独自の世界観をもつアイヌ文化は、いつ頃成立したのでしょうか。

文化と民族

 北海道島北部のオホーツク海沿岸や離島部には、7世紀(5世紀とする説もあります)から12世紀にかけて、大陸の文化伝統の影響を強く受けた「オホーツク文化」と呼ばれる海洋狩猟民文化が広がりました。一方で、ほぼ同時期の北海道島南西部から内陸部にかけては、「擦文(さつもん)文化」と呼ばれる本州の古代文化の影響を強く受けた狩猟採集と雑穀栽培を生業とする人びとの文化が広がります。14世紀以降の歴史資料に登場するアイヌ文化は、この二つの文化が12世紀から13世紀の間に交流と文化接触をした結果、形づくられたと考えられます――先述した熊送りなどの「イ・オマン・テ」は、そのルーツをオホーツク文化に求めることができます――。ここで改めて注意しておきたい点は――アイヌ民族の歴史に限ったことではありませんが――、文化の変化は一つの集団の中で幾度も起きることであり、文化の変化が必ずしも集団の交代を示す訳ではないということです。

 アイヌ民族は、2008年に日本政府によって公式に先住民族と認められ、2019年にはアイヌ民族を日本の「先住民族」と明記した法律も制定されました。ウポポイ(民族共生象徴空間)が北海道の白老に開設されたこともきっかけとなり、アイヌ文化は全国で広く認知されるようになってきています。一方で、歴史段階としての「アイヌ文化期」が13世紀以降に成立するという考古学的な時代区分を根拠に、アイヌ民族は中世以降に北海道島の外からやって来た集団であり、先住民族ではないとか、北海道の先住民族は縄文人だという主張も提示されています。しかしこのような解釈は正確ではなく間違っています。こうした主張の背景には、文化と民族の混同があります。文化は、人びとの営みの中で生み出されるものであり、また時間の経過とともに変わってゆくものであることを理解する必要があります。

 文化とは――自然がそうであるように――有機的に結びついた連続体です。北海道島の歴史段階として設定されている「縄文文化」も「擦文文化」や「オホーツク文化」も、全て研究者が文化の変化を説明するために区分し、後から便宜的に名付けた概念に過ぎません。北海道島における人類の歴史は、古くはおよそ3万5千年前に遡りますが、北海道島に残された先史文化は、アイヌ民族の祖先が築きあげた文化伝統であり、それらの積み重ねの中から「アイヌ文化」が形づくられてきたのです。

 しかし、こうして長い時間をかけて形成されたアイヌ文化は、近代以降、急激な変貌を遂げることになります。

「内なる他者」とされたアイヌ

 江戸時代の北海道島は、松前藩に支配され道南部の渡島半島の一角にある「和人地」と、それ以外のアイヌの人びとが暮らす「蝦夷地」とに分けられていました。18世紀以降にロシアとの緊張が高まると、幕府は二度にわたり、北海道島を直轄地とします。しかし、江戸幕府においても北海道島や千島列島、樺太島の北方地域の国境意識は明確ではありませんでした。ロシアとの間に条約に基づく国境が確定するのは、近代国家が樹立された明治以降です。

 近代国家は、「国民」という意識を共有する人びとで構成される「国民国家」ともいえます。明治新政府にとって喫緊の課題は、それぞれの藩や旧国という意識を単位(アイデンティティ)として暮らしてきた人びとを、日本という近代国家に帰属する「国民=日本人」として統合することでした――江戸時代の人びとにとって、自分が「日本人」であるという意識はほとんどなかったでしょう――。「国民」を作り出すことは、近代化に基づく国づくりにおいて不可欠な取り組みでした。

 国民には、国語という言語の標準化(一つの言語)と歴史(国の起源の物語)の共有が求められました。明治政府は、「学制」を定め、藩ごとに地域差の大きかった教育制度を廃止し、「国語」と「国史」に基づく「国民」を育成する教育を全国一律で展開していきました。その過程において「我々=日本人」をわかりやすく位置付けるために、我々とは異なる国内の文化や言語を持つ集団、いわば「内なる他者」が必要とされました。そして、アイヌ民族や琉球民族が、日本の近代化においてその「内なる他者」として位置づけられたのです。

 明治政府は当初はアイヌ民族を内なる他者として国民意識の醸成に利用し、やがて「内国植民地」として「日本人化」と「日本文化化」の同化政策の対象とします。アイヌ語を学ぶ機会は失われ、伝統的な狩猟法や川での自由なサケの捕獲も禁じられます。同様の同化政策は琉球でも行われました。こうした植民地化による同化政策は、日清戦争後の台湾や日露戦争後の朝鮮半島でも行われることとなります。

アイヌ研究の課題と展望

 近代化で進められた同化政策は、研究とも無関係でありません。明治から大正時代にかけて学会で活発に議論された「日本人起源論」においてアイヌ民族は、日本列島の石器時代人の末裔として、また縄文土器の製作者として、研究の関心の的となり、その文化の起源や特質が広く論じられました。「文明と野蛮」や「発展するものと滅びゆくもの」といった二項対立的な近代の二分法においてアイヌ文化は、古い日本文化を映し出す鏡として、または研究のカタログとして利用されたのです。

 金田一京助(1882-1971)は、神謡である「ユカラ(*)(yukar)」の研究やアイヌ語研究の創始者として知られていますが、その著書においてアイヌ研究の意義と目的を「日本の国土の原住民」、「アジアの古民族」、「原始社会の生きた標本」として「特殊な価値がある」と述べています。金田一の言葉からは、「滅びゆく」民族や文化という考え方、「遅れた劣った」社会を近代化させることが自分たちの使命であるという考えが伺えます。

 このような植民地主義的な考え方は、遠い過去のものなのでしょうか。今日のアイヌ研究もまた、未だにこのような植民地主義的な研究から脱し切れていないかもしれません。問われるべきは、アイヌ研究が誰によって、誰のために行われているのか、という課題です。

 民族誌資料や考古資料から復元されるアイヌ文化は、アイヌ民族が自ら製作する「自製品」と、交易によって入手する「他製品」とで構成されるといわれています。実際に遺跡からも大陸から持ち込まれたガラス玉や、本州で作られた鉄鍋や漆器等が出土しています。このように、外部から持ち込まれた製品を多く保持し、使用することから、独自の文化がすでに崩壊しているという主張も見られます。しかし、多様な交易品は活発な交易活動を反映した結果とみなすことができますし、さらに重要な点は、外部から入手した品々がアイヌ文化の内部でどのように呼ばれ、社会の中で用いられたのかということであると思います。

 たとえば鉄鍋は交易品としてアイヌ社会に入ってきますが、アイヌ社会では「てつなべ」ではなく、アイヌ語で「ス=su」と呼ばれます。漆器の椀も「ワン」ではなく、アイヌ語で「トゥキ=tuki」)と呼ばれます。とりわけ「トゥキ」は、アイヌ社会では神にささげる酒を入れる器として儀式において使用される重要なアイテムです。このように外部社会からアイヌ社会へ持ち込まれた品々も、アイヌ社会では独自の名称と機能を与えられており、本来の製作地(鉄鍋と椀では、本州)のそれとは異なります。歴史の中で文化を見ていく際には、製品の製作地(どこで作られたのか)ということも大切な情報ではあるけれども、一方で受容した社会の中での名称や機能(どのように呼ばれ、用いられたのか)という視点がより重要であると思います。

 アイヌ民族の歴史や文化の研究は、その多くがアイヌ民族自身ではなく、外部の研究者によって進められてきました。その際にアイヌ文化を特徴づけるものとして、研究者の視点から見て興味深いもの、研究上有用なものが取り上げられてきたことは否めません。研究によって「アイヌ文化」が再構築されてきたともいえましょう。研究のあらゆる過程にその文化の当事者であるアイヌが参画する機会は十分に考慮されてきたとは言えません。そのことをまずは、私たち研究者自身が自覚する必要があります。

遺跡における「カムイノミ」の儀式

 先住民考古学とは、「先住民による、先住民のために、先住民とともに行う研究」であるといわれます。アイヌ民族出身の研究者の数は未だ多くはありません。しかし、やがてアイヌ民族出身の研究者によってアイヌ民族の歴史や文化が語られるアイヌ研究が行われるでしょう。現状において必要なことは、研究のあらゆる過程にアイヌ民族が参画できる環境や機会を作り出すことであると思います。

*アイヌ語表記について:タイトルおよび文中にある「モシリ」の「リ」、「オキクルミ」の「ル」、「ユカラ」の「ラ」は、正確には小さく表記すべきですが、本サイトの仕様の都合により、同じ大きさになっています。
※本稿は『いま学ぶアイヌ民族の歴史』(山川出版社)、「アイヌ民族の歴史文化遺産の魅力」[学士会会報2019(6)]、および「アイヌ考古学とパブリック考古学」[季刊考古学 (133)]の内容を下地として、トイビトのインタビューへの応答を再構成したものです。